圧倒的技術や経験を持つアーティストの背景に迫る【ザ・スキルズ】第一回 ゲビル:若≪和太鼓師 広純 - HIROZUMI≫

インタビュー
音楽
2017.6.15
 
ゲビル:若≪和太鼓師 広純 - HIROZUMI≫

ゲビル:若≪和太鼓師 広純 - HIROZUMI≫

――その後は、2008年にポニーキャニオンを卒業し、同時に所属事務所も卒業し、独立していますが。

そうですね。メンバー4人でやっていきますと。全員個性的で、生意気だったと思います…。散々色々な方々にお世話に成りましたが、やっぱり自分達だけで一から総てを創り上げたいと思って。決してこれはレコードメーカーさんを否定するわけではないです。自分等が独創的過ぎで。それで29歳の時に「株式会社Hero’s Me」という会社を立ち上げました。この会社名に込めた想いは、僕がヒーローなのではなく、Hero'sをMe(僕)が斡旋したいと言う意味です。会社としてメンバー4人で生計を立てなければいけないので、当然メンバーにはシビアな話もしなければいけなくて、そうなるとこいつらと一緒に運営するのはギクシャクすると言う事が判明しまして。それでゲビルは…僕も含めて会社をクビにしました。ただ会社は潰せないので僕は僕で和太鼓指導やイベントプロデュースとか絵の仕事を継続し運営をする方向にしました。

――ゲビルで稼ぐことを辞める、メンバーはどんな反応だったんですか?

気が楽になったのではないでしょうか。僕も悔しかったですが、その方が気が楽でした。なにより仲間が…僕はゲビルのメンバーが好きでした。そもそも楽しくライブを演っていた仲間に対し数字のことを言うのは本当に嫌でした。純粋に音楽が作れなくなってしまうので。僕はソロ活動とかは正直興味はありませんでした。ゲビルというバンドを腹を括ってやってきて、総てをゲビルに賭けてきていたので、それまでソロ活動は演りませんでしたし、掛け持ちのバンドもやらなかったです。メンバーにもそれはきつく言っていました。他のバンドからヘルプを頼まれても、サポートメンバーにはなるなと。そのポリシーをずっと護ってきました。でも、会社も守らないといけないでの、そんな僕がソロ活動をやり始めました。そうなるとメンバー同士の気持ちのすれ違いも出てきますよね。ポニーキャニオンを卒業した時が、ちょうど結成10周年で、活動封印までの5年間は、むちゃくちゃメンバー間はギクシャクしていました。曲1曲創るにも、どういう意味があって何のメリットがあってこの曲を作るのかという企画書を提出しないと、曲を作らせませんでした。曲のアウトラインが完成するまで、作曲した人以外口を出すなという感じでした。メンバーがここのフレーズはこう変えたいと言ってきても、いや、まず土台を作って、そこから初めて編曲し、それで印税率が変わるんだ、というようなシビアな話をし合わなければならなくて。今となっては、いいじゃんみんなで分ければ!、という感じですが、当時は会社として仕事としてガッチガチでしたね。

――でもメンバー同士の絆は切れないですよね。

切らないです、僕は死ぬまで守るって決めているので、どんなにそいつが悪でも、僕が体を張って守ります。

――活動をストップするという選択肢、その間で紆余曲折あって今日に至るわけですが、今回もう一回やろうという事になったいきさつを教えて下さい。

封印祭ライブが5年前で、封印以降はそれぞれ縛りがなく、僕以外のメンバーは音楽活動やっていませんでした。でもやっぱり解散だけはしたくない、またいつか、でもそれがいつなのかはわかりませんが、未来への希望だけを残しておこうと、それまで使っていた機材などを保管している倉庫があって。解散するのであれば、全部処分してしまえばいいのですが、でも次の祭りがあるかもしれない、その時のために繋がっていたいという想いが詰まっている倉庫ともいえます。倉庫のレンタル代は全員で折半しているので、年に1~2回、集金のために近況報告も兼ねて集まっていました。それまでは会った時も淡々とした感じでしたが、2年くらい経った時、わだかまりもなく、笑顔で会えたので「じゃあそろそろゲビルやるか」って僕がいいました。でも他の3人がノーでした。その次の年もそういう話をした時、みんなノーだったので、その時もう俺からは一生言わないと決めました。こうやって笑顔で会えても、バンドはできないのかと…。

――楽しくお酒を飲めても、もう一度バンドをやろうという気持ちは別なんですね。そこがバンドの楽しさであり難しさなんでしょうか。

それくらいメンバー皆が全てを賭けてやっていたからだと思います。一度やるというと、どれだけ物理的にも精神的にもエネルギーを使うかという怖さもありました。去年集まった時、メンバーの一人が来年は20周年だねと言い出して、僕もその想いは心のどこかあったと思うし、その時みんながすごく素直だったんです。僕らの結成記念日が7月1日で、それで来年のカレンダーを見ると、その近辺が金・土・日曜で、何かできるんじゃいかと盛り上がって、じゃあやるかと言って、不思議とそこでひとつになれて。活動を再開するというより、20周年記念をやろうというノリに不思議となりました、5年かけて。7月1日の前夜6月30日にライブハウスを押さえる事ができました。

――リハで久々に全員で音を出してみて、いかがでしたか?

みんなやっぱり音が体に入っていて、何の曲をやるのか決めないでスタジオに飛び込み、その時やりたい曲をやろうと言って、せーので音を出したら、みんな覚えていてびっくりしました。これが15年間やってきての5年間のブランクだと。みんな体に入っていて、構成も身体に入っていて、僕も歌詞も全然覚えているし…、活動封印後は寂しくてゲビルの唄は歌いたくなかったけど、その時スラスラ歌えて…。ブランクは大したことなかったです。やっぱり大切なのは、それまでやってきたことに対して嘘をつけないというか。今まで憑いてきてくれたお客さんの事は絶対に裏切れない。この4人で責任を持ってやっていかないとダメなんです。なので、いくら関係性がギクシャクしていても、メンバーチェンジというのは僕らの選択肢にはありませんでした。

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