『CREATORS INTERVIEW vol.2 丸谷マナブ』――第三者の”俯瞰さん”が自分の中に現れてから変わった
ソニー・ミュージックパブリッシング(通称:SMP)による作詞家・作曲家のロングインタビュー企画『CREATORS INTERVIEW』。第二回目は、AKB48のシングルを多数手掛け、KAT-TUNや三代目J Soul Brothersなど男性グループへの楽曲提供から、Little Glee Monsterのプロデュースワークまで、着実に活躍の場を広げ続けている丸谷マナブが登場。アーティスト活動から作家デビューまでの経緯、そしてプロデュースワークやコライトの話などをお届けします。
アーティストとして経験した二度の挫折から作家デビューへ
――丸谷さんは作家として活動する前に、2人組の宅録ユニット・sunbrainとして、'05年にメジャーデビューを果たしてますよね。
そうですね。元々は18歳くらいから1人でやりたいと思っていたんです。ずっと札幌にいて、宅録で作ったデモテープをひたすら送る日々を続けていたんですけど、24歳の時に、まだ何も決まっていない状態で上京したら、sunbrainが動き出して。職業作家として男性シンガーを探していた南ヤスヒロさんと出会って、2人ともインディーズ活動もないままいきなりメジャーというフィールドでやらせてもらうことになって。一緒に作ってみることに面白さを感じたスタートだったんですけど、なかなか上手くいかなくて。2人で話もたくさんしましたし、後悔がないように、いい曲を出そうと自分たちなりに頑張ったんですけど。
――最終的には、5枚のシングルと1枚のアルバムを出して、'09年に活動を休止しました。丸谷さんはそのあと、ソロ活動をスタートさせますよね。
そうですね。今、この経験をしたあとでもう一度1人でやれば絶対に上手くいく、という自信があって。それで、遅いんですけど、28歳くらいの頃からソロ活動を始めたんです。でも、やっぱり上手くいかなくて。3年くらい経ったタイミングで、sunbrainを含め、自分のアーティストとしてのヒストリーを考えたら、思い切り挫折して、もう終わったな、というくらいに感じた時がありました。あれは挫折としか言えないですね。音楽をやることに恐怖心すらありました。
――作家として活動し始めたきっかけは何でしたか?
sunbrainの時は給料制だったので、音楽だけで生活できていたんですけど、ソロになったら自主制作なのでレーベルもないですし、働かなきゃならなくなって。そこで病院勤めをするようになるんですよ。医療事務というか。フルタイムで働きながら、休みをもらいつつ、シンガーソングライター活動をしていたんですけど、そのまま3年半くらい経ってしまい、先輩から「このまま医療従事者になるかどうか、お前の人生的にそろそろ決めたほうがいいんじゃないか。もう音楽をやっているから休みをもらうとか、特別扱いはできないから」と。そういう話になりつつある時期だったんですよね。そこで何を考えたかというのは、話すと長くなるんですけど(笑)。
――(笑)。そこで何を考えたかを聞かせてください。音楽を続けるのか、辞めるかという選択肢を提示されたわけですよね。どうして職業作家の道を選びました?
札幌から上京した時の気持ちとほぼ一緒ですね。選択肢がすごくはっきりと分かれて、どちらが後悔するだろうと考えた時に、「本当にやりきったか?」と自問自答する時が絶対に来るから。その時は「やりきった」と言える自信が全くなかった。「まだ可能性があるんじゃないか?」って。「SMAPか嵐かAKB48に楽曲提供できればいけるんじゃないか?」というすごく単純な発想にもなって。それで、「その時に持っていたお金がなくなるまでやってみよう。そのあと、どんな人生になってもいい」と思えたんです。やりきったら後悔しないから。だから、自分は成功するために決断したというよりは、後悔を残さないために、自分の中に残っていた音楽に対するパッションを、なんなら殺すために、病院を辞めさせてもらって、もう一度ニートに戻ったんです。
――ニートに戻るというか(笑)、音楽に専念する決意をしたわけですよね。それが33歳の時。
そうですね。結果的には初めてそこで作家をやる決意をしました。やれるかどうかは分からないし、自信があるもないも考えず、とりあえずトライしてみたという感じですね。でも、僕は“一歩決断して踏み出したら一個動く”と思っていて。病院を辞めた次の週くらいに、多和田えみちゃんっていうシンガーの子に1曲提供することが決まって。「涙がでた」というバラードなんですけど、いきなりアレンジまで任されて。病院を辞めたあと、本当はメンタル的にキツかったと思うんですけど、それに没頭できたからよかったんですよね。
自分のために書く曲から誰かのために書く曲へ
――女性ソウルシンガーですよね。そのあとも、福原美穂さんや渡辺美里さんに楽曲を提供してます。順調な滑り出しですよね。
ただ、その頃はまだ、自分で歌えるような曲を作って、それを提供していたんですよね。福原さんや美里さんに提供したバラードも、自分に合うバラードなんです。提供用に誰かを意識して書いたわけじゃない。ずっと1人でやりたいと思っていたから、作曲は自分のために書けばいいもの、自分が納得すればいいものだったんです。要するに、自分は客観視があまり入らないままずっと作ってきていたんですよね。
――その意識が変わった曲をあげるとすると?
やっぱりAKB48の「永遠プレッシャー」ですね。元々はバンドでやりそうなギターロックの曲だったんですけど、それがいきなりシングルの表題曲に決まって。たまたま秋元さんの特性というか、あまり出会ったことのない作風をいつも求めている方なので、自分の曲がすごく新鮮に映ったというのもあると思いますし、これをビギナーズラックと言わず何と言う?みたいな感じがあって。そこで得たものは大きかったですね。そのあと、いろんなテレビ番組で歌ってもらうようになって、言葉にするのが難しいんですけど、自分の頭の中の音が聞こえるぐらい、仕組みが入れ替わっていくんですよ。フェス的な番組で自分が作った曲がボーンって鳴らされたりとか。
――FNS歌謡祭やMステの特番でも歌ってました。
B'zから「永遠プレッシャー」、ミスチルみたいに流れるのを観て、脳がやられたんですよね。それまですごくもやもやしていた霧がブワッと晴れて、ゴールがずっと見えるようになったんです。こういう曲を書いたらこういう風に歌われるっていうところまでの筋道がフワーって開けて。今、思えば、成功体験ってこういうことか、と。そこから、いろんなことが書けるようになって。眠っていたものが1曲でアップデートされたんですよ。それはきっと、表題曲じゃなかったらできなかったと思います。
――'12年12月リリースなので、まだ33歳の年ですよね。いきなり表題曲に抜擢されて、チャート1位になり、ミリオンセラーを獲得して。
運良く、周りにはまだ表題曲を書いている人があまりいなかったんですよね。だから、すごく注目もされましたし、それがきっかけでこういう作家がいるんだというのを知ってもらえたり、イベントとかがあった時に声が掛かるようになったり。1曲でもたらしてもらった功績というところで言うと、一番大きいかなと思います。
――病院を辞める時に掲げてた目標の1つをいきなりもうクリアしてますよね。
あまり実感はなかったんですけど、いざ決まった時に「あ、出版会社が事務所だったら作家さんいっぱいいるじゃん」と思って。作家ってどうすればいいの?みたいなことをその時に初めて思って(笑)。作家をやろうと覚悟はしたけど、いざ扉を開けてみたら、敵が強すぎる!みたいになって。一応、道は開けたけど、戦わなきゃいけない相手を考えた時に、「表題曲は決まったけど、正直半分運だし、こいつらと戦っていけんのかな」って。プレッシャー……「永遠プレッシャー」にかけるわけじゃないですけど(笑)。本当にリリースから1ヵ月後ぐらいから本当に怖くて怖くて。
――それはsunbrainとしてアーティストの扉を開いた時とは違う感覚なんですね?
全然違いますね。扉を開けてみたらあまりにも敵がいすぎるし、その時はもう33歳で。一度諦めて挫折してからだったので、自分の才能というものに対してはどこかで疑っているんですよね。
――情熱は残ってるけど、音楽に対する自信はちょっと失ってるってことですよね。
AKB48の曲が書けたから、ミリオンセラー作家だったら、それこそSMAPにも書けるはずだっていう発想にはなりますけど、果たして肩を並べる曲を書けるかというと、自分の曲を聴いた時に「いや、ちょっとビギナーズラックだべや」と。初めてそこで現実を知って。実際「永遠プレッシャー」の直後も2、3曲決まったんですけど、その後、ざっくりと空くんですよ。それが辛かったですね。時間が経てば経つほど、本当にただ運良く1曲決まっただけの男に、何ならもう忘れ去られていく存在に、日に日になっていっていたので。次の「ハート・エレキ」という曲があるんですけど。
――'13年10月リリースなので、「永遠プレッシャー」からはちょうど1年後ですが、その1年って長いイメージなんですね。
ものすごく長かったですね。ギリギリでした、メンタル的には。自分の中では時が経てば経つほど焦っていく感じでしたね。毎回これで最後と思いながら、本当に絞り出すように書いていました。「ハート・エレキ」は、GSという、お題がすごく明確にあったコンペで。自分的には作家の能力が著しく低いと思っていたんです。こういう曲が欲しいと言われても、その通りに書けない。自分の好きなように書けと言われたら、たまに突き抜けたものが出せるけど、職業作家としてやるならオーダーに応えられないとどうしようもない、というのが分かっていたので、そういう曲を書けるようになりたいということを1年間ずっと求めていたんです。「ハート・エレキ」は、自分にしか出せない色を、GSというサウンドに応えながら、自分の作風に落とし込んで勝つことができた1曲だったので、根っこの部分の自信に繋がったような気がしますね。それがないと次の「ラブラドール・レトリバー」もなかったので。
――この頃から、作家として、より客観的に自分の曲を見るようになったんでしょうか。
そうですね。いつも“俯瞰さん”がいて、以前のように“好き勝手に作ろうとする自分”もいて、それを“司るような人”もいて。プレイヤーと監督みたいな絵は、そんなことも考えずに作りきるのが本当は理想なんですけど、行き詰れば詰まるほど、分離していく感じはあります。良いメロディーか悪いメロディーかなんて誰も分からないんですけど、決定していかないと進めないですよね。その決定の連続なんですけど、「このメロディー良いなぁ」って思えて、そのまま「イェーイ」って言ったまま作って、本当にそれが良ければこんなに幸せなことはないんですけど、そうとも限らない。その時に、「これ、お前にとってはいいけど、オーダーしてきた人にとっていいのか」と自問自答してくれる第三者が自分の中に現れ始めて。「確かにそうっすね、先輩」と(笑)。そんなことを考え出してからは、できるようにはなったけど、しんどくなりましたね(笑)。
――(笑)。「ラブラドール・レトリバー」はフレンチポップになってました。
コンペによって違うと思うんですけど、その時、“フレンチポップ”というお題に対しての差別化ができるとしたらサウンドだと思ったんです。当時はどんな音が鳴っていたのか分からないですけど、今、YouTubeで観れるフレンチポップは、音の悪いローファイなストリングスだったり、ブレイクビーツに聴こえるようなドラムだったりがある。イントロからのそういう質感がないと、普通になってしまうな、と。なので、「ラブラドール・レトリバー」に関してはサウンドからアイコンになるように落とし込んでいきましたね。
――それが2014年に年間で一番売れたCDとなって、日本レコード大賞で優秀作品賞を受賞しました。楽曲が評価されたってことに関してはどう感じてました?
それは単純に嬉しかったですね。3曲目でやっと1年を代表する曲になることができたし、そこまでいくと、改めて今後もAKB48の曲を書けるなら「恋するフォーチュンクッキー」や「ヘビーローテーション」みたいなものを残さないと絶対にダメだなという、次の目標というか夢も出てきたし。
――もう自信も取り戻して?
自信はね、みんなそうだと思うんですけど、脆いですね。「ラブラドール・レトリバー」は作ったけど、過去のことだし、もう作れない可能性もあるし。簡単に自信なんてなくなるので。そのへんはいつも考えちゃいますね。自信があった時もなかった時もありましたけど。
プロデュースワークから学んだメッセージ性の大切さ
――'12年から3年連続でAKB48の表題曲の作曲を担当し、'15年にはLittle Glee Monsterの「ガオガオ・オールスター」「好きだ。」と作詞、作曲、編曲、プロデュースの全てを手がけてます。
それまではAKB48が代表的な実績で、コンペに曲を応募するだけの人間だったんです。「ガオガオ・オールスター」はポケモンの曲として作ったものをたまたまリトグリが歌ってくれて。「これは面白いな」と思って。いきなり深く知ることができたし、それで改めてリトグリのコンペにチャレンジした時に、次にリトグリが何を唄えばいいのかというところを考えて。「好きだ。」はソニアカという講義の時に作った曲なんです。生徒さんと一緒に同じコンペをしましょう、みたいな企画があって。僕は先生役なので下手なものは出せないんです(笑)。こういう思いで作ったとか、生徒さんに説明しないといけなかったし、デモとして荒削りでも、誰が聴いても強い曲を求められている時だった。それで、リトグリのソウルルーツや、ハーモニーを生かすという作風は踏襲しながらも、今、何を唄わせればいいかと考えた時に、「好きだ。」というタイトルだったら、普通はラヴソングを想像すると思うんですけど、自分からしたら娘でもおかしくない次世代の次世代の彼女たちが、外国人が言い合うように、「好きだよ」っていう言葉を友達やメンバー同士で照れずに言っていたとしたら、すごく未来は明るいなと思って。そのイメージが彼女たちのすごくポジティブなパワーのある歌にリンクしているように感じて。だから、サビの<「キミ」が好きだ ホントに好きだ>というところを、今の彼女たちがラヴソングとしてではなく唄うことで、彼女たちにしか唄えないものができるんじゃないかなと思ったんです。もう16~19歳になってるから、今、唄うとちょっとラヴソングに聴こえるかもしれない(笑)。あの時にしか唄えないものを出す必要があったんですよね。だから職業作家として頑張っているし、講義もさせてもらっているんですけど、言葉も含めたメッセージ性というのは、自分でやりながら、こんなに強いんだ、こんなに重要なんだな、というのをすごく学ばせてもらいましたね。この曲はドラマのタイアップもついていて、ドラマに合わせていろいろ話があるんですけど、最初のコンセプトだけは残るんですよ。変えようがない。こういうものをもっとアウトプットしていかないとダメなんだなって。曲を書いて、アレンジして、歌詞も書いて、Voディレクションから全てプロデュースできた作品。そして一定の評価も得ることができたし、僕にとっては代表曲の1つで、ターニングポイントの1曲にもなっていますね。
――リトグリにとっても、ブレイクスルーを果たした代表曲になってます。
なかなかそれを超えられていないのは自分的にも歯がゆいんですけど、とはいえ、作家としての今後を見据える上でも、リアルなターゲットになっている気がします。「永遠プレッシャー」は人生のターゲットかもしれないですけど(笑)。
一流のクリエイターと組むことでシングルを勝ち取る喜びを感じられたコライト
――作詞、作曲、編曲も含めたプロデュースワークがある一方で、丸谷さんは海外作家さんとのコライトも積極的にやってますよね。
そうですね。タイミングもあったんですけど、やっぱり「永遠プレッシャー」のおかげで呼んでいただくことになって。基本的に1人でずっと作ってきたので、共作できるというだけですごく喜びを感じていました。
――共作というのはどのように作業するんですか?
作家が集まって、ライティングセッションをするんです。スタートラインとしては一応、トップライナーとトラックメイカーというのは割り振られますけど、始まったあとは曲になればよくて。例えば、KAT-TUNの「UNLOCK」(2016)は韓国で作りました。欧米人を含めて20人ぐらいでキャンプ(=作曲合宿)をしたんです。そこで毎日、作家の組み合わせが割り振られて。何を作るかはある程度自由なんですけど、一応こういう案件がきています、というのがあって。自分が参加する時は、日本人なのでジャニーズだったりLDH系が多いです。「UNLOCK」はそういうセッション曲の中で初めて獲れた表題でした。ジャニーズってやっぱり書きたいんですよね(笑)。SMAPは解散してしまいましたが、なかなか1人だと届かなかったところに、みんなと力を合わせてシングルの表題を勝ち取った喜びというのは意外と大きくて。1回それを味わってしまうと、セッションって本当にいいなと思いましたね。
――ライティングセッションに参加して感じていることはありますか?
僕はきっと、トップクリエイターとのセッションをSMPの中で一番体験させてもらっていると思いますね。三代目J Soul Brothersの「HAPPY」(2017)はイギリスで作った曲で、イギリスには4回キャンプで行っています。やっぱり絶対に1人では作れない曲が毎日生まれるから、その価値は高いですよね。決まればもっといいですし、決まらないこともあるんですけど、みんなで同じ方向を向いてみんなが納得できるものを作る喜びって、年齢とか関係なくみんなが持っているものだと思うんですよね。プロジェクトを成功させる、とか。プロジェクトという点で言うと、曲が決まらないと成功していないことになるのかもしれないですけど、1人だとそこすら感じられなくなっていくことが多いので。ひねり出す苦しさはあるんですけど、ちゃんと一流どころの方たちと組ませてもらっているので、いい曲にならないということはなくて。それはすごくいい経験をさせてもらっていますね。
――北海道で宅録してた人が、今やイギリスや韓国で、スウェーデン人やドイツ人に混じって一緒に曲を作ってるという。すごい人生ですよね。
苦しいですけどね。ちょっと出来過ぎてるのはありますよ(笑)。
――今後はどう考えてますか?
チャンネルはいくつかあっていいと思っています。コライトがあり、「好きだ。」のような統括的なプロデュースもあり、「丸谷さん曲書いてください」という指名での楽曲提供も大事にしつつ。あとは、やっぱり、普通にコンペに曲を出してそこで勝ち取るというプロセスを、年に何回か踏めるようにしたいというビジョンですかね。そこは楽しんでできそうなイメージがあるんですよね。
取材・文=永堀アツオ
SMPの作家、南 ヤスヒロと宅録ユニットsunbrainとしてDefSTAR Recordsよりメジャーデビュー。2009年よりソロ活動。ビートルズやUKロックをルーツとしているが、それに留まらない独自の世界観で極上の"ほっこり感"を演出する最注目のメロディーメーカー/サウンドプロデューサー。AKB48のシングルを複数作曲。外国人作家とのco-writeでもその実力を発揮。