大衆演劇の入り口から[其之二十六]  謎の多い役者・沢田ひろしさんにインタビューしました

インタビュー
舞台
2017.8.14
沢田ひろしさん

沢田ひろしさん


沢田ひろしさんは不思議な存在だった。

「本日は特別ゲストにひろし兄さんを迎えて…」

フリー、つまりどこの劇団にも所属しない。さまざまな劇団にゲストという形で1~2日ずつ出演する。

「沢田さんて昔、座長をやってはったって」

大物であるらしいのに、どんな経歴なのかよくわからない。しかし、各劇団の座長をサポートする演技は、とんでもなく高い技術に裏打ちされている。

何者なのか、知りたい。思い切ってインタビューを申し込むと。

「ええですよ、もう何でも話しますよ~」

やわらかい声でアッサリOKをいただいた。

「以前、座長をされていたそうですが…」

大昔だけどね。『沢田ひろし劇団』ていう名前だった。その後、自分の劇団をやめてからは2つの劇団でお世話になりました。『紅あきら劇団』と『春陽座』。フリーになったのは5年くらい前だね」

おっとりした語り口を聞きながら。長い夏の夜、インタビューが始まった。

おじいちゃんは浪曲師

――沢田さんは元々、役者の家系だと昔の雑誌で読みました。

そう。僕の叔父さんは沢田正太郎っていって「沢田正太郎劇団」をやってたの。祖父は南洋一声(なんよう・いっせい)って名前の浪曲師だった。節劇(ふしげき)(浪曲入りの芝居)専門の浪曲師。で、僕のお母さんが三味線習って、おじいちゃんの相方をつとめてた。

――すみません、節劇の形態っていうのがよくわからないんですが…。

歌舞伎の簡単なやつと思ってくれればいいよ。今の大衆演劇だったら、思いを伝えるときに歌入りの音楽がかかったりするよね。そこのところが、全部浪曲なの。役者は浪曲に合わせて動く場合もあれば、怒りを表すような振りをしたり、目の表情だけでよかったり。

――今の大衆演劇の大きなルーツは節劇にあるそうですね。

うん、でも浪曲の語り手が段々いなくなっていった。その中で沢田正太郎劇団は、かなりあとの時代まで節劇したほうじゃないかな。お客さんから「珍しい、節劇や」って言われてたからね。

――沢田さんもおじい様と一緒に舞台に出ていたんでしょうか。

出てた、出てた。「天才、名子役!」ってナレーションされて(笑) でも僕の役目はね、「どうか聞いてくださいね」とか言えば、ジャジャジャンって三味線が入って、おじいちゃんが浪曲で語りを全部言ってくれるから、合わせた表情をすればいいだけ。セリフ覚えなくてよかったの。

――叔父である正太郎さんはどんな座長だったんですか?

沢田正太郎さんは、年配の役者さんにしてはお芝居がくどくもなかったし、と言ってそんなにアッサリしてもないし、素晴らしかったなって思うよ。自分がそういう年齢の役をするようになってみると、良い役者やったなって今にして思う。うちは節劇やったから、盛り上がるところは浪曲の節で盛り上がって拍手が来るので、役者がそんなに大見得切って、わーっとヤマ上げなくてもよかったの。今にして思えば、それがかえって良かったかもしれないね。

「同級生が『おひねり、俺にもくれ!』って(笑)」

――役者さんの子ども時代の話を聞くと、転校ばかりですし、中には学校でいじめられたりしたっていう方もいますね……。

俺はいじめられることはなかったね。うちの劇団は移動せずに、ずっと同じところで公演してたの。だから転校もなくて。俺ね、けっこう学校で人気はあってん、面白かったから。女の子からモテはしなかったけどね(笑)。お昼から舞台の出番があったので、午前中だけ学校にいて、昼ごはんになったら俺は早退して帰ってくるの。

――じゃあ学校の友達とか、観に来たりしました?

あのね、近くの大きな会社の夏祭りイベントかなんかに、僕ら劇団が呼ばれたことがあったの。そしたら前の席全部、同級生! 僕が女形で踊ってるの見て、「お前オカマかー!」それが嫌でなぁ(笑)。

――恥ずかしかったでしょうね(笑)。

子どもだから、出たらおひねりとか飛んできてたわけ。次の日学校行ったら、同級生が「すげぇ、お前いっぱいもろうたな、俺にもくれ!」って(笑)。無邪気やろ。おひねりって小銭だから当たると痛いの。袖引っ込んで、楽しみにして開けるじゃん。額が少ないと、あ~…って(笑) 百円入ってるとめっちゃ喜ぶ、ゲンキンな子どもやった。

抜群に高い運動能力。子どもの頃から舞台で鍛えられているせいもあるのだろうか。

抜群に高い運動能力。子どもの頃から舞台で鍛えられているせいもあるのだろうか。

座長時代を振り返って

――「沢田ひろし劇団」について教えてください。

座長になったのは25歳くらいの時かな。座員は基本的には家族やね、人数の少ない劇団やった。関西も関東も日本全国回ったけど、多かったのは九州のヘルスセンターかなあ。昔のヘルスセンターは子どもが前で走り回ってるし、宴会も始まるし。お芝居始まったのにこういう状況じゃできない、やってられねーよ、幕閉めろ……みたいなこともあった。こっちが踊ってんのに、酔っぱらったおばちゃんが舞台に上がってきて踊り出すみたいなことも。今やったら、そういうの逆に楽しめると思うけどね。あの頃はちょっととんがってたからね。喧嘩もよくしたね、舞台に上がって来たおばちゃんをズズズーッと引きずり下ろしたりとか(笑)。

――そういう環境だと、逆に磨かれることもありそうですね。

宴会して騒いでたのが、お芝居の後半になるとシンとして、いつの間にかじっと芝居を観てた…みたいなのはあった。そうなると、よしよしよしって(笑)。

――今、観劇マナーってよく言われますけど、その頃に比べたら…。

今のお客は全然マナー良いよ。今はセンター行っても、そんなお客さん全然いないやろ。

――その頃も今と同じように、劇場だと日替わり狂言だったんですか。

うん。当時は一か月じゃなくて、15日ごとに劇団が代わってたの。だから最初の場所で15日の昼まで公演して、夜の部は休みで、その間に次の場所行って、16日が初日で29日千穐楽みたいな。当然休演日もないよね。

――沢田ひろし劇団ではどんなお芝居をしていたんですか?

オーソドックスな大衆演劇のお芝居やね。でも人数が少なくて、できるものが限られてたから、主に立ち回りのない芝居をやってたかなぁ。母物とかね。子どもを使って、子どもを返してくれ、返さないみたいな。今にして思えば、そういう人情芝居をやってたから、芝居でのお喋りに関しては多少磨かれたかもしれんね。

――座長時代のご自分を振り返ると、どんな座長でした?

鼻持ちならない奴だったねえ。

――お客さんから、すごく上手いって言われたと思うんですが…

当然のことやと思ってた(笑)。あの頃、人間として愚の骨頂やったやろなぁ。今、あのときの自分に会ったら、しばき倒してやりたい。なかなか芝居観てくれんお客さんに対して、こいつら俺の良さがわかんないのや、みたいな風に思ったこともあった。今に思えばかわいそうな奴やったんやね。でもそういうときってね、観てる人からしたら絶対楽しいの。変に自分に自信があるから、役者として勢いがあるの。

――そういう時期があってこその今ですよね…当時はお客さんに対してもツンとしていたんでしょうか。

うん。お客さんが「座長、歳いくつ?」って聞くから「いくつに見えますか?」「わかんないから聞いてんだよ」「考えたらいいんじゃないですか」「○○座長は教えてくれたよ」「僕があんたに教えて何か得ありますかね」みたいな……。

――ネットがあったら炎上してますね(笑)。じゃあ今はすごく丸くなったんですね! 当時を反省し始めたのっていつぐらいからですか?

ここ最近です。50歳過ぎてから気づきました(笑)。

「キュウリであり続けたら野菜サラダにしか使ってもらえない」

――いつぐらいまで座長をされていたんですか?

36、7歳やと思う。そんで劇団やめた次の月から、俺、紅(くれない)あきら劇団 (※)に入ったの。

※紅あきら劇団…当時の座長は紅あきらさん(現・同魂会会長)。現在は「紅劇団」(紅大介総座長、紅秀吉座長)。

紅あきらさんがね、俺をめっちゃ可愛がってくれてたの。あきらさんて、めっちゃ人気あってね。「自分の劇団やめてお前どうすんの」「いや、別にどこも行くとこあらへんし」「ちょうどいい、お前来い」ってことになって。

――ご自分の劇団をやめたときに、役者以外の仕事に就こうっていう気持ちはなかったんですか?

毛頭ない。まだまだ俺は行けると思って(笑)。紅さんのところで2年半くらいお世話になったかな。あきらさんは、一言一句、事細やかにダメ出しをしてくれる人なんよ。すごい良い勉強やった。自分の我を通してたら、今、フリーで色んなとこお世話になってても、自分のスタイルに固執しすぎてもっと苦労してたと思う。結局ね、自分がキュウリであり続けたら、キュウリとして野菜サラダとかにしか使ってもらえないから。でも、キュウリは揚げ物にはならないじゃん。脇の役をすることにおいて、色んなことしたら邪魔になるから。ほんとに良い勉強でしたよ。

――その後、2004年に春陽座(はるひざ)(※)のスタートに関わられるんですね。

※春陽座…初代座長・澤村新吾さんが2004年8月に旗揚げ。二代目座長・澤村心さん、三代目座長・澤村かずまさん。

そうそう。紅劇団を離れて何か月後かに、澤村新吾さんが劇団を旗揚げするからって声をかけてくれた。新吾さんとは俺がまだ20歳そこそこのときに知り合って、それから何十年か経って。旗揚げ場所は四日市の「ユラックス」やったね。

――紅劇団をやめた後、すぐフリーになることは考えなかったんですか?

いや、まだその頃はそんなんなかったもん。そもそも、よその劇団によその人が行くなんてこと、そうなかった。

――ゲストって今の大衆演劇界では普通のことですけど、2000年代の初めはそうでもなかったってことですね。

それで5年くらい前、今度は春陽座をやめたときにどうしようかなーと思ったら、三河家諒(みかわや・りょう)ちゃん(※)がすでに色んな劇団に出演してたの見て、俺もそうしようって。

※三河家諒…2010年からフリーとしてさまざまな劇団に出演している女優さん。元は三河家劇団に所属。

左・沢田さん 右・椿裕二(つばき・ゆうじ)座長(劇団大川)

左・沢田さん 右・椿裕二(つばき・ゆうじ)座長(劇団大川)

――フリーになってからは劇団花車、新川劇団、劇団武る、劇団大川、紅劇団…色々な劇団さんにゲスト出演されていますね。芝居上で気をつけていることってありますか?

それぞれの座長の芝居の邪魔はしたくない。なるべく、浮かないように。こうしてほしいってことを脇がやると、主役の人がすごくやりやすいんだよね。それこそ野球と一緒で、こんなとこ投げたらこうして(やりづらそうに)打たなきゃいけないけど、真ん中やったらちゃんと打てる。サッカーのパスと一緒で、シュート決めますっていうところに蹴ってあげる。そういう役を大体させてもらうので、だからなのかな、長いこと、皆さんずっと使ってくれる。

――脇で座長の芝居を支えているんですね。今日(7/14)は劇団炎舞(えんぶ) (※)へのゲストでしたが、沢田さんも橘炎鷹(たちばな・えんおう)座長も楽しそうに芝居されていました。

※劇団炎舞…座長は橘炎鷹さん。7月は浅草木馬館、8月は篠原演芸場で公演中(いずれも東京都)。

炎舞に呼んでもらったときは、年齢的に俺が兄貴分の役になるから、炎鷹くんは弟分の役とか普段できない役ができるしね。炎鷹くんと芝居することは楽しいねえ、たしかに。

――両思いですね!炎鷹さんも以前おっしゃってました。沢田さんと芝居するのが一番合うって。

それはお世辞やろ……(笑)。

――違いますよ! 1年前に炎鷹さんにインタビューさせていただいた際、炎鷹さんのほうから、お芝居の波長が一番合うのは沢田のお兄ちゃんだっておっしゃったんですから。

参照:大衆演劇の入り口から[其之拾五]後編・「役の者と書いて役者」橘炎鷹座長インタビューin浅草木馬館(2016年6月) 

橘炎鷹座長(劇団炎舞)

橘炎鷹座長(劇団炎舞)

――若い座長さんたちにお話を伺うと、今は面白いお芝居が好まれる一方で、まじめな芝居が以前より受け入れられなくなっているという話も聞きます。

『拝領妻始末』とか忠臣蔵でも、お客さんによっては「堅い」「難しい」って言われるもんね。そんなんやと行かないって。だから忠臣蔵やっても、袴引っ張って吉良さんがドテーッとこけて、「このフナ侍が、痛いではないか」くらいのお笑いは入れないといけないのよ。「殿中でござる!」「電柱です」「違う違う」みたいなドリフ的なことをやらないと、なかなか観てくれないんじゃないかな。

「大衆演劇はお客さんが楽しめなきゃ」

――大衆演劇のお芝居って人間くさい性質のものだと思っていたんですが、沢田さんが描く人物像ってもっと視点が大きいというか、高い所から人間の世界を見下ろしているようなところがあると思うんです。それはどうしてなんでしょうか。

ここ最近、親分とか兄貴分とかいう役をけっこうさせてもらえるんで、そういう役を演じる中で自分なりにとらえた人物像じゃないかな。何の映像を観たんだか忘れたけど、誰かが演じてる織田信長のイメージが頭にあるの。本能寺で、炎がめらめら燃えてて、家臣はみんないなくなって、敵がわーっと来て、信長はひとりで炎の中に消えていくっていうシーン。

――ご自分の考えとしても人間は結局ひとり……ってことなんですか?

うん。

――抽象的な質問になるんですが、沢田さんの考える“大衆演劇的”ってどういうことでしょう?

大衆演劇っていう言い方をすれば、明治座であろうが、演舞場であろうが、お金とって大衆のためにやるのは大衆演劇でしょ。僕らの舞台が一歩違うのは、お客さんがセリフの後に掛け声かけたり、手叩いたり、とにかくお客さんが参加しやすいってことよね。特に今はみんな参加したいんじゃないかな。でもさ、居酒屋に来て京料理とか出てこないでしょ? 居酒屋に来たいから来てるんだし。だから大衆演劇はそれでいいんじゃない?

――なるほど……。

難しいこと考えるより、まずお客さんが楽しめなきゃ。


「沢田ひろしの猫は、もう観られんのかなぁ」

浅草木馬館の年配の男性客がつぶやくのを耳にした。聞けば、春陽座時代、木馬館に張られた綱の上で沢田さんが演じた『化け猫』を今も鮮烈に覚えているそうだ。

先月の木馬館で観た、沢田さんの個人舞踊。扇子がくるくる、手の内へ外へ飛び跳ねる。手足は踊りの先へ向かって、形を成してはほどけていくのに、肉体の芯はぶれないままだ。紆余曲折を経て、名優の舞台は振り切れるように明るい。

フリー役者・沢田ひろしさんが私たちに教えてくれること。舞台を観る楽しみを知っている人生は、幸福だ。

半田なか子さん撮影

半田なか子さん撮影

そして舞台に立ち続ける人生も、きっと。

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