『CREATORS INTERVIEW vol.7 古川貴浩』――作家やアレンジャーというのは現状維持が一番難しい仕事
ソニー・ミュージックパブリッシング(通称:SMP)による作詞家・作曲家のロングインタビュー企画『CREATORS INTERVIEW』。第7回目は、嵐、AKB48、乃木坂46、戸松遥、3B juniorなど、ジャンルや性別を問わず、数多くのアーティストの楽曲を手掛ける古川貴浩が登場。ベーシストから作家・アレンジャーへ転身した経緯、作家としてのターニングポイントや制作エピソード、そして今後の展望などをお聞きしました。
プロミュージシャンとして一人だけでやっていける力をつけたかった
――楽器を始めたきっかけから聞かせてください。
中学生のときに、バスケ部だったんですけど、部活が終わったあとに遊んでいたら部活を謹慎になってしまったんです。それで、やることがないっていう状態になったときに、誰かが「バンドやろうぜ!」って言い出して(笑)。それが14歳の時ですね。
――どうしてベースを選んだんですか?
当時から「じゃんけんで負けたの?」とか「地味」って言われることが多かったんですけど、僕の場合は「ベース、誰やる?」ってなったときに自分で手をあげたんですよね。小学生の頃に「We Are The World」のドキュメンタリーを観たんですけど、そこでマイケル・ジャクソンの曲でベースを弾いているルイス・ジョンソンがすごいテクニックを見せていて、幼いながらに「ベース、かっこいい!」と思ったんです。だから、ベースをやることに抵抗はなかったし、みんながギターをやりたがる中で、俺はベースがいいなって思っていました。
――中学生時代はバンドでどんな曲をコピーしてました?
その頃、バンドをやる人たちが最初にコピーする曲はだいたい決まっていて。BOØWY、X JAPAN、LUNA SEA。洋楽だと、ガンズ・アンド・ローゼズ、メタリカ、レッチリ。その辺をもれなくやっていました。高校生になってからも別の友達とバンドをやっていたんですけど、その頃から漠然とプロになろうと思い始めました。スタジオミュージシャンになりたかったので、早めにその方向に向かって動いていましたね。19歳になったら上京して、音楽学校に行って、プロになろうっていう。
――どうしてバンドとしてのデビューではなく、スタジオミュージシャンになりたいって思ってたんでしょう。ルイス・ジョンソンがルーツだと言われたら分からないでもないですが。
バンドもやっていたんですけど、バンドでやっていこうとは思えなかったんですよね。今と一緒で、商業的な考え方をしていたと思うんですよ。バンドを続けて、バンドがダメになったら、そのままミュージシャンじゃなくなる可能性があるっていうのは嫌だった。プロミュージシャンとして一人だけでやっていける力をつけたかったし、当時はバンドマンよりもスタジオミュージシャンのほうが上手いと思っていたんですよ。上手い人に憧れて、上手い人がかっこいいなと思ってやっていましたね。
――じゃあ、最初はプレイヤーを目指してたんですね。
そうですね。だから、上京したときはプレイだけでなく理論の勉強も楽しんでやっていました。みんなは嫌がっていたけど、俺は家に帰ってからもノートに書いて復習していましたから。
――プロのミュージシャンとしての第一歩は?
初めてお金をもらったのは、いわゆる発表会のサポートみたいなやつですかね。その後はレコーディグとかライブとかです。
自分がプレイヤーを呼ぶ人になるために、本格的にアレンジをやっていくことを決めた
――プレイヤーから作家になったのは?
もともとアレンジというか、DAW(音楽制作ソフトウェア:Digital Audio Workstationの略称)いじりが好きだったんですよ。パソコンを使って、全部の楽器をやって、オケを作るのが好きで。そこで仕事の幅を広げるというか。ベーシストがライブやレコーディングに呼んでもらうことを考えると、プレイヤーは最後に決まることが多いと思ったんですよね。だから、自分がベーシストを呼ぶ人になろうと思って、本格的にアレンジもやっていくことを決めて、いろんな作家事務所に資料を送りました。
――オリジナルの曲を作って送ったんですか?
そうですね。最初の作家事務所に入ったときは、6曲くらいしか作ったことがなかったです。作曲というよりはアレンジャーとして入るつもりだったんですけど、いきなりアレンジの仕事なんてないので、まずは曲を作って欲しいという話になって。僕もやりたかったので、曲を作っているうちに、いつの間にか作家になっていたという感じですね。ライブ自体は、忙しくてだんだん断るようになっていきました。
――それはご自身としてはどんな気持ちでした? ベーシストとして活躍するために、ライブやレコーディングを仕切る方になろうという思いで、アレンジや作曲の仕事を始めて。やがて、そっちが優先になっていくというのは?
未だに「最近ライブでベースを弾いてないな」って思わないことはないんですけど、今やっていることも楽しいし、向いている感じもしています。仕事の幅を広げるために作家を始めたけど、今ではそちらに面白みを感じてメインになっている感じですね。
――作家を始めてからの転機というと?
大きなことと言うと、SMPと専属契約を結んだことですね。その前の作家事務所を辞めたのが34歳のときだったんです。駆け出しの頃から6年間お世話になって、ここから40歳までを考えたときに、もう6年、同じ期間がある。前の6年間でできるようになったことを振り返りつつ、後の6年間ではもっと幅を広げていきたいなと思ったんですね。それと、自分に対するテコ入れをしないと、という意味もありました。一度、「やべぇぞ。崖っぷちだぞ」っていうところに身を置いてやっていこうと思ったんです。40歳になったときに、新しい別の力をつけていたいという思いを実現できることを探していたときに、SMPとご縁があったっていう感じですね。あ、引っ越しも僕にとっては転機になっていますね。
――どういうことですか?
制作環境をグレードアップするために引っ越しを続けていて。引っ越しをするたびにできることが増えてきたのがターニングポイントかなって思っているんです。最初はワンルームで制作なんかするつもりもない部屋で、スタジオで使えるスピーカーを買ってみたら音がでかすぎて、ものすごく音を小さくしてやっていました。そのあと、それをちゃんと鳴らすために大きなところに引っ越して。次はギターアンプやベースアンプを鳴らしたいと思って、鳴らせるところに引っ越して。SMPに所属するタイミングで防音がしっかりしているところに引っ越したので、やっぱりターニングポイントになっていますね。
――制作環境から作品に目を移すと、最も長く関わってるのは、戸松遥さんでしょうか。
そうですね。最初の頃から、まさに今、現在もやらせてもらっています。一人のアーティストと長く関わり続けることがなかなかないので、思い入れがありますね。そして、常に妥協のない現場というのもその要因の一つです。最近は仕事をしているときにけちょんけちょんに言われることってあんまりないんですけど、この現場では未だにけちょんけちょんに言われていますからね(笑)。尊いことです、本当に。ただ、ものを作っていくときに、どうしてもなあなあになっていくことも多かったりするんですよ。誰も何も言わない。「こんなもんかな」って思っている人もいる。でも、戸松さんの案件に関しては、「こんなもんかな」が1つも許されないし、且つ、同じアーティストと長く関わっているので、自分が「これ、前にもやったでしょ」って言われては問題ですしね。常に新しく挑戦する感じでやっていて本当に有意義です。
――他にも印象に残っているお仕事をいくつかあげていただけますか?
明日からその演奏のために海外に行くんですけど、『ファイナル・ファンタジー・ブレイブ・エクスヴィアス』では、ライブアレンジ、バンマス、演奏がセットでできているのが楽しいなって思います。これに作曲が入っていたら、尚いい。ライブアレンジをして、バンマスをやって、演奏ができる。こういう芯を食っているものは、やっていて大変ですけど、楽しいしやりがいがあります。いわば1つの理想の形ですね。海外公演というのが自分とってびっくりなところですけど、いつか国内でもこういうことができたらいいなと思っています。あと、3B juniorの案件も思い入れがあるかな。「勇気のシルエット」っていう曲があるんですけど、一緒に組みたいミュージシャンやエンジニアを集めて、作詞、作曲、編曲までやって、ベースとプログラミングもできた。自分にとって、いいものができたなっていう実感が持てた曲ですね。その曲が縁でテレビ出演までさせていただきましたし。
――いわゆる歌もののポップスと、アニメやゲームの音楽で何か違いはありますか?
作曲やアレンジという点では、僕は何も変わらないです。もちろん案件によって作風は変わりますけど、気持ちややり方は変わっていないと思います。そもそも、作家さんは全部できてなんぼかなって思っているので、何も切り替えはないですね。
意識も技術も運も常に進んでいないと、この道はずっと上り坂なので転がり落ちる
――古川さんが手掛けるアーティストやジャンル、フィールドは多岐にわたってますが、その中心にあるものって何でしょうか。
2つあって。1つは、衝動で動いているっていうことですね。音楽自体は衝動で作っているんです。例えば、机を叩いた音が気に入ったら、ずっと”コツンコツン”って叩いているタイプ。「この音、面白いからちょっと並べていこう」とか。結構ミニマムなものから作っていて、そこから広げているのが僕の作り方なんです。
――それは意外でした。とても洗練されていて整頓されているイメージだったので、コード進行やスケール、理論から組み立ててる方かと想像してました。
作る前にコード進行を考えることはないです。極端に言うと、机をずっと叩いていたら曲ができた、みたいな感覚でやっています(笑)。皆さんにちゃんとした人だと思われているんですけど、曲も計算して作っていないし、根本は衝動的です。ただ、そのままだと「お前、何?」ってなってしまうので、そこからアレンジャーとして方向を変えて調整する感じですね。
――もう1つは?
僕はベーシストなので、根本的にリズム感に前向きだから、どのジャンルでも大抵、それなりに対応できる。それは本当に、プレイヤー/アレンジャー且つベーシストっていうアドバンテージが十分に活きているんだなって思います。実際、音楽の核になり得るパートがメインで弾けるっていうことが意識の中心というか武器と思っています。本当に、今はいろんなジャンルができないといけない。僕も実際はできやしないけど、根本のリズムがしっかりしているので対応できているのかなと思いますね。
――ベーシストとして主張したいという気持ちはありますか?
ベースだけをやっているときって、曲の中に何かを残したかったんですよ。レコーディングに呼ばれてベースを弾くのであれば、一箇所でも二箇所でも俺の爪痕を残しておこう、みたいな(笑)。持っている武器がベースしかないと、そうやって過多になりやすかったんですけど、アレンジを始めて全体を見るようになったら、ベーシストとしてそんなに主張しなくてもよくなった。それは、ベースシストとしても良かったし、作家としても良かったところですかね。でも、一歩引くことで、逆に主張ができるようにもなっているんです。僕のことをよく知っている人たちは、リリースされた楽曲を聴くたびに笑ってますからね。「またやってるわ、あのフィル」って(笑)。主張のしどころがちゃんと作れるようになったっていう感じですかね。
――プレイヤー、アレンジャー、作曲家として、今後の展望はどう考えていますか? もしも野望があったらお伺いしたいんですが。
いきなりスーパースターになりたいとは思っていないので、コツコツとやっていくことかなって思っていますね。野望は……あんまりないんですよ。身の回りと自分が幸せであればいい。今、僕はある意味とっても幸せなんですよね。音楽を作っていられて、それでご飯が食えていて。今は、やりたくないとかつまんない音楽が1つもないんですよ。もちろん、大変だったり難しかったりすることもありますけど、作っていて楽しいんです。それに対する機材も投資できて、周りのミュージシャンもいい歳になってきて、みんな高みにいっている。ただ、これを10年、20年と続けるのは難しいと思っているんです。どうしてもサウンドは時間経過で古くなるし、今時の新しい音楽を聴いて取り入れようとしても、かつて自分たちがそうであったように、その時代をリアルに生きてきた人たちには敵わない。だから、変わっていく音楽業界の流れの中、自分の持てる武器を最大限に活かし適応しながら、なんやかんやありながらも結果「音楽が楽しいな」と思えることを、ずっと続けていくということが野望ですかね。実はそれは大変なことで、意識も技術も運も常に進んでいないと、この道はずっと上り坂なので転がり落ちちゃうんです。作家やアレンジャーというのは、現状維持が一番難しい仕事かなと思いますね。
取材・文=永堀アツオ
1979年生まれ、長野県上田市出身。ベーシストとしてキャリアをスタートしたのち、25歳からアレンジャー・コンポーザーとしても活動の範囲を広げ現在に至る。確かなリズム感と緻密で妥協を許さないサウンドメイクを心がける。ベーシストとして多くのジャンルを渡り歩いた経験を武器に様々なジャンルを得意とし、劇伴制作まで行う。
[オフィシャルサイト] http://www5d.biglobe.ne.jp/~udonsky/
[所属事務所ページ] https://smpj.jp/songwriters/takahirofurukawa/