日本オペラの革命~新国立劇場《紫苑物語》キックオフ会見&音楽稽古レポート
-
ポスト -
シェア - 送る
新国立劇場オペラ《紫苑物語》コンセプト説明会にて(2019年2月17日)
大野和士が「日本オペラの革命」を起こそうとしている。新国立劇場の芸術監督に就任して一年めの今シーズン、初めて自ら指揮をする新作オペラ《紫苑物語》(世界初演)がその作品だ。2019年2月17日(日)の初日も近づいている新国立劇場で、立ち稽古スタートの顔合わせ&演出家によるコンセプト説明会があった。
集まった歌手たちと助演の俳優たちの前に並んだのは、大野和士(芸術監督・指揮)、西村朗(作曲)、佐々木幹郎(台本)、長木誠司(監修)、笈田ヨシ(演出)の面々。舞台美術を担当するトム・シェンク、振付の前田清実も出席した。
大野和士芸術監督「これは『芸術家の生涯』」
まずは芸術監督の大野和士から挨拶。
「私の就任一年めのひとつのエポックとなる、日本人作曲家への委嘱シリーズ第一弾が《紫苑物語》です。お引き受けくださったのが、日本の誇る作曲家、西村朗さん。そして難しいオペラの台本作りを、西村さんと話し合いながら、詩人として美しい言葉をちりばめ、しかも音楽的な言葉を構築してくださった佐々木幹郎先生。私がこの方なしではこのプロダクションはありえないと思い、ぜひにと依頼した演出の笈田ヨシさん。そして監修をしてくださったのが長木さんです。長木さんは私に《紫苑物語》という文学が、どれだけオペラにふさわしいものかということを紹介してくれました」
「《紫苑物語》を一言で申し上げますと、これは『芸術家の生涯』、そして『芸術家の自分探し』ということです」
「このオペラは、自分とは何か、あるいは妄執に囚われることによって自分を失う、というような、人間の運命というものに対しての普遍的なテーマ性を持っています」
大野和士
《紫苑物語》の主人公は歌の名家に生まれた宗頼。天賦の才に恵まれるが、父の望む歌の道を捨て、弓矢の道にはしる。〈知の矢〉〈殺の矢〉を会得するが、自分が真に求めるものが見出せず苦しむ。妻うつろ姫と断絶し、狩で射た小狐の化身である千草と愛し合ったことがきっかけになり、第三の矢である〈魔の矢〉を知った宗頼は、山上に住む仏師、平太に勝負を挑むことになる。
宗頼を歌うのはバリトンの髙田智宏。宗頼の自己投影と言われる仏師、平太は同じくバリトンの大沼徹。二人とも190センチ級の大型歌手だ。権勢欲と色欲のかたまりで絶世の美女うつろ姫にはメゾソプラノの清水華澄、狐の化身である千草にはソプラノの臼木あい、宗頼を倒してその代わりになろうと画策する藤内はテノールの村上敏明。宗頼の父には小山陽二郎(テノール)、弓の師匠である弓麻呂は河野克典(バリトン)が出演する。
いままでの日本オペラには、二重唱、三重唱、四重唱がなかなか使われず、多くのオペラは主人公が入れ替わり立ち代わり長いアリアを歌うことに終始してしまっていた、というのが大野の説明で、その点、この作品は起伏に富み、強烈なキャラクターを持った主人公たちがそれぞれのパーソナリティーを発揮する重唱の数々を歌うという。
大野芸術監督は最後に「重唱のオペラだといって良いアンサンブルがたくさんあります。私はあえて、『日本オペラに革命が起こる!』と言いたいのです」「その『オペラの革命』が起こるために、皆さんでぜひ力を合わせてほしいと思います」と、出演者たちに呼びかけた。
大野和士
西村朗(作曲)「怖さとときめきでいたたまれない」
右手に黒いサポーターをはめてあらわれた西村氏。このオペラを書いて腱鞘炎になってしまったという。「佐々木さんの台本の第一稿があがったのが2017年の9月末くらいでした。そこから曲を書くという作業に入り、14ヶ月、1日平均9時間程度の作曲を続けて脱稿しました。重唱ということは一つの大きな課題として今回いただいており、そのために大変な作曲になって、右手に重傷を負ったという(笑)」
「内容の前半、特に作曲の半ばくらいまでは、歌手の方達が重傷を負うくらいの構想がどんどん膨らんできて、これはもう人間が歌えないのではないか?というくらいのことを書くと、大野さんが「もっとやっていいよ」と。「ここは花火が散るように」とか。千草のところは狐の鳴き方まで大野さんに教えてもらいました。もうこれは、狐になりきらないと狐の場は書けないと思ったので、私はしばらくお稲荷さんと狐うどんしか食べないで(笑)、全身全霊でこのオペラの作曲にあたりました」「結果はこれからですが、私としてはもう、怖さとときめきでいたたまれないようなんです」
「このオペラにはライトモティーフをいくつか設定しました。長木さんがお選びになった原作は文庫本で75ページくらいの短編ですが、鮮烈なキャラクターがたくさん出てきて、自ずとライトモティーフ的なものを喚起してくるのです。それにあらがえないし、この際ですから、20世紀的な書法であることは承知の上で(しかしこれは20世紀を飛び越えていますから)、ライトモティーフをもう一度生かすということで」「5、6種類のライトモティーフがあり、そのうちの三つ、〈宗頼〉〈紫苑〉それから第三の〈魔の矢〉。この三つのライトモティーフはかなり強烈に作用するように構成しました」
「音階的、あるいはオーケストレーション全部含めて、自分のやってきたことの総決算といったら口幅ったいですけれども、多くのパレットを今回は用意してなるべく変化に富んだ状況にするということは自分に課した課題でした」
西村朗
佐々木幹郎(台本)「殺人と創作は表裏かもしれない」
「石川淳という原作者は化け物みたいな人で、日本の中世の物語、フランス文学、それから江戸文学をほとんど体に吸収している人。戦前にアナーキストとして活動し、戦中は警察に睨まれ、そして敗戦があって。《紫苑物語》はその10年後くらいに作った短編です。短いけれども、この中に彼が戦前戦中の日本に対して抱いた思い、人間への思い、というものが全部あります。しかしそれは表にでてきません。舞台そのものの時代背景は平安時代の、醍醐天皇の時代だろうと推定できます。この時代に活躍したのは陰陽師の安倍晴明、呪術的なことをやって朝廷を動かし、狐の化け物を石の塊に変え東北の方へ投げ捨てたり、いろいろなことをやった時代です。その時代を利用して、人を殺すということ、歌を作るということ、この二つをぶつかり合わせて、本当に歌が上手い芸術家がどう生きていったらいいのかを描いた」
「朝廷から選ばれた勅撰和歌集の選者としての父親は、いつも同じようなしきたり通りの歌を良しとする。それに対して息子の宗頼は反逆し、歌を捨て弓矢の世界の、その向こうに自分が本当に求める歌の世界があるのでは、という風に考える」「彼は芸術家としてもっと先にあるものを見ようとしてしまう。しかし、弓を持つ、武器を持つ、というのは何かというと、人を殺すことなんです。実際に殺した時に初めて宗頼は、人を殺すというのはこういうことなのかと分かる」
「武器を持つとどんどん殺さずにはおられない。そのことを、紫苑を植えるというのは、自分のやったことを記憶にとどめる、ということ。忘れない。そのことをずうっと引き受けて、その先にあるものを見ていく。だから忘れな草。なぜ忘れない草、なのかというと、人を殺すということに対して宗頼は、これは違うのではないか、と密かに思っているわけなんですよ」
「自分の求めるものはこの先にある、もっと何かあるのではないか、という風に突き詰めていった時、山の向こうに仏の姿が見えます」「そこには忘れ草がある。まったく逆さまなものがある。彼の芸術家の魂が、この世の向こう側に行こうと、表現作品の先へ行こうという彼の本能が向かう先です」
「山に行くと、〈忘れな草〉に対して〈忘れ草〉が咲いていて、同時に、宗頼にそっくりの平太がいる。宗頼は代々の歌の世界を捨てて新しいものを求めたのに対して、平太は代々仏を彫り続けている家系で、なぜ自分がそれをしているかは考えません。彫り続けた先に見えるもの、これは人間の手に届かないものである。それだけをずっと続けているわけです。この二つの対比があって、二人がどこに続くことなのか」
「要するに、人を殺すということと、作品を作る、傑作を作るということは、実は表裏かもしれない。作品によって人の魂を盗む。殺す。そういうことを語る意図も石川淳にあったかもしれません。全部をつかもう、という宗頼の心が、一の矢、二の矢、三の矢、とつかんでいった〈魔の矢〉を放って、平太が一番大事にしている仏頭を射抜いた瞬間に二つが重なってしまった。その瞬間、世界が崩壊する。そこから先には歌だけが残る。芸術家にとっての作品とは一体なんなのか?こういう非常に高度な抽象的な操作を石川淳はやっているわけです」
「面白いのは、この時代には獣(けもの)、狐や狼やお猿が人間と同じレベルで生きていることです。今、われわれが生きている、現実と虚構だけに二分解するような、そんな合理的な分解では見えない、生き物の世界が広がっています。石川淳が偉いのは、そういう世界でも、芸術家とは一体なんなのか? 人を殺すとは一体なんなのか? そういうことを理解させ、重ねて凝縮していったんですね。そういう作品だと思っています。それを分解してオペラにする、というのは至難の技でございます。僕が最初にプロットを書いて、そこから第一稿、第二稿、第三稿、第四稿…と変わるごとに、大野さん、西村さん、長木さんと僕の四人で、何回も、何回も、これをどう解釈するのか、冒頭をどう持って行くか、どこを第一幕の終わりにして、第二幕をどこから作るのか、と打ち合わせをしてきました。それが現在まで続いています」「どうぞみなさん、面白い作品になっていると思いますので、よろしくお願いします」
佐々木幹郎
長木誠司(監修)「かなりおどろおどろしくなっている」
「《紫苑物語》のオペラ化を構想し始めたのは約7年前です。最初は本当に細い流れから始まって、今、こんなにほとんど川の河口のように広がってきて、最初にアイディアを出した人間としては感無量です。実は、日本のオペラはもうちょっと何とかならないかなと常々思っていまして、それを西村さんと話していました。何か題材があったら一緒にやろうよ、と。宗頼の言葉に「人を殺すとはこういうことか」というのがありますが、「オペラを作るのはこういうことか」と、今、思っています」
「考えたのは、あまり原作に忠実にやる、ということはオペラを作ることになるんだろうか?ということ」「やはりオペラの論理にしていくのが一番大事なことなんだと思います。それはつまり重唱であり、合唱との掛け合わせである、ということですね。それで、いわゆる〈オペラの形〉になって、とても素晴らしいオペラ作品になっていると思います。見ようによっては19世紀のオペラの形に戻っちゃった、と言えないことはないかもしれない。合唱とソロが入る。重唱がたくさん出てくる。ただ多分、オペラというものが一番面白い時代のやり方だったと思うんです。そこを別に変える必要はないし、変えようと思って失敗したオペラをたくさん見てきたので、今回それはとてもうまくいったと私は思っております。これまでの日本のオペラになかったような世界ができたんじゃないかと思っています」
「(原作としては)三島由紀夫はたくさんあるし、木下順二もあるけれども、だれも手をつけなかったところからやっぱり新しいオペラが始まるべきだと思って、ちょうどよかった。西村さんが作曲するということだったので、大体、おどろおどろしいオペラでないとダメだろうなと(笑)。まあ、かなりおどろおどろしくなっていると思います。最後の鬼の歌なんて、どう聴こえるんだろうと、今から楽しみでしかたがないです」
長木誠司
笈田ヨシ「現代の義太夫節ができれば」
最後は、演出の笈田ヨシによるコンセプト説明である。貼り出された舞台美術と衣裳のデザイン画は、笈田のチームが《紫苑物語》というオペラを、生きている舞台へ変身させる手腕を感じさせる。
「佐々木さんも西村さんも僕も関西出身です。関西というのは義太夫節、文楽、関西人が昔々に舞台を作った。この関西人による、現代の義太夫節ができればいいと思う」
「現代の義太夫節とは何かと言うと、例えて申し上げますと、洋服ですね。最初は西洋の真似をしました。向こうのものを、日本人の体にどう合わせるか、というのを一生懸命にやったんですけれども、1980年代、つまり40年ほど前から、日本のイッセイミヤケとか、コム・デ・ギャルソンなどの新しいデザイナーが出てきて」「向こうの真似ではなくて、着物でもなくて、誇りを持って新しい洋服を着られるようになった。今や、日本のファッションというのはヨーロッパでもみんな目をつけられている。もとはヨーロッパだったけれども、日本人に合うものを作っている」
「オペラはまだ、ご存知のように、向こうはどうしている、の時代。だけれども、ちょうど40年くらい前に日本のファッションデザイナーが日本のものを作ったように、日本人による、新しい現代の音楽劇を作らねばならない、と思っている。ファッションなら、デザイナーと縫う人だけで出来るけれど、オペラとなると、裏方から始まって全ての人が一心となって、新しい日本のものを現代に作ろうという、みなの意欲が集まって、それで何かが生まれるように願いたい」
「これはもうどこに行くのかはわからない。つまり〈忘れな草〉というのは昔のことを忘れないでやっている。でも、歌い手の方たちも、オペラは、私は、こうであらねばならない、さもないと自分の職業をやっていけない、と昔の伝統にすがりつくのではなくて、〈忘れ草〉、つまりそういうことを全部忘れて、どこへ行くか分からないし、失敗するかもしれない。だけれども勇気を持って、忘れないんじゃなくて、忘れてどこかへ行く。その努力をしていただきたいと思っております」
「コンセプションは、みなさんが喋ったから、もう喋る必要はない、と思うんですが、問題は、若者がどうやって暴力に行くか。これは現代どこでも、世界中で起こっています。テロリストからアメリカの鉄砲の問題とか。つまり何か社会に対して不満がある。社会にどんな不満があるかというと、宗頼の父親のように昔のことを守ろうという非常に保守的な考え方の人、それから、弓麻呂のように、全てを破壊することによって喜びを得る人。戦争に向かう人。そのような行き詰まった社会でどうしても暴力に頼らなければならない」
「それから今、みなさんがおっしゃったように、創作、芸術、ということの行ったり来たりがある。暴力、創作、そしてうつろ姫の白いセクシャルな姿が表すもの。これらは全部、現代の象徴のようなもの。そういう現代の象徴を、体いっぱいに表現していただきたい」
「私は曲を聴きまして、つまりこれは歌はここ(頭からお腹までを両手で示す)で歌うのではなく、こう(体と両手を大きく動かす)歌うんだと。レアリスムではなくて、いっぱい体を使って自分のものを投げ出す。曲もそういう風に作っていただいていると思うので。装置も、ご覧のように何もない空間です。ですからみなさんの体で舞台をいっぱいに、大きな劇場をいっぱいにしていただきたいと思います。期待しておりますから、よろしくお願いします」
笈田ヨシ
白熱の音楽稽古
記念撮影の後は、大野和士による音楽稽古を午前中いっぱい見学することができた。重唱によるオペラ、ということで、まず、第二幕にある、うつろ姫、藤内、宗頼、千草の四重唱、それに続く宗頼と千草の二重唱、それから第一幕に戻り、宗頼、父、藤内の三重唱、うつろ姫と藤内の二重唱、最後に宗頼と弓麻呂の二重唱までを聴いた。
どの歌手も音楽的にはすでに完成度の高い仕上がりをみせ、そこに大野が、芝居としてのセリフのニュアンスをどう出していくかを、実演をまじえて、要求していく。作曲の西村が前に座り、後ろには台本の佐々木、監修の長木が座る中、二台のピアノの素晴らしい演奏による白熱の音楽稽古が展開した。
主人公を歌う髙田智宏はドイツ、キール在住、宮廷歌手の称号を持つ。恵まれた体躯を活かしたダイナミックな表現が魅力だ。うつろ姫の清水華澄は女の色気をたたえた美声で存在感を示し、千草の臼木あいはコロラトゥーラで狐の化身という難しい役どころを表現。そして、このオペラに滑稽味を加える重要な悪役、藤内を歌うのはテノールの村上敏明。多面的な役柄をたくみに演じて惹きつける。
これまでも声楽曲、合唱オペラなどで共作を重ねてきた佐々木、西村の両氏による言葉と音楽の融合は、ドラマの流れとして重要な言葉が浮かび上がり、間奏的な(今日はピアノによる)オーケストラパートは不穏な心象を表しているかのよう。
どのシーンも面白かったが、最初に演奏された四重唱は衝撃的だった。一方に、結託することになったうつろ姫と藤内、もう一方には、自らの進む道を見いだそうとする宗頼と千草が歌う、という状況で、ヴェルディ《リゴレット》の名高い四重唱と同じ声のパートの組み合わせ、同じような二人ずつの状況であるのは興味深い。うつろ姫の嬌声である「るるる〜」という声で始まり、有頂天の藤内、そしてやがて次に入ってくる宗頼の懊悩がこの四重唱をリードする存在となり、そこに狐の千草によるコロラトゥーラが絡みついていく。その四人がつむぎだす音楽は、日本の現代そのものの音響風景と言ったら良いのだろうか、複雑で、しかも不協和音のぶつかり合いだ。大野の冷静でいながらパッションのあふれる指揮により、何度も繰り返される四重唱を聴いていると、だんだんこの音楽の虜になりもっともっと聴いていたくなるのだ。大野芸術監督が「これは日本オペラが始まって以来、初めての四重唱」と説明していたが、この部分がオペラの中でも音楽的な核の一つとなることは間違いないだろう。
革命の志士たちによる〈日本オペラの革命〉に立ち会う日は近づいている。
取材・文=井内美香 写真撮影=長澤直子
公演情報
オペラ『紫苑物語』/西村 朗
[新制作 創作委嘱作品・世界初演][全2幕/日本語上演/字幕付]
■日程:2019年
2月17日(日)14:00
2月20日(水)19:00
2月23日(土)14:00
2月24日(日)14:00
■会場:新国立劇場 オペラパレス
■予定上演時間:未定
■原作:石川淳
■台本:佐々木幹郎
■作曲:西村朗
■指揮:大野和士
■演出:笈田ヨシ
■美術:トム・シェンク
■衣裳:リチャード・ハドソン
■照明:ルッツ・デッペ
■振付:前田清実
■監修:長木誠司
■舞台監督:髙橋尚史
宗頼:髙田智宏
平太:大沼 徹
うつろ姫:清水華澄
千草:臼木あい
藤内:村上敏明
弓麻呂:河野克典
父:小山陽二郎
■管弦楽:東京都交響楽団