木ノ下歌舞伎舞踊公演『娘道成寺』通し稽古レポート~「生演奏ならではの、妙なことが起きたら楽しいかな」
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木ノ下歌舞伎舞踊公演『娘道成寺』稽古中のきたまり(KIKIKIKIKIKI)。 【撮影】吉永美和子(人物すべて)
歌舞伎を始めとする古典作品に精通した木ノ下裕一のもと、現代演劇の若手演出家が古典戯曲を演出し、現代的な作品に再生した舞台を作り続ける「木ノ下歌舞伎」。その舞踊作品の代表作と言えるのが『娘道成寺』だ。安珍と清姫の「道成寺伝説」を元にした、歌舞伎舞踊屈指の傑作をソロダンスにしたのは、京都のダンスユニット「KIKIKIKIKIKI」主宰で、振付家・ダンサーのきたまり。彼女がまだ20代だった2008年の初演以来、海外公演を含めて幾度も再演した作品を、待望の生の長唄演奏で上演することになった。その通し稽古の様子を、木ノ下ときたの発言を交えてレポートする。
安珍と清姫の事件以来失われた鐘が、ようやく新しく設置された道成寺。その鐘供養の場に白拍子花子が訪れ、舞を奉納する。次々と美しい舞を見せる花子だが、彼女は実は清姫の化身で、次第にその本性を明らかにしていく……というのが大筋。役者が衣裳や小道具を次々にチェンジしつつ、清らかな乙女から邪悪な魔性までを、巧みに表現していくのが大きな見どころで、名のある女形の役者は必ず演じている重要な演目だ。
木ノ下歌舞伎舞踊公演『娘道成寺』2017年再演より。 【撮影】東直子
一方できた版の振付は、その物語からは少し離れ、長唄の歌詞を自由に解釈。特に幼女から遊女まで、多彩な女性の姿を語る部分など、道成寺伝説とは関係のない歌詞が多い所に着目し、女性の多面性の表現に主眼を置いたダンスへと換骨奪胎させている。この点に関して木ノ下は「きたさんはいろんな身体の引き出しを持っていて、幼女のように軽やかに踊ったかと思えば、老婆のような重々しさを見せる時もある。それを自在に踊り分ける面白さは、初演の時から感じていました」と語る。
午後3時きっかりに始まったこの日の通し稽古では、今回の演奏者による録音音源を使用して行われた。まずきたは、手ぬぐいを頭からかぶり、能のようなすり足で舞台から登場。ゆっくりと舞台中央に移動すると、舞踏のような動きとステップを見せるシーンが続く。実は舞踏がルーツにある、彼女らしい振付だ。舞台にパッと花が咲いたように現れる歌舞伎版の花子とは異なり、何か禍々しいものが降臨したかのようなざわめきを感じさせる。
きたまり。
しかし中盤のパートに入ると、異形のようだったきたの表情が、フッと憂いを含んだ大人の女性のそれとなり、一瞬ドキッとする。そこからは恋を夢見る少女だったり、恋に悩む女性だったり、手練手管を知り尽くした悪女だったりと、多種多様なオンナぶりを見せていく。初演の『娘道成寺』の頃の、おてんば少女のようなきたの印象がまだ強かった筆者は、このなめらかな七変化ぶりにかなり驚かされた。
作品の振付自体は、上演ごとにマイナーチェンジを繰り返しているが、やはり年齢とともに自然に変わっていった所と、意識して変えていった所があると、木ノ下もきたも言う。
「やっぱり20代の頃は“男にひどく裏切られました!”と、若干被害者寄りだったんです(笑)。でも今は、完全に加害者側ですね。ひどいことをしようとは思わなかったのに、気づいたら取り返しのつかないことが起こってしまっていた……という風になってきたと思います。あと今年の頭に『あたご』という作品を作った時、宗教や信仰についていろいろ調べたんですけど、この『娘道成寺』も不道徳・不誠実がどのような結果を招くかという、因果応報の話なんだと、その時気が付きまして。その部分が、今回は強く出るかなあと思います」(きた)
きたまり。
「道成寺の物語だけじゃなく、いろんな情景や風景、祈りや呪術みたいなものまで立ち上がってくるのは、きたさんならではの『娘道成寺』ですね。特に今回は全体的に、女性の一生というか、一人の女性のいろんな側面が見えるなあと、僕は勝手に思ってます。きたさんがおっしゃるには、初演の時は20代の自分が、20代の自分に向けて振りを作っていた。それが次の上演では、20代の自分が30代になった時の自分、その次は30代の自分が40代になった時の自分と、自分の身体の変化みたいなものをつぶさに計算し、武器にしながら振付を作り続けてられるんです。それでいうと今回は、50代の自分に向けて作ったということです」(木ノ下)
歌舞伎版の『娘道成寺』のクライマックスは、花子がついに恨みのこもった鐘に手をかけ、蛇体へと姿を変える……というもの。木ノ下歌舞伎版には、実は舞台に鐘は登場せず、美術も紅白の幕一枚のみだ。その代わりと言ってはなんだが、きたは頭頂から結んだ髪を大きく振り乱し、舞台狭しと踊り回る。その動きが歌舞伎の動きに沿った日本舞踊的だったり、神楽舞的だったり、舞踏的だったり、コンテンポラリーダンス的だったり。一つの型に囚われない身体と振付の技術を持つ、きたの真骨頂とでも言うべき後半だ。
きたまり。
顔一面に垂れた髪の毛で、まったく表情は読めないが、祈りのような絶望のような、何ともいえないオーラを漂わせたきたが、静かに向こうへと去っていく。そして部屋の奥まで到達した瞬間、きたは明るく「お疲れ様でーす!」と稽古終了を告げた。数秒前までの異様な雰囲気と、その溌剌とした声とのギャップが何とも愉快だった。
木ノ下からの軽いダメ出しの後、きたはおにぎりを食べながら休憩。実はこれが、今日の最初の食事だ。というのもこの作品を通す時、胃に何か残ってると吐いてしまいそうになるので、朝から絶食をするのだという。通し稽古をするたびに「最後まで踊れる気がしない」というのだから、想像以上にダンサーにとってはハードな作品なのだろう。木ノ下も「歌舞伎だと三味線(合方)の間に役者が舞台袖に引っ込んだりしますが、これは本当に出ずっぱりなので、体力的にはキツイと思います」と語る。
きたまり。
「毎回踊るだけで精一杯だけど、いつも通る道は一つじゃない気分ですね。同じ山を登っていても、日によってたどるルートが違うという感じが、この作品はするんです。今日もまた、違いました(笑)」(きた)
「監修として稽古を見る時は、古典の『娘道成寺』の振付を脳内再生して、いろんな人にこの振付がどう映るのか? ということを、すごく考えてます。というのも『娘道成寺』は、様々な人が様々な思い入れを持つ作品。歌舞伎をすごく知ってる人や、長唄の歌詞を理解してる人が観た時に、それが古典の『娘道成寺』とどうリンクして見えるのか? ということを考えます。逆にまったく知らない人や、日本とは言語や文化が違う人には、ダンスとしてどう見えるのか? とも。
それらを頭に入れながら“もう少し、こう見えた方がいい”と申し上げたりするのが、この作品での僕の仕事ですね。あとは案外“大丈夫です”という役割が大きい(笑)。不安を打ち明けられた時に“これこれこうだから、大丈夫ですよ”と根拠を示しながら伝えれば、それできたさんは思い切りできますから」(木ノ下)
また先ほどの「年齢を重ねたからこその振付の変化」については、きたからは少し補足的な話があった。
きたまり。
「若い時は“ただ踊ってりゃ楽しい”みたいな所があったんですけど、歳を重ねると……特に私はダンサーよりも、振付家マインドの方が大きいので、これからどういう身体技法や振付を残していくか? ということを意識するようになりました。私はやっぱり西洋人ではなく、ものすごくアジアの人なので、そういう自分のバックグラウンドとか、育ってきた環境の中で“今この環境で育ってきた私”にしか作れない技術や表現は何か? を意識して、振付を作る方向になってきたと思いますし、やっぱり踊りって成熟しないと“芸”にはならないなあと。そのことを考えるのに『娘道成寺』はいい素材になっていると思います。
でも実は私にとって“古典をやってる”という気はないんですよ。(大阪の)堺で育って京都で学んだ人間としては、古墳時代や平安時代が古典。江戸時代に生まれた芸術は、今どきのものという感じがするんです(一同笑)」
この稽古の数日後から、いよいよ長唄連中を交えての稽古に突入するが、その期待について二人はこう語った。
きたまり。
「長唄の方は“こっちがちゃんときたさんに合わせるから、自由にやってくれていいよ”とおっしゃってくださってるんです。そもそも長唄と舞踊は、息を合わせるようにできているんですけど、やっぱりお互いが未知の経験だと思うんですね。だからすごく相乗効果になったり、一騎打ちやセッションみたいな感じになるんじゃないかと。録音上演の時とは、見え方も感じるエネルギーも、全然違うものになるだろうという予感はしています」(木ノ下)
「(KIKIKIKIKIKIで取り組んでる)マーラーの全交響曲の振付を始め、録音した音楽を使った作品が最近続いてたんですけど、そうすると音に自分の身体を合わせることに飽きてきて。今興味があるのは、あえて音と振りをズラして、その余白を楽しむということ。それを生演奏でやることで、間合いとか次の動きが変化する……本当の意味での駆け引きができるということを想定して、今回は振付を変えているので、本番までにその辺りを膨らませていきたいです。生演奏ならではの “こんな音知らんぞ、私は!”っていうような、妙なことが起きたら楽しいかなあ(笑)。
ただ生演奏って、骨に響くんですよ。スピーカーの音は、皮膚には響くけど骨までは行かない。でも生演奏は、骨だったり内臓だったりにかなり来るので、生演奏で踊るとめちゃくちゃ疲れるんです。『娘道成寺』は録音でも疲れるのに、これが生になったら、終わった後どうなるんだろう? とは思います。でもまあ、何が起きてもみんなで一緒に行きましょう! って気分ですね」(きた)
「木ノ下歌舞伎」主宰&『娘道成寺』監修の木ノ下裕一(左)ときたまり(右)。
意外にも木ノ下歌舞伎で、古典音楽の生演奏を使用するのは初の試み。江戸時代に書かれた戯曲から、現代にも通じるテーマを浮き彫りにしていくなど、古典の普遍的な魅力を紹介してきた木ノ下歌舞伎だが、今回の『娘道成寺』再演は、きたいわく「完全にロック」だという、長唄の魅力を紹介する機会にもなる。古典の音と出会うことで生まれる彼女の身体の変化はもちろん、きたというコンテンポラリーな肉体を動かすことで、長唄の印象がいかに変わるかということも、本番では大いに楽しみにしておきたい。
取材・文=吉永美和子