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宮城聰のメタシアター、再び ── SPACの『メフィストと呼ばれた男』/井上 優

2015.7.30
レポート
舞台

静岡県舞台芸術センター『メフィストと呼ばれた男』 写真撮影:猪熊康夫

 「君はいくつわかったかな?」——ずっとそう問いかけられているような気がしてならなかった。SPACの『メフィストと呼ばれた男』の後半、延々続けられる演劇の古典作品の引用を見ながらのことだ。まるでクイズだ。だが、クイズだとして、答え合わせはどうするのか。心配ない。当日配布の配役・スタッフクレジットの下のほうに出典が書いてある。さあやってみよう!

 これは、この上演の後半の楽しみ方の一つとして、間違いではないと思う。あえて一つ言えば、少し出題傾向が偏っていたか。ドイツ作品が目立つのは、ドイツが舞台の芝居なんだから仕方がない。ところがこれの難易度が高く、たぶん全問正解できた人はそうはいないんじゃないだろうか。私もシラーはわかんなかった!(読んだことがあるはずなのに——と、負け惜しみ)。ビュヒナーはわかったけどね!(と、ドヤ顔)。もちろん、『リチャード三世』とか『ロミオとジュリエット』、『桜の園』なんて定番も並んでいるから、それなりの観劇体験の積み重ねがある人は、結構わかったんじゃないだろうか。ただ、一つもわからない人がいたら、その人はこの劇について行けたのだろうか。そんな疑問が頭をよぎった。

 なぜか。

 それは、演じることが主題のこの芝居で、演じることの是非に関する問いかけを、ひたすら古典劇からの引用を繰り返すことで、比喩として浮かび上がらせていたからだ。ナチスがレパートリーに圧力をかける中、古典劇は、この場合、時事的な迎合を避けるための偽装として重要性を帯びる。その意味でそもそも古典劇からの引用に気づかなければ、その比喩は機能しない。いや、かろうじて『ハムレット』にさえ気づけば、ついていけるかもしれない。これは確かだ。演技に関して、この芝居は二項対立的な問いかけを突きつけるからだ。 演じる自己と演じ切れない自己、隠したい欲求と隠し通せない実情、演じつつ覚めていなければならないという理性的な欲求と、演じながら熱くなってしまう俳優としての本能。これが『ハムレット』と重なる。SPACがこの春、『ハムレット』を再演したのは、この芝居のための予防線だったのかと、そう勘ぐりたくなった。今回の『メフィスト』のために、予備知識として『ハムレット』を上演したのか、と。

静岡県舞台芸術センター『メフィストと呼ばれた男』 写真撮影:猪熊康夫

 確かにこの作品と『ハムレット』の親和性は高い。もう何度となく繰り返されてきた言い回しだが、『ハムレット』は、主人公が演じ続けることで演劇について考える芝居となっているからだ。そう、まるで宮城聰は、演劇を通して演劇について考えることに、妙にこだわっているようだ。——ク・ナウカ時代にも、例えば、『山の巨人たち』のタイトルのもと、ピランデルロの『作者を探す六人の登場人物たち』を上演したりなど、メタシアター的傾向は強かったのだが、特に一昨年『黄金の馬車』(メリメ原作)を舞台化して以来、その方向性は顕著になったように思う。今回の舞台も『黄金の馬車』のあからさまな同工異曲だ。

 『黄金の馬車』の主人公、女優カミッラは、実生活での(恋愛の成就という)幸福を断念する。自分は舞台の上でしか生きられないと自覚するからだ。彼女の幸福は、舞台の上という虚構の世界の中でしか実現されない。そしてそれは、今回の主人公クルトにもそのまま当てはまる。今回の主人公はナチスが勢力を増す中、思想的にはナチスに大きな疑問を抱きつつ、ナチスの支配するドイツで芝居を続けるために本心を偽装して演じ続ける(タイトルは、彼がメフィスト役を当たりとしていることから付いている)。

 しかし、クルトには、カミッラがかろうじて見いだした救いはない。彼も演じることの中にしか幸福はないはずなのに、演じることによって自分を騙してしまっている。素顔(本心)を隠すための演技だったはずが、いつの間にか仮面が素顔に成り代わってしまったことに彼自身気づいていない(周りはわかっている。だから、終戦後、劇場がナチスの手から解放されたあと亡命先から戻ってきた女優はクルトと共に舞台に立つことを拒む。クルトにはその理由がわからない)。その悲劇が『ハムレット』と重なる。

 しかし、今回の舞台がその効果を発揮できていたのか。

 クラウス・マンの原作は読んだことがないが、81年の映画版を見たことがある。映画版は、主人公のダメ男ぶりも含めて、もっとハムレットに重なっていた。だから春先の『ハムレット』再演の客席で次の演目の予告にこの作品を見つけて、少し心が踊った。両者が有機的につながったら面白いなと思ったのだ。しかし結果的には、まず『ハムレット』を見たあと、これはたぶん『メフィスト』には繋がらないなと思った。SPAC版のハムレット(武石守正)は妙に自信にあふれていて、彼が負うことになる二項対立的な問いかけを背負い込んでいるようには見えなかった。最後のポーランド軍の侵攻を第二次大戦後のGHQ駐進になぞらえた演出は、趣向としては非常に面白いと思ったが、ハムレット個人の魂の物語の側面が薄れてしまっていた。

 だから今回、事前に『ハムレット』を見た客でも、今回の舞台に繋がる印象を得にくかったかもしれない。2つは独立した上演なのだから、当たり前だと言われればそのとおりだが、ちょっともったいないと思う。そして今回の舞台も、その潜在的なハムレット的二面性を十分に表現しきれていたとは思えなかった。半分は脚色の問題かも知れない(クラウス・マン・原作、トム・ラノワ・脚色、庭山由佳・翻訳)。例えば、ニクラス(若菜大輔)という、親ナチスの若い俳優が登場する。私は、彼がクルトの対立項として——クルトを映す鏡として——機能するかと期待したが、実はこちらの当初の予想以上にニクラスは複雑な人物で、ナチス的な選民思想を持ちながらもナチスに失望し、その気持ちを隠さないために逮捕され、処刑されてしまう。彼は物語のかなり早い段階で姿を消すため、後半のクルト自身を照らし出す鏡としての機能をほとんど果たさない。

 一方で今回クルトを演じた阿部一徳の演技も、まだまだ改善の余地がある印象だった。どっしりと安定した演技の印象が強いこの俳優の魅力は、何より(ク・ナウカから続く語り手と動き手を分離させた芝居での語り手のときに見られる)口跡のよさにあったはずだが、何故か今回はその安定を欠いていた。多面的な矛盾を背負いこむこの役の多層性をまだこなしていなかった。というか、ダメ男には見えなかった(ダメ男に見える必要はないが、少なくとも演技してないとダメな男、という印象は欲しかった)。だから後半の引用の応酬の中で繰返し登場する「何かが腐っている」というハムレットの台詞が象徴するものも負いきれていない。

 他に、ク・ナウカ時代からの美加理がユダヤ人らしき女優を演じているが、この登場人物が劇の早い段階で(つまりナチスが政権を獲った時点で)亡命してしまう。彼女とクルトは書簡という形で気持ちを通わせ続けるが、クルトと直接からむ場面がもう少しほしかった。クルトにとって彼女はどういう存在なのか、それが今ひとつ見えてこなかった。

静岡県舞台芸術センター『メフィストと呼ばれた男』 写真撮影:猪熊康夫


 舞台面に目を転じれば、劇場が舞台の芝居だから劇場をそのまま装置として使うという発想が一目瞭然だった。通常の静岡芸術劇場を文字通り左右に縦割りして、上手の半分が仮説の客席になり、下手側が、観客席も舞台も、そのまま演技スペースとなる(空間設計は木津潤平)。

 なるほど面白い。面白いけれども、横長の演技エリアは思った以上に見づらい。外国人の観客もかなりいて——ふじのくに世界演劇祭の他の劇の出演俳優か純粋な観客だったのか——英語の字幕が映し出されるが、字幕を見ていたら、広い演技エリアで展開する物語は間違いなく追えない。この横長の舞台ゆえか、一部の俳優の発声が聞きにくく、つい英語の字幕を追ってしまっていた日本人の私も、かなり見過ごした部分があった。そういえば『黄金の馬車』の時も、野外劇場「有度」の通常の観客席を演技エリアとして使っていた。あれも今回のような意図があったのかどうか。

 今回の『メフィストと呼ばれた男』は、単なるメタシアター以上の問いかけも背負う。公立劇場を預かる演劇人は何を観客に届けるべきか。政治体制への目配せだって、今の時代でも必要だ。公的権力の介入をどうかわすのか。そもそも制約の多い中で、いかに演劇人として誠実であり続けるか——。主人公の負わされた条件は、全て宮城に当てはまってしまう。まさに宮城は古典を武器に芸術劇場を回してきたのだ。

 自分の作品を通じて自分の芸術姿勢を問い直すという、宮城聰のこの遠大な(しかし自虐的でもある)自分への問いかけは、大変興味深い。ただ、そこまでの射程での議論を目指すならば、その表現ももっと公的であるべきだ。今回の仕上がりは、閉じすぎていて、自慰行為に終わっているようにさえ見えるのだ。それはそれで確かに「しばしば演技というものはそこに陥りがちだ」という意味の皮肉は浮かび上がるかもしれないが、しかしそこまでの皮肉は問題を見えなくする。

(4月26日観劇。静岡芸術劇場)