エンタメ業界の今に切り込む新企画【ザ・プロデューサーズ】第三回・野村達矢氏

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ザ・プロデューサーズ/第3回 野村達矢氏

ザ・プロデューサーズ/第3回 野村達矢氏

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編集長として”エンタメ総合メディア”として様々なジャンルの情報を発信していく中で、どうしても話を聞きたい人たちがいた。そう”エンタメを動かしている人たち”だ。それは、例えばプロデューサーという立場であったり、事務所の代表、マネージャー、作家、エンタメを提供する協会の理事、クリエイターなどなど。すべてのエンタメには”仕掛け人”がおり、様々な突出した才能を持つアーティストやクリエイターを世に広め、認知させ、楽しませ、そしてシーンを作ってきた人たちが確実に存在する。SPICEでも日々紹介しているようなミュージシャンや役者やアスリートなどが世に知られ、躍動するその裏側で、全く別の種類の才能でもってシーンを支える人たちに焦点をあてた企画。

それが「The Producers(ザ・プロデューサーズ)」だ。編集長秤谷が、今話を聞きたい人にとにかく聞きたいことを聴きまくるインタビュー。そして現在のシーンを、裏側を聞き出す企画。

今回はBUMP OF CHICKEN、サカナクションを手掛けたことでも有名なHIPLAND MUSICの野村達矢氏を直撃した。

 


――野村さんがこの世界を目指すきっかけから教えて下さい。

ライブが好きだったんです。音楽の全てがライブには集約されていると思っていて、この仕事始めるきっかけになったのも、明治大学でプロデュース研究会というサークルに入っていて、学園祭の実行委員としてライブの企画やったことでした。

――どんな大学生だったんですか?

あの頃『オールナイトフジ』(フジテレビ)とか、女子大生が出ている番組が人気で、大学生って軟派なイメージが強くて。60年代、70年の安保の時代は学生が力を持っていて、学生運動が盛んで20歳前後の人たちが日本を、政治を変えられるんじゃないかと真剣に思って、命がけで何かやっていた時代がありました。そこから一転して、カレッジカルチャーのようなものが生まれてきて、フォークソングが出てきたり。大学って、大学そのものもそうですし、学生時代に強く発信できるユースカルチャーというかユースパワーのようなものがあると思っていましたが、僕が大学生になった頃はバブル時代で恵まれていたし、社会のことや政治のことを考える必要がなくて、就職も完全な売り手市場だったので困りませんでした。そんな時代だから学生がすごくチャラチャラして軟派な感じになっていて、企業や広告代理店からしてみると大学はお金になる場所になっていました。

ザ・プロデューサーズ/第3回 野村達矢氏

ザ・プロデューサーズ/第3回 野村達矢氏

――色々な企業や代理店が、学園祭とかにこぞってスポンサードしている時代でした。

女子大生そのものが商品になっている時代で、でも僕はそういうことに疑問を感じていて、企業とか広告代理店の手先ではなく、自分たちの力で世の中に対して何かを発信していくという気概を持って、キャンパス活動をやっていました。僕はたまたま学園祭で自分の好きなアーティストを呼ぶということをやっていましたが、そういうところから世の中に発信できることはないかと考えていました。与えられたことをやるのではなく、自分がやりたいもの創造して、人が真似できないようなことをどうやるか考えていました。当時RCサクセションが好きで、でも単純にRCサクセションを学園祭に呼ぶのではなく、自分なりの味付けを加えられたらいいな、こういうことできないかなと考えたのが、ギタリストの仲井戸麗一(CHABO)さんのソロライブでした。

――当時CHABOさんはソロ活動はやってなかったですよね?

やっていませんでした。事務所に企画書を持って行き、チーフマネージャーに話をさせてもらいました。企画書というか手紙でした。さっき言ったような、僕は大学生の力を信じて能動的な企画が見えてくる学園祭を実行したいんですということを訴えたら、意外にも受け入れてもらえました。

――話を聞いてもらえただけではなく、実現したからすごいですよね。

逆にそういう大学生がいなかったから、面白がられた部分はあったと思います。その時はCHABOさんのソロライブを実現させつつ、もう1組ビジネスという日本のニューウェイヴのバンドがいて、その時解散していたのですが、そのライブをどうしてももう一回観たいと思い、再結成してくれませんかと、また手紙を持って事務所に掛け合いに行きました。そうしたら一回だけやりましょうと言ってくれ、一日だけ再結成してくれました。学園祭の初日がCHABOさん、2日目がビジネスの再結成ライブでした。そして3日目、トリにお願いしたのが、当時学園祭の女王と呼ばれていた山下久美子さんでした。当時の渡辺プロダクション(現ワタナベエンタテインメント)にお願いに行ったところ、今度はお前みたいな学生がいるんだったらこういうことやってみたらと言われて、これは僕がもちかけた話ではなく、先方が山下久美子さんと植木等さん(クレイジーキャッツ)のコラボを提案してくれました。

――有り得ない組合せですよね。

そうなんですが、「お前がやったことにしろ」と言われ、さすがナベプロは言うことが違うなと。宣伝を一生懸命やるので媒体リストを下さいとお願いして、200社ぐらいの媒体リストをもらい、山下久美子さんと植木等さんのライブはもちろんですが、CHABOさんとビジネスの再結成もしっかりアピールしました。あとからナベプロに呼び出され怒られましたが(笑)。

――音楽が好きで、ミュージシャンを目指そうという気持ちはなかったんですか?

元々音楽が好きでしたが、音楽の成績も良くなかったし、中、高生時代はステージに立ってみたいなと思っていましたが、才能ないと思いあきらめました。それで大学に入ってプロデュース研究会というサークルに入って、裏方の仕事を選びました。

――明治大学を卒業して、渡辺プロダクションに入られました。

ちゃんと受けたかったので、学園祭の時にお世話になった山下久美子さん担当の方には相談しませんでした。当時のナベプロは一次試験でも面接が10回くらいあって、2次試験でも10回くらい面接があって、途中で山下久美子さんをやっていた担当の方が出てきて、「なんだ野村か。受けるんだったら言えよ」と言われました。2次試験も通って、3次試験が役員・社長面接でした。渡辺晋社長が面接をやった最後の年でした。その時のことで覚えているのが、渡辺社長が僕の履歴書を見て、長所が瞬発力がある、短所は持久力がないと書いていたのですが、それについて「君ね、この音楽業界っていうのは持久力がすごく大事で、短所が持久力がないと書いてあるけど大丈夫なの?」とおっしゃって。それで僕は「長所に瞬発力があると書きましたが、僕は瞬発力があるので瞬発力の繰り返しでそれを補うので大丈夫です」って言ったら、渡辺社長がニンマリして、その瞬間受かったと思いました(笑)。

――何人採用されたんですか?

500人くらい受けて3人でしたね。

――最初にの担当されたアーティストはどなたですか?

当時「NONSTOP」というロックセクションがあって、それこそ山下久美子さん、アンルイスさん、大沢誉志幸さん等がいて、そのセクションに配属希望出したら配属されて、そこのボスが、今僕が所属しているHIP LAND MUSICを設立した中井(猛)でした。そこからは中井がもう30年間僕のボスになります。色々なことを学びました。

――渡辺プロダクションには何年いたんですか?

3年です。入って2年目に渡辺晋社長が亡くなられて、その後中井が独立してHIP LAND MUSICを設立したので、そちらに移りました。

ザ・プロデューサーズ/第3回 野村達矢氏

ザ・プロデューサーズ/第3回 野村達矢氏

――野村さんが新人を発掘していく中で、アンテナにひっかかるアーティストは何か共通点あるんですか?

自分で物差しを二つ持つようにしていて、ひとつは主観的な、好きか嫌いかという物差し。もうひとつは客観的な、良いか悪いかという物差し。その二つの物差しを比べながら、両方が高いところに到達したアーティストは、仕事としても関われるし情熱を持って関われると思います。単純に今の時代の中でお金になるというだけではなく、自分の音楽体験の中で、本当に好きになれるかどうか、そういうところはすごく重要と思っていて、その二つは常に意識しています。

――野村さんというと、やはりBUMP OF CHICKEN(以下バンプ)とサカナクションの名前が出てきます。

そうですね。バンプには’98年に出会いました。最初はうちのスタッフからカセットテープを渡されて、ちょっと気になるバンドがいるんだけど聴いてみてと言われて聴いたら、すごく良くて、すぐに会いたいと思って、次の日には会いに行きました。メンバーに、一緒にやりたいという話をして、彼らもレコード会社よりも先にマネジメントを決めたいという考えで、何社かの争奪戦の末、うちを選んでくれました。最初はインディーズのハイラインレコードからリリースしました。下北沢発信というシチュエーションも彼らに合うと思い、当時の時代背景もインディーズがある種市民権を得始めてきた時期でしたので。インディーズの良さは独立性が高いことで、比較的自由なスタンスで出来て、アーティストの意志を反映しやすく、彼らは自分たちの意志とかスタンスがはっきりしていたので、そういう部分でも最適の“場所”でした。

――ハイランレコードで出した後は、トイズファクトリーと決まっていたのでしょうか?

決まっていませんでした。ハイラインレコードで2枚目の作品を出して、次にメジャーメーカーと組んでいこうかという話があって、その時に10レーベル以上から声がかかり、最終的にトイズファクトリーになりました。

――バンプもサカナクションも、共通しているのは露出する媒体を絞り込んで、ユーザーにイメージを真っすぐに伝えるようにしてきたことです。

そうですね。自分でいうのも変なのですが、アーティスト理解力をきちんと持ちながらも、単純にアーティスト目線だけではなくて、その時代のメディアの在り方や音楽の伝わり方に興味を持っていました。’80年代の化粧品のCMのタイアップや、月9のドラマのタイアップから音楽がヒットしていく時代から、今度はハイスタ(Hi-STANDARD)とか、反メディアの勢力の人たちがカウンターで出てきて、マスメディアからクラスメディアという中間的な感じで、音楽専門チャンネルのスペースシャワーとかMTVといったメディアが出てきて普及し、影響力を持ち始めました。CDが売れていたということは、イコール、ラジカセが若者の中で普及していて、ラジオが人気でした。だからFMのヘビーローテーションを取ることでヒットする図式もあって、テレビという地上波のメディアから、FMラジオとか音楽専門チャンネルといった、比較的セグメントされた音楽好きの人たちがいる場所が、メディアとして出始めてきて。そんなマスメディアより小さいクラスメディアが登場してきた時代に出てきたのがバンプでした。バンプは当時、アンチ地上波のようなスタンスをずっととっていて、音楽ファンがその先にいるのかどうかを判断したうえで、そのメディアに出るか出ないか決めていました。その先にいるリスナーの顔を思い浮かべながら出るか出ないかをアーティストと一緒に決めていました。そんな中でスペースシャワーとFM、音楽専門誌、ロック雑誌を選びました。

――雑誌も絞っていました。FMもJ-WAVEでした。

大阪は第2FM系で、東京はTOKYO-FMの方が全国ネットだったので、実はTOKYO-FMにも出ていました。サカナクションが出てきた時は、もうSNSの時代で、TwitterやInstagramが登場して、YouTubeも出てきました。当時YouTubeがまだイリーガルな時期でしたが、僕は公式チャンネルを作ってサカナクションを出したほうがいいなと思いました。Twitterのアカウントもいち早くとって、サカナクションを広めていったり、U-stream japanが出来る前にUstreamを始めていて。で、新譜が出きたときの試聴会を、Ustreamで全世界に生中継したり、SNSを使っての仕掛けは色々やっていました。

――それまでのメディアプロモーションとは違う反応でしたか?

違いました。サカナクションも今でこそタイアップが付いたり、「ミュージックステーション」(テレビ朝日系)とかにも出ていますが、ブレイクするまではそういう機会もありませんでした。本当にSNSだけを使ってプロモーションをやっていました。でも「ミュージックステーション」出るまでに、日本武道館でライブは経験済みでした。

―そういう新しいプロモーション方法とか見せ方、新しい流れをどうやってキャッチするのでしょうか?

一番は周りにいる人達との普段の会話ですよね。周りにいる人達の世代も色々ですが、敏感な人とそうじゃない人は区別しています。いつも目が鋭いなと感じる人からは、情報集めはしていて、ひっかかる言葉、何人かから出てくる共通のキーワードがあるんです。Twitterの名前が挙がる時期があったり、それがUstreamだったり。サカナクションが出たとき、ちょうどiPhone3が発売されて、スマートフォンが一気に広がるタイミングでした。iPhone3で一気にガラケーからスマートフォンに変わるタイミングで、そういう時代になるという話が色々な人から出てきたり。そういう情報や分析をキャッチしたら、これをアーティストに応用した場合、どういうふうに使えるかなということを自分なりに考えます。

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