【前編】エンタメの今に切り込む新企画【ザ・プロデューサーズ】第八回・Jin Nakamura氏 ~ヒットを産み出す彼の流儀とは?~

2016.9.2
インタビュー
音楽

ザ・プロデューサーズ/第八回 Jin Nakamura氏

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編集長として”エンタメ総合メディア”として様々なジャンルの情報を発信していく中で、どうしても話を聞きたい人たちがいた。それは”エンタメを動かしている人たち”だ。それは、例えばプロデューサーという立場であったり、事務所の代表、マネージャー、作家、エンタメを提供する協会の理事、クリエイターなどなど。すべてのエンタメには”仕掛け人”がおり、様々な突出した才能を持つアーティストやクリエイターを世に広め、認知させ、楽しませ、そしてシーンを作ってきた人たちが確実に存在する。SPICEでも日々紹介しているようなミュージシャンや役者やアスリートなどが世に知られ、躍動するその裏側で、全く別の種類の才能でもってシーンを支える人たちに焦点をあてた企画。

それが「The Producers(ザ・プロデューサーズ)」だ。編集長秤谷が、今話を聞きたい人にとにかく聞きたいことを聴きまくるインタビュー。そして現在のシーンを、裏側を聞き出す企画。

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いよいよ第二期プロデューサーズスタート「音楽プロデューサー編」第一弾。メディアに殆ど姿を現さない、音楽プロデューサーJin Nakamura氏を直撃した。EXILEや柴咲コウまで、美メロな日本のR&B楽曲を数多く生み出した彼に、その裏側を語ってもらった。

ザ・プロデューサーズ/第八回 Jin Nakamura氏

――まずは音楽の道に入ったきっかけから聞かせていただいてもいいですか?

両親が音楽好きで、家で映画音楽がいつも流れていて、ニーノ・ロータとか、エンニオ・モリコーネとか哀愁溢れる感じのものと、あと中南米パラグアイの民謡とかも結構流れていました。小さい時から知らず知らずのうちに哀愁たっぷりの曲を聴いて育ち、それが体に染みこんでいます(笑)。

――JINさんが創る切ないメロディの元はその頃の体験にあったんですね。

そうかもしれませんね。でも音楽教育的なところは特別熱心な家ではなく、ピアノも習っていませんでしたし、ギターもやっていませんでした。ただただテレビが大好きでした(笑)。それで小学校後半ぐらいの時にMTV、ミュージックビデオブームがきて、そこで当時80年代のニューロマンティック的なものa-haとかWHAM!とかカジャグーグーとかG.I.オレンジとかキラキラしたポップスの傾倒しつつ、一方ではアース・ウィンド・アンド・ファイアとかも好きでした。なんか色々なものがごちゃごちゃになって出てきて、それを全部テレビで刺激を受けていました。だから音楽の英才教育を受けてました!とか言いたいんですけど、僕の音楽のセンスはテレビによって育まれたようなものです(笑)。

――楽器は全くやっていなかったんですか?

4つ上の姉がいるのですが、姉が楽器を触り始めた影響で僕も中学に入ってすぐにギターとベースを始めました。

――まずギターからですか?

ギターが上手く弾けなくて。手が大きかったので「あんたはベースの方が向いてんで」と姉に言われて(笑)。それで姉の友達から借りてきたベースがいきなりリッケンバッカーで(笑)。MTVでプリンスのMVを観ながらベースラインを耳コピして、それがすごく楽しくて、中学の時にプリンスのコピーバンドを組みました。

――いきなりプリンスって難しくなかったですか?

今考えたら恐ろしい事ですけど、さらにそれを無謀にも四人編成でやるという(笑)。その後、バンドブームです。それもやっぱりテレビの影響をモロに受けまして、BOOWYやジュンスカかっこいいという感じでしたが、でもそれまでとちょっと違ったのは、中学の時から曲を書くのが好きでした。今聴くと変な曲なんですけど、自分でやりたいという気持ちがどこかにあったみたいで。それで例えば「パープル・レイン」を聴いて、コード進行を頼りにそれに勝手にメロディを付けて、俺ならこうするぜ、みたいな、そういう実験のようなことは昔から好きだったみたいです。でもそれは、音楽理論に基づいてるものでもなんでもなかったのですが。

――高校生になってからはオリジナル曲でバンドをやっていたんですか?

そうです。高校の音楽の授業で、自分で曲を作って歌詞を書いて弾き語るというのがあって、その時にたまたまなんですけど自分の書いた曲を聴いて、クラスの女の子で一人泣いている子がいたんです。それは今思うとただコンタクトレンズがずれているだけだったかもしれないし(笑)、でも、その時あって思って、曲を聴いて泣いたりすることってあるんだなんだなと思い、それは自分の中で大きな事件として今でも残っています。自分の作ったもので、人の心が動くものなんだという。

――バンドはずっと続けていたんですか?

大学に行ってもバンドはやっていました。でも全然芽が出なくて、仲間はどんどん就職していって僕はといえばフラフラ音楽だけやっていました。高校時代のバンド仲間が、大阪の小さな音楽制作会社をというか音楽事務所で働いていて、そこは例えば通信カラオケの打ち込みをやったり、カラオケ喫茶を経営してる方が自分のオリジナル曲を作りたいというリクエストがあったら、曲を作ったり、そういうなんでもやる会社なんですが、声を掛けてもらいました。

――そうだったんですね。

そこで音楽の勉強をしながら、夜は北新地のクラブでバンドのベーシストとして弾いたり、ホテルのラウンジでジャズを弾いたりしていました。そこの会社にいる人が結構クラッシク畑の方が多くて、僕は譜面も読めない、音楽理論もない、もちろんストリングスの譜面なんて全く書けない状態でそこに入ってしまったので、よく怒られていました。それでも食らいついて、現場でも教えてもらい、ミキシングの勉強もやらせてもらったり、アレンジのイロハのイくらいはそこで教えてもらいました。演歌のアレンジも教えてもらったり。それが業界に入ったきっかけといえばきっかけですね。そこで音楽で飯を食う厳しさを知りました。

――大学を卒業するころには、将来は音楽でご飯を食べるんだという確固たる気持ちがあったんですか?

自分はこうなりたいというものははっきりなかったんですよ。あればひょっとしたらちゃんとした専門学校に行ったり、ちゃんとピアノを習いに行ったりしたと思うんです。でもそこまで思ってなかったみたいで、どうやればいいのかわかっていなかったのかもしれないですね。

――音楽制作事務所が専門学校みたいなものですよね。

そうですね。少しですが給料をもらいながら教えてもらっていた感じでした。今思うと、叱ってくれる人って大切な存在だなと思います。そこで厳しく教えてくれたからこそ今があると思っています。逆に中途半端にちやほやされたら、何も学べなかったと思うし、ひょっとしたら辞めていたかもしれません。

ザ・プロデューサーズ/第八回 Jin Nakamura氏

――その事務所での仕事で特に印象的だったものを覚えていますか?

色々ありますが、例えばAMラジオの上沼恵美子さんの番組で、生歌コーナーがあって、そのバックバンドで弾いて、上沼さんにいじられたりして(笑)。大阪のいわゆる音楽の現場を垣間見させてもらいました。そんな中で、僕の高校の時のバンド仲間の一人が、真剣にデビューを目指して、自分の音楽をつきつめていて。そいつに曲を書いて欲しいと頼まれて、その時にハッと思って。自分もこうやって、自分の音楽とは何かということを考えないで、一生このまま中途半端に食べていける状態でやっていくのかなという事を考えた時、ちょっと怖くなって。彼に曲気合を入れて5、6曲書きました。いえ、書かせてもらいました。

――どんな感じの音楽だったんですか?

R&Bです。確か宇多田ヒカルさんとかMISIAさんが98年デビューだったので、その2年ぐらい前で、ちょうどJ-R&Bの波が来ていて、自分の体の中に哀愁みたいなもの感じさせてくれるメロディが沁みついていたので(笑)、R&Bと相性がよかったんです。

――そうでした。J-R&Bという言葉が出てきた頃でした。MISIAが大人気でしたよね。

作った曲が、サウダージな感じで、自分でもなんかいけるかも、と気持よくやれて。結局曲を書いた彼とユニット的な感じになって、似て非なる久保田利伸みたいな音楽をやっていました(笑)。僕はまだ仕事を続けていたのですが、彼がオーディションにデモテープを送ったら、運がいい事にひっかかりました。ソニー・ミュージックエンタテイメンント から連絡をもらい、トライしてみようということで2人で思い切って上京しました。

――それはいくつの時ですか?

98年で、もう27歳になっていました。志がなかった分、遅いですよね(笑)。だから若者に伝えたいです、早くから志を持たないと、遅くなるよと(笑)。

――そこからデビューを目指して…

デビューに向けて楽曲制作しましょうという事になってやっていたのですが、自分が大好きだった担当さんが、人事異動か配置換えで、担当から外れてしまったんです。もう信頼しきってやっていたのでショックで、自分としては受け入れられないわけですよ。それで次に担当になった人も、別に悪い人ではなかったのですがやっぱり合わなくて。前の担当者と言う事も違うし、半分喧嘩別れような感じになってしまって…。それで、デビューはなくなりました。世間知らずだったので、こんなのできませんとか言ってしまって…。そうしたら、ボーカルは大阪に帰ってしまって、僕は会社を辞めてきている分、帰れなくて。

――なるほど。

どうしようかと思っている時に、ユニットとして作詞家の松井五郎さんにお世話になっていたのですが、松井さんにさらに色々と教えてもらうことになりました。松井さんはとにかく詩を書くのが好きで、頼まれてもいないのにずっとカフェで詩を書いていたりするんです。僕はそんな人見たことがなかったですし、それを見て、自分の音楽に対しての向き合い方が全然だめだなと思いました。こんな凄い人が、日ごろからこんなに努力をしていて、自分はたまたま運が良くここまで来ているだけで、こんなんじゃだめだと思い、ユニットを解散してから年間100曲以上作りました。もちろんだめなのもいっぱいあるし、使えるのもあったと思いますが、とにかく書こう!と思い、そこで初めて本気になりました。28歳で、恥ずかしい話まだアルバイトをしていました。でも今まで勝負してこなかったから、この2、3年は絶対勝負しようと思って、とにかく書こうと思い3年間で300曲くらい書きました。

――100という数字はとにかくノルマを課すという意味での数字ですか?

そうです。松井さんに負けていられないという気持ちで。全然負けているんですけどね(笑)。

――とくに誰かに歌ってもらうという予定もなく、ひたすら書いてストックしていったと。

そうですね。というのも、コンペというシステムも知らなかったですし、どうやったら誰かに歌ってもらえるとか全く分からず、とにかく書いて自分を高めたいと思ったんです。

――その楽曲たちが陽の目を見たのはいつですか?

2001年にミュージック・デリという音楽配信サービスの中に、松井さんプロデュースのレーベルを作って、そこから新人をデビューさせるというプロジェクトが立ち上がって、そこに曲を提供したのが、世の中に自分の曲が出て行った最初でした。そこで書いた「浮雲」という曲が2005年に柴咲コウさんにカバーされたり、そうやって少しずつ広がっていきました。

ザ・プロデューサーズ/第八回 Jin Nakamura氏

――作詞が松井さんで作曲がJinさんというタッグで、女のコをデビューさせたんですよね。

そうですね。その企画は自分にとって後々すごく大きな出来事になるんです。松井さんと制作するのも初めてだったし、そこで出会った少女達は「キャレス」という大阪のボーカル&ダンススクー所属のコ達で、その中に荘野ジュリ というコがいて、そのミュージック・デリの企画が終わった後に、僕は荘野ジュリ をプロデュースする事になりました。とはいえ、レコード会社が決まってるわけでもなくて、単純に自分の音楽を表現するのに彼女の声がすごくいいなと思って。当時彼女はまだ高校生だったんですけど、卒業したら上京してこない?と誘い、といっても別に何か生活を保障してあげられる訳でもなく、ただ単に自分が曲を書いて、あなたをデビューさせるところまで頑張るからという事で。彼女は上京してきました。でも僕もまだ全然キャリアがなかったのですが。また並行して光永亮太君など別のボーカリストを手がけたりしていました。

――荘野ジュリさんは2004年にビクターからデビューしましたね。

そうなんです。とにかく曲作って、それを知り合いのエンジニアさんとかに聴かせてという地道な作業をしていたら、そこからレコード会社のディレクターに繋がって、気に入ってもらって、ある意味正面突破で、ピュアに音楽を聴いてもらってこれなら勝負できると言ってもらい、デビューさせる事ができました。大ヒットになったとは言えませんが、でもそういう音楽の力を信じざるを得ないというか、結局その人が感動してくれた時には、人は何かアクションを起こしてくれるということがわかったことが大きな収穫でした。

――こうやってコンポーザーJin Nakamuraの名前が業界内も世の中にも広がっていきました。この頃から曲の依頼が殺到してきた感じですか?

おかげさまで徐々に色々なお話をいただくようになりました。例えば『着信アリ』という秋元康さんプロデュースの映画の主演が柴咲コウさんで、その主題歌にたまたま僕の曲が選ばれました。「いくつかの空」という曲で、秋元さんが詞を手がけ、それがメディアに取り上げられて話題になり、自分の名前が伝わっていった気がします。まだ全然認知度はなかったのですが、そこからちょこちょこお仕事を頂けるようになったのが大きかったです。その後、柴咲さんには30曲くらい書いています。

――3年で300曲作った努力が花開きました。

曲を書くのってものすごくしんどいんですけど、でも年に100曲というと3日に一曲くらい仕上げなければいけなくて、自然と強くなっていったんです。アスリートが毎日走ってるうちに、長い距離を走れるようになるのと近いかもしれないんですけど、曲を書くのがだんだん怖くなくなってくるというか。提出した曲をダメ出しされても、またすぐ書こう!という感じだったので、そういう意味では曲を作る上でのテクニックが上がったというよりは、曲への向き合い方、恐怖心がなくなったと言った方が正しいです。だから打合せの時に出てくるキーワードを元に、どんどんメロディが出てくるというか、そこを紐解こうということに対しての恐怖心がなくなったのだと思います。

――作曲だけではなく、アレンジも含めて、音楽プロデューサーとしての仕事が増えて。

これはちょっとかっこいい言い方になるのですが、メロディが浮かんだ時に、実はアレンジも全部あるんです、自分の中には。でもそれがおぼろげだったり、どうやったら最初に思いついたところ近づくのか、方法が分からないから時間かかったり、そういう感じが強いです。

――どのプロセスでそこ(最初に出てきたアレンジ)に行けばいいんだ、みたいな感じですか?

そうなんです。登る山は決まっていて、でもどのルートで行けばその山に登ることができるのか、わからないという感じなんです。自分の作り方は、そういう感じです。だからアーティストさんに会ったり、声を聴いたり、スタッフさんのアイディアとかを耳にして、ハッと感動したり衝撃を受けたりしたときに、山は決まるんです。その山の登り方がちょっと分からない事があって、結構苦しむ事はあります。それがハイウェイで結ばれたりしていると、早く行けたりするんですけど。もちろん登った山が間違っていて、アーティストさんやスタッフさんに「この山じゃないです」と言われて、え!?ってなることもあります(笑)。 でもそれは自分としても新たな経験とか発見になるので、修正などがあっても逆に嬉しいことではあるんですよね。

ザ・プロデューサーズ/第八回 Jin Nakamura氏

――ずっと書き溜めていた曲を色々なアーティストに提供することもありましたか?

それはあります。でもそのままいける事はほぼなくて、ストックしている曲は、アイディアというかスクリプトみたいなもので、「そういえばあの曲のあの部分はすごくいいんだけど、山に登ってないんだよなぁ」という曲が、たくさんあるんですよ、五合目ぐらいで終わっているものが(笑)。

――でもこの区間の登り方はカッコよかった、みたいな。

カッコよかったんです(笑)。そこから遭難したり、時には熊に襲われたり(笑)。一応形にはなっているんですけど、断念せざるを得ないという感じのものがあるんです。そこから紐解いた曲で、ヒットしたものもあります(笑)。

――最初にも出ましたが、J-R&Bアーティストが次々とデビューし、それがユーザーに受け入れられ、Jinさんもかなり忙しくなってきた時期だったのでしょうか?

R&Bという音楽のバックグラウンドにある、郷愁とか哀愁とか悲しみみたいなものが、自分にしっくりきたのだと思います。昔、映画音楽を聴いて好きになった「哀愁感」も、相乗効果としてあって、そこは無理なく作品に反映できていたのかもしれません。

――曲を作る時にいつも心がけていることを教えて下さい。

これが一番いいと思って毎回やっています。そこは自信を持っていて。ここまでやるとちょっとエッジが立ちすぎてる?とか、まだ時代がついてきていないからここまでやるのはやめようとか、そういう考え方はお客さんに失礼だと思うんです。お客さんは本当にすごく賢いですし、騙せないですし、本当に全力でイケてる!って思うものができない限り、ヒットにはならないです。そこは絶対に一曲入魂じゃないですけど、一曲一曲本当に本気で取り組んでいます。だからかっこいい言い方になってしまいますけど、もし今書いてる曲が自分の最後の曲になってしまって遺作になっても、後悔しないようにといつも思っています。それがお客さんや自分に曲を発注してくれた方、プロデュースを依頼してくれた方への礼儀だと思っています。

――お客さんに100%伝えたい時は、120%、150%のものを作らないといけないですよね。

そうなんです。アルバムではカッコいい事をやって、でもシングルではちょっと大人の事情で……みたいのってたまにあるじゃないですか。そういうのがすごく嫌なんです。全曲全力でいけ!みたいな(笑)。

――レビューとか読んでいると「捨て曲なし」という言葉をたまに見かけますが、お客さんにとっては失礼な話ですよね。

捨て曲なんて、そんなもの元々ないんですよ。聴いた方が、これは捨て曲だなと思うのはやむを得ないと思うんです。でも作り手や歌い手や提供してる側が、それを思ってしまったらやる意味ないですし、お客さんに失礼すぎる話ですよね。

――「捨て曲なし」とか書いてるレビューを読んだら、アーティストや作った人が怒るべきですよね。

本当はそうですよね。結局はお客さんが判断したり、ライターさんも含めて聴いた方の判断が全てなんですよね。

――Jinさんといえば、EXILEの「Lovers Again」や「Ti Amo」など、EXILEが大きくなっていくきっかけとなった、初期のヒット曲を手がけられています。

プロデューサーの松尾潔さんが、EXILEさんと何かやろうという話があって、松尾さんが手がけていたKというアーティストを僕も手伝っていた流れで、EXILEさんに曲を書くことになりました。松尾さんとHIROさんのアイディアで、それまでもすごいいバラード曲はあったんですけど、ダンス&ボーカルグループと謳っているのにバラードになると踊れない曲が多く、じゃあバラードだけど踊れる曲を作りましょうという話になりました。

 

>>後編につづく

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