【追悼】スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ in memoriam Stanisław Skrowaczewski 1923-2017
2016年1月23日 東京オペラシティ コンサートホール ©読売日本交響楽団
巨星墜つ!最後まで前進し続けた希有の指揮者
2月21日、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキが亡くなった。93歳を迎えた2016年10月、ゆかりの深いミネソタ管弦楽団を指揮してブルックナーの交響曲第8番を演奏。翌11月脳梗塞で倒れ、闘病生活を送っていたが、ミネアポリスの自宅で帰らぬ人となった。
マエストロには1度だけインタビューしたことがある。13年10月、90歳の誕生日に読売日本交響楽団を指揮して覇気漲る演奏を聴かせた数日後だった。そこでまず「元気を保つ秘訣は?」と聞くと、「あえて言えば音楽に対する集中力。食事は何でも食べます。あとはグラス一杯の赤ワイン(笑)。でも時には多めに飲んでいますよ」と答えた。そして終了時に握手し、彼が部屋を出るときに重ねて握手すると、「2度目だね」と言って笑った。このときのことが妙に忘れられない。
1923年ポーランドのルヴフ(現・ウクライナ)生まれ。11歳でピアノ・リサイタルを行う俊才だったが、第2次大戦中の爆撃で手を負傷したため、ピアノを断念。46年指揮者として正式デビューし、以後作曲も続けた。ポーランド国内でキャリアを積み、58年アメリカ・デビュー。60年同国に移住し、「ミスターS」の愛称で呼ばれるようになった。60〜79年にはミネアポリス交響楽団(現・ミネソタ管)の音楽監督を務め、マーキュリーやVOXでの鮮烈な録音を通じて、世界に名を知らしめた。その後はヨーロッパでも本格的に活動。84〜91年ハレ管弦楽団の首席指揮者、94年からはザールブリュッケン放送交響楽団(現・ザールブリュッケン・カイザースラウテルン・ドイツ放送フィル)の首席客演指揮者を務め、特に後者で創出した清新な音楽は、名声を大いに高めた。
初来日は、78年の読響客演。読響とは2000年に再共演以降、急速に関係を強め、07年には常任指揮者に就任。10年に退任後も同楽団初の桂冠名誉指揮者として共演を重ねた。またNHK交響楽団にも1996年以降7度客演。ザールブリュッケン放送響とも3度来日公演を行い、各楽団で次々に名演を展開した。
彼は最後まで前進し続けた稀有の指揮者だった。内声や音の綾を浮き彫りにした、高密度かつ生気溢れる演奏は、年とともに深化していった。決定打ともいえるザールブリュッケン放送響とのブルックナー、ベートーヴェン、シューマン等の録音は70歳を過ぎてから。さらに80歳を過ぎての読響との共演では、エネルギーと前進性に充ちた濃密な快演を続け、“枯れる”という言葉にはまるで縁がなかった。
2016年1月、読響とのブルックナーの交響曲第8番。92歳の彼は、約90分の大曲を立ったまま指揮し、別次元の音楽を響かせた。ここには、いつもの緊密な音響変化や抑揚のみならず、熱気も緊迫感も深みも滋味も慈愛も美しさも、全てがあった。読響のテンションの高さも尋常ではなかった。まさしく“究極の感動的名演”。このとき皆が“最期”を予感したかもしれない。そして本当に、日本で最後の演奏となった。
5月に読響で振る予定だったブルックナーの5番は、もう聴けない。今はただ、素晴らしい音楽を届けてくれた巨匠に感謝するのみだ。
文:柴田克彦
(ぶらあぼ 2017年4月号から)
マエストロには1度だけインタビューしたことがある。13年10月、90歳の誕生日に読売日本交響楽団を指揮して覇気漲る演奏を聴かせた数日後だった。そこでまず「元気を保つ秘訣は?」と聞くと、「あえて言えば音楽に対する集中力。食事は何でも食べます。あとはグラス一杯の赤ワイン(笑)。でも時には多めに飲んでいますよ」と答えた。そして終了時に握手し、彼が部屋を出るときに重ねて握手すると、「2度目だね」と言って笑った。このときのことが妙に忘れられない。
1923年ポーランドのルヴフ(現・ウクライナ)生まれ。11歳でピアノ・リサイタルを行う俊才だったが、第2次大戦中の爆撃で手を負傷したため、ピアノを断念。46年指揮者として正式デビューし、以後作曲も続けた。ポーランド国内でキャリアを積み、58年アメリカ・デビュー。60年同国に移住し、「ミスターS」の愛称で呼ばれるようになった。60〜79年にはミネアポリス交響楽団(現・ミネソタ管)の音楽監督を務め、マーキュリーやVOXでの鮮烈な録音を通じて、世界に名を知らしめた。その後はヨーロッパでも本格的に活動。84〜91年ハレ管弦楽団の首席指揮者、94年からはザールブリュッケン放送交響楽団(現・ザールブリュッケン・カイザースラウテルン・ドイツ放送フィル)の首席客演指揮者を務め、特に後者で創出した清新な音楽は、名声を大いに高めた。
初来日は、78年の読響客演。読響とは2000年に再共演以降、急速に関係を強め、07年には常任指揮者に就任。10年に退任後も同楽団初の桂冠名誉指揮者として共演を重ねた。またNHK交響楽団にも1996年以降7度客演。ザールブリュッケン放送響とも3度来日公演を行い、各楽団で次々に名演を展開した。
彼は最後まで前進し続けた稀有の指揮者だった。内声や音の綾を浮き彫りにした、高密度かつ生気溢れる演奏は、年とともに深化していった。決定打ともいえるザールブリュッケン放送響とのブルックナー、ベートーヴェン、シューマン等の録音は70歳を過ぎてから。さらに80歳を過ぎての読響との共演では、エネルギーと前進性に充ちた濃密な快演を続け、“枯れる”という言葉にはまるで縁がなかった。
2016年1月、読響とのブルックナーの交響曲第8番。92歳の彼は、約90分の大曲を立ったまま指揮し、別次元の音楽を響かせた。ここには、いつもの緊密な音響変化や抑揚のみならず、熱気も緊迫感も深みも滋味も慈愛も美しさも、全てがあった。読響のテンションの高さも尋常ではなかった。まさしく“究極の感動的名演”。このとき皆が“最期”を予感したかもしれない。そして本当に、日本で最後の演奏となった。
5月に読響で振る予定だったブルックナーの5番は、もう聴けない。今はただ、素晴らしい音楽を届けてくれた巨匠に感謝するのみだ。
文:柴田克彦
(ぶらあぼ 2017年4月号から)