『CREATORS INTERVIEW vol.1 若田部誠』 ――ジャンルを問わず色々な音楽にチャレンジできるのが楽しい
ソニー・ミュージックパブリッシング(通称:SMP)による作詞家・作曲家のロングインタビュー企画『CREATORS INTERVIEW』。第一回目は、女性アイドルグループなどの作曲・編曲を数多く手掛け、昨年AKB48へ提供した「翼はいらない」がオリコン年間シングルチャート1位にも輝いた若田部誠に登場してもらった。音楽を好きになったきっかけや作家デビューの経緯、制作エピソードなど、ここでしか聞けない話をたっぷりとお届けします。
母親から教わったピアノと父親からもらったYMOのメドレー入りのカセットテープがきっかけに
――音楽との出会いからお伺いできますか。
母親がピアノの講師をやっていたので、家にピアノがあって。家にレッスンを受けに来る子たちもいるし、母親もずっと弾いていたので、自然とずっと聴いていたというか。ピアノの下が秘密基地みたいな感じでしたし(笑)、遊びで弾いていたりしていたのが始まりですね。
――ピアノのレッスンは?
3歳ぐらいからやっていました。ちいさい頃は全然好きではなかったですね(笑)。もちろん、ピアノを弾くこと自体に興味なくはないんですが、毎日のことなので、とにかく大変で(笑)。普通は習い事だと1週間に1回とかですが、そういう感じではなかったので(笑)。
――お母様がピアノ講師だと日常の中に常にピアノがある環境ですよね。いわば、英才教育を受けていたとも言えるかと思いますが。
どうなんですかね。教育の一環っていう感じだったのかな。まぁ、それが基礎にはなったのかなという気はします。
――では、小学生の頃の夢はなんでした?
小学校5年生の時に、音楽制作をやりたいって思いましたね。
――何かきっかけがありました?
もっとちいさい頃に弟とテープにいろんな声を吹き込んで遊んでいたんですよ。父親がいらなくなった聴かないテープをいっぱいくれて。それを自由に遊び用に使っていたんですが、たまたまラジカセで再生したらYMOの曲が何曲かメドレーみたいに繋がっているテープがあったんです。それを聴いたときに、こういう音が出る楽器があるんだっていうことに気づき、それが最初にシンセサイザーに興味を持った瞬間でしたね。
――若田部さんが小5というと、1994年ですよね。世間ではB’zやZARDをはじめとしたBeing旋風が巻き起こっていた頃ですが、今、振り返ると、どうしてYMOに、シンセに惹かれたんだと思います?
やっぱりあの独特の音色だと思いますね。今みたいにDTMじゃなかった時代の、アナログシンセと機械的なコンピューターが制御しているアルペジオに魅力というか、新鮮さを感じて。あんまりそういうものを聴いたことがなかったんだと思います。YMOはいまだに聴いちゃいますね。聴きたくなる時があります。
――その頃にはもうオリジナルの曲作りを始めてます?
作ってはいますが、今みたいにツールがなかったので、ヤマハの安いキーボードを弾きながら、2台のMDレコーダーで重ねて録音したりとか。工夫してやっていました(笑)。
――ピアノの方は?
中学生になって一度辞めちゃいましたね。単純に反抗期で…毎日、母親に習うのは恥ずかしかったんです(笑)。
――そうですよね(笑)。何か部活には入りました?
吹奏楽部に入って、トロンボーンをやっていました。僕は、トロンボーンよりももうちょっとカッコいい、サックスとかがやりたかったんですが、男は力強い金管楽器を、という顧問の意向でトロンボーンになって。
――吹奏楽部の3年間はどうでした?
ブラスバンドがやれたのは良かったなと思います。ちゃんとああいうアンサンブルを学ぶのって大変なんですね。でもそれをやったことで、楽器の役割みたいなものはわかったので。
――こじつけかもしれませんが、ストリングスやトロンボーン、トランペットが主旋律に寄り添っていくAKB48の「翼はいらない」のルーツになってるような気がしますね。
そうですね。その時は楽器の使い方という点において、吹奏楽部の時のことをかなり思い出しながら作りました。
――そのまま高校でも吹奏楽部に?
高校でも吹奏楽部に入ったのですが、あるものを手に入れていたので部活は辞めちゃいましたね。
――あるものとは?吹奏楽部を辞めた後、何してました?
高校が進学校だったので、両親が合格したら入学祝にシンセサイザーを買ってくれるって言ったんですよ(笑)。だから、ものにつられて頑張って勉強して、塾も通って。無事に合格して、高校に入って買ってもらいました。目標を達成したので、勉強しなくなって(笑)、入学後はヤマハのシンセサイザーEOS B 2000ばかりいじっていましたね。そこらへんから曲作りを毎日のようにやるようになりました。
――高校時代はどんな曲を作ってたんですか?
それまではインストが多かったのですが、EOSを手に入れてからは、ポップスにも興味がわき、制作していました。
――どうしてポップスでした? クラシックピアノ、吹奏楽部ときて。
世の中TKブームがきていたので。作曲をする人があれだけ前に出てくる状態ってあんまり見たことがなかったので、そういう職業があるのかっていうことを知って。本来裏方である職業がすごく目立っていたので、子供心にちょっと憧れていたんですね。
――じゃあ将来的には作曲家になりたいと思ってました?
まだ漠然とですが、作曲、編曲、音楽プロデューサーみたいなところにすごく興味があったし、そういうことをやりたいなとは思っていましたね。
――当時はどんな将来像を描いてました?
自分の頭の中ではもう20歳ぐらいでそういう仕事を始めていると思っていました。まぁ、実際に仕事になりだしたのは、それからだいぶ時間が経ってからですね(笑)。
――でも今でも若手の方ですよね。作家としてのデビューも遅くないと思います。
仕事になったのは25、6歳ですかね。高校を卒業して、日本大学藝術学部音楽学科にある、情報音楽コースというところに入って、音楽系のプログラミングや他音楽の人間科学などの研究などをしながら、ソニーのSDのオーディションを経て、デフスターレコードの育成アーティストになりました。ユニットを組みヴォーカルがいて、当時僕はDJみたいな立ち位置で曲を作る、トラックメイカーのようなスタイルでやっていました。その頃mihimaru GTのアレンジをしていた方の背中を見て学んで。事務所に出入りさせてもらっていたことで、こういう業界って面白いなって、よりこのJポップに興味を持つようになりました。
2年間の下積み生活の中で作った200~300曲のストックから初のCD作品リリースへ
――大学卒業から作家としてのデビューに至る26歳まではどう過ごしてました?
企業用のビデオのBGMとかは作っていたんですが、CDものはやったことがなくて。音楽1本で十分仕事になっているとは言えない状態だったし、2年間くらい特にそういう仕事はなかったんです。でも、その間も何のためというわけではなく、けっこう毎日、曲を作っていたんですよね。だから、最初にCDを出させてもらった時には、ストックが200~300曲あって。最初の曲は、その中からピックアップされた曲でした。
――2010年10月発売のSDN48の1stシングル「GAGAGA」に収録されたカップリング曲「佐渡へ渡る」ですよね。
衝撃的なタイトルでビックリしました(笑)。「自分の初めての仕事がこのタイトルなんだ」って(笑)。今はすごく気に入っているんですが、最初にタイトルを見たときはかなりビックリしましたね。
――(笑)。どんな曲調でした?
四つ打ちのダンス曲ですね。嬉しいことに、今もNGT48が歌ってくれているみたいです。
――新潟の佐渡が舞台の曲だから?
そうなんですよ。SDN48は大人のメンバーだったからMVはセクシーな感じになっていたんですが、今はNGT48の子達が歌ってくれてて。また違った感じがしたけど、嬉しいことですね。
――プロデビューの翌年には前田敦子のソロデビューシングルの表題曲「Flower」を手がけて。オリコンウィークリーチャートで1位を獲得してます。
初の表題曲だったので、ここからいろいろ変わりだしたんですよね。「Flower」は映画の曲にもなったんですが、そういうのも含めて最初は信じられない感じでした。この頃は、なんでこの曲が選ばれたのかもわからなかったですね。「佐渡へ渡る」と「Flower」は、オファーがあって作ったとか、コンペに合わせて作ったという曲ではなくて。狙って作ったわけではないことがもしかしたら良かったのかなとも思います。
――この2曲、分数がどちらも3分とか4分ちょっとくらいなんですよね。最近は5分近いものが多い中で珍しいなと思うんですが。
確かに短い曲が多いですね。自分は削っていくことのほうが大事なんです。無駄に長くする必要はないと思っています。すごい展開をつけていって意味のあるものにできるんだったらいいんですが、このメロディを聴かせたいなって思うところがいくつかあったら、それだけで終わらせたほうがいいんじゃないかと思っていて。自分で聴いていて、よりメロディにインパクトをつけられるという意味では、そっちのほうがいいのかなって。それでついつい短くなっていっちゃうんですよね。メロディの手数もけっこう削るんです。
――若田部さんが作る曲の大きな特徴の1つだと思いますね。かつてのポップスや歌謡曲、フォークソングはみんな3分台だったじゃないですか。若田部さんはJ-POPシーンにおいて、昭和歌謡やフォークソングのリバイバル、再評価の先陣を切った方だとも感じてます。例えば、2014年10月にリリースされたフレンチ・キスのシングル「思い出せない花」はAKB48グループ初のフォークソングに位置付けられてますし、それが2016年発売のAKB48「翼はいらない」に結実していて。編曲を担当した2013年発売の乃木坂46「バレッタ」の歌謡調のアレンジも、のちのリリースの流れに影響を与えましたね。
自分自身が疲れる音楽は聴きたくなくて。力んじゃうようなうるさい音楽というか。音楽を聴くとか、エンタテイメント、映画でも何でもそうなんですけど、あんまり複雑なものって聴いたり見たりする気がしなくて。寝ぼけていてもすっと心に入ってくるようなものが好きなので、力を抜いて聴いてもらえるものを一番作りたいなっていうのがあるんですよね。あとは、完全にデジタルの時代になり、スキップが容易になったので、なかなか曲を最初から最後まですべて聴いてもらえる時代でもないですしね。
Jポップの形式にとらわれないシンプルさを追及し、行き着いた昭和歌謡やフォークソング
――YMOで作曲に目覚めて、TKとともに青春時代を過ごした方が、歌謡曲やフォークに行くっていうのが不思議で。
最初はそうだったんですけど、いろいろシンセとかやって、結局こういうものを作りたくなったんです。今は逆に、いわゆるシンセの音はあまり使っていないかもしれないですね。最近のシンセの音はうるさすぎる感じがするんです。YMOの頃とかはまだアナログシンセだし、録音もアナログだし、刺激もそんなになくて柔らかいあたたかい音色なんですよね。
――音色だけではなく、楽曲の構成も昨今の主流に反してますよね。Jポップは特に、A→B→サビ/A→B→サビ/落ちサビ→サビという構成ばかりですが。
そうですね。「思い出せない花」と「翼はいらない」は意図的にやりました。要はJポップにとらわれずにやりたかったんです。JポップはA→B→サビと流れるものなんですけど、その元となっているのは二部形式の形、A→A’→B→A”だったので、逆に今聴く人には新鮮にうつるんじゃないかという意図でやりました。
――若田部さんは世代的に、フォークもいわゆる歌謡曲も通ってないですよね?それなのにここに行き着いているのはなぜなんでしょう?
僕が聴こうと思って聴いていたわけでもないんですけど、自然と家の中にそういうものがあったので聴いてはいて。父親は若い頃バンドでヴォーカルをやっていて、フォークソングをやっていたと聞いています。なんとなくですが歌謡曲やフォークソングを父親の車の中で聴いていたんだと思います。僕としては、よりシンプルにって考えた時に、今一度、ちゃんと原点に返る必要があると思って。今の曲はなんとなく複雑すぎちゃう気がするから。
――そこをすごく掘り下げて研究したりされたわけじゃないんですか。
歌謡曲だけじゃなく、もっと前の曲もいろいろ聴いたりしていましたね。「翼はいらない」を作るちょっと前に、自分で違うプロジェクトをやろうと思っていて、そこで歌謡曲ばっかり作っていたんです。担当A&Rと歌謡バーみたいなところに何回も通ったり(笑)。いろいろ掘り下げて聴いてはいました。だから、作った曲の中にはこういう二部形式みたいな曲が他にもいくつかありますね。
――作曲家になってから昭和の歌謡曲を紐解いて行く中で、誰か引っかかる人はいましたか?
いいなと思う曲はほとんど筒美京平さんの曲でした。そこからベストアルバムをすごく聴いたりして。「私の彼は左利き」は特にいいなと思いますね。自然に口ずさみたくなるし、力まずに寄り添ってくれるから。
――思わず鼻歌で歌いたくなるようなメロディを持ってるというのも、若田部さんの曲の特徴だと思います。
これは僕の好みの話なんですが、力一杯歌い上げられるのがちょっと苦手なんですよね。サラッと聞こえてきて、リラックスして聴けるようなものが好きなので。アイドルの子たちってそんなに歌い上げる子はいないし、誰もが力を抜いて鼻歌でも歌えるような曲がいいなって思っています。特別な曲じゃなくて、日常に寄り添うようなメロディがいいですね。
――なるほど。初めてのメジャー曲「佐渡へ渡る」と初めての表題曲「Flower」は転機となった曲なんですね。他に最初に転機となった曲をあげるとすると?
AKB48「永遠プレッシャー」ですね。
――編曲のみの曲をあげたのはどうしてですか?
一番苦労したからです(笑)。それまでもカップリングの編曲はやったことがあったんですけど、初めて表題曲を編曲した曲で、こんなにやり直すんだっていうくらい何回も何回もやり直しがあり。主にイントロなんですが、音色を変えてみたりとか。最後の3日間はその繰り返しみたいな(笑)。本当にMVを撮る日の朝までやっていましたね。
――どんな直しを求められていたと感じてます?
イントロですね。イントロって大事なんだなって思いました。あとは、音色の足し方とか。僕はあんまりギターが弾けないので、その時はギターの人がつきっきりでやってくれていました。ポップスの編曲はギターの重ね方とか、この楽器がこうやって刻んで、これはパットのように鳴っていて、とか、そういう積み方に関しては、何回もやり直していく中で何となく掴めました。そのあとも何回か、表題曲のアレンジをやらせてもらうんですが、そこからは少し、どう終着したらいいかわからないというところから脱却できたような気がしたんですよね。メロディが呼んでいるアレンジを読んで、楽器を入れることとか、フレーズとか、ひとつひとつに意味があるわけだから、その意味をちゃんと持たせるためにはどうしたらいいかっていうことを、何回もやり直したことによって少しわかったと思うんです。
ジャンル問わず色々な音楽のマニアックなことができるのがすごく楽しい
――今年(2017年)5月にリリースされたばかりのAKB48のシングル「願いごとの持ち腐れ」でも編曲を手がけてます。
「翼はいらない」や「願いごとの持ち腐れ」はJポップから外れているもので、それを表題曲として出してもらったというのはひとつ意味があったのかなと思っていますね。
――日本を代表するアイドルグループの作曲や編曲をしていることに関してはどんな意識でいますか。やはり、あえてJポップから外れたことを意識してますか?
そうですね。もちろんプロデューサーやディレクター、レコード会社、事務所などの意図もあるし、いろんな人の意図があるんですけど、そういうものが来るとやっぱりラッキーだと思いますね。まったく今までやったことのないようなジャンルをやれるというのはすごく楽しいです。アイドルの曲ということに、ネガティブに受け止める人もいるかもしれませんが、僕は楽しくて。マニアックなこともできたりするので、それはすごく楽しいですね。
――いろんなジャンルをやりたいっていうことなんですね。
そうですね。やっぱり、いろんなジャンルをやれるっていうのがいい経験になります。
――だから、曲が年齢不詳なんですかね。昭和歌謡、フォーク世代かと思っちゃいますから。
よく言われます(笑)。他の人がやらなさそうなものを世の中に出せたら一番いいなって思います。今の世の中にないものを作って文句を言われたとしてもなんか楽しいんですよね(笑)。
――(笑)。これからはどう考えてますか。
しばらくはシンプルに作曲家、編曲家としてやりたいです。プロデュースはビジネス感覚も必要なので、今の僕はそういうんじゃないなと思っていて。気が変わるまでは、職人のようにやってみたいなって思っています。
取材・文=永堀アツオ
東京都生まれ。幼少期から小学校まで大阪で育つ。中学から高校までの青春時代は浜松(静岡)で過ごす。母の指導の元、3才の時からピアノレッスンの日々が始まる。中学時代は吹奏楽部に所属し3年間トロンボーンを経験。この頃よりシンセサイザーという楽器に興味を惹かれ、高校入学と同時にシンセサイザーを使った作曲やアレンジなどを始める。大学進学と同時に上京、日本大学芸術学部音楽学科情報音楽コースを卒業し、現在は女性ボーカルものを中心にメジャーアーティストへの楽曲提供を行う。
[所属事務所ページ] https://smpj.jp/songwriters/makotowakatabe/