tacica×有泉智子(雑誌・MUSICA編集長) バンドの知られざる核心に迫る Vol.2
tacica
「tacicaとはどういうバンドなのか」をより深く知っていただくため企画した本特集の、2回目となるインタビューである。前回語ってもらった結成当初からデビューまでに続き、今回はデビュー後~最新作『LOCUS』までを振り返るというボリューム満点の内容に。各アルバム制作時の想いや意識はどう変わってきたのか、メンバーの休養という大きな分岐点に際した彼らが、そのとき何を感じたのかなど、特にデビュー以降に彼らを知った方にとっては必見の内容となっている。インタビュアーは前回に引き続き、MUSICA編集長・有泉智子氏が務め、tacicaの歴史をさらに紐解く。
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――『Human Orchestra』が口コミで広がった後、インディーズでEP『黄色いカラス e.p.』とファーストアルバム『parallel park』を出し、2008年10月に『parallel park』をメジャーから出し直す形でメジャーデビューしました。その頃に、札幌から東京に出てきたんでしたっけ?
猪狩:そうですね。東京には『parallel park』を出した後に出てきて……だから、『parallel park』はまだ札幌にいた頃に作ったアルバム。ほとんどの曲をバイト先で作ってましたね。ただ、レコーディング自体は伊豆で合宿レコーディングをして。とは言っても、ほとんど伊豆感はなかったけど(笑)。あの時に初めて『レコーディングって過酷なものなんだな』って思ったな(笑)。
――まぁ合宿レコーディングって、軟禁状態みたいなものだからね(笑)。
猪狩:俺、それまで北海道から出ること自体がほとんどなかったから、1週間経つ前にはもう北海道に帰りたくなったの覚えてる(笑)。
小西:「作品を作るぞ!」って言って何日間も一緒にスタジオに籠るっていう体験自体が初めてだったしね。唯一の救いは……猫がいたこと(笑)。
――はははははは! 楽曲が録れていく喜びはなかったの?
猪狩:もちろん初めてちゃんとした環境でアルバムを録ったから、そういう喜びはあったんだけど。でも結構同時進行だったんですよね。1週間でアルバム録らなきゃいけなかったから、いろんな曲のリズム録り、重ね(ギター等のダビング)、歌、ミックスが同時並行で進んでて。
――1曲1曲仕上がっていく喜びを感じるというよりも、とにかく必死でいろんな作業をやっていく感じだったんですね。
猪狩:そう。だから喜びは全体ができ上がるまではあんまり感じる暇がなかったな。いろんなことが新鮮でしたね。
――さっき言ったように、そうやって作った『parallel park』をメジャー流通から出し直す形でメジャーデビューして――。
猪狩:はい、ひっそりと(笑)。
――はい(笑)。だから実質的なメジャー第一弾作品は、2009年1月に出した『人鳥哀歌 e.p.』というシングルだったんだけど。ほとんどのバンドの場合、インディーズからメジャーに移ることで何が変わるかというと、その大きなことのひとつはプロモーション(宣伝活動)なんだよね。メジャーに行くひとつの強みは、インディーズ時代よりも大規模な形でプロモーションを行うことができるようになることで。ただ、tacicaの場合は、メジャーデビューしてからもサードアルバムの『Sheeptown ALASCA』のタイミングまでは取材を一切受けなかったですよね。
猪狩:そうですね(笑)。……ものを知らないが故だったと思うんですけど、いい曲を書けば「いい」って言われるだろう――俗に言えば「売れる」だろうっていう、ただそれだけの仕組みだと思ってたんですよね。で、今も根本の部分ではそう思ってるんだけど、とはいえ、今はあの頃よりももうちょっといろんなことを知っていて……ただ、『Human Orchestra』がある程度認知された時に、自分が思ってるシンプルな何かとは違うんだなっていうのは感じたんですよ。
――それは、世の中「いい曲を作れば売れる」っていうシンプルな仕組みだけで動いているんじゃないんだなっていうことを感じたっていうこと?
猪狩:うん。『Human Orchestra』は音楽の部分だけで広まっていったけど……でも、一方では「いい曲ってなんだ?」っていう話もあって。俺はいつも自分の曲はいい曲だと思ってるし、納得いったものを作れていると思ってますけど、でも、俺がいい曲だと思うものが誰かにとってはいい曲ではないってこともあるし。あるいは歌詞にしても、誰かにとっては歌詞は凄く大切なものだけど、誰かにとってはそこまでの大切さはいらなかったり……たとえば「音楽はBGMにしたいんです」っていう人も存在するとか。
――そうですね。音楽はただ音として楽しみたい、「君の葛藤とか想いを吐露する歌詞とか、聴いていて人生を考えさせられるような歌詞は要らないんだよ」っていう人もやっぱりいますからね。
猪狩:そう。もちろん俺がいいと思うものをいいと思ったり好きだって言ってくれる人もいるけど、その一方で「俺は無我夢中でこっちの方向に行ってたけど、こっちじゃない人もいっぱいいるんだ」っていうことも感じて……だから『Human Orchestra』の後、「これからの作業が大事になってくる」っていう考え方に切り替わった感は個人的にはあったんですよね。
――で、その「これからの作業が大事になる」と考えた時に、tacicaは取材やプロモーョンという形ではなく、むしろそこは排除してもっと音楽に集中し、自分達の楽曲を磨くことによって、その音楽で伝えられることを強化しようっていう選択をしたと。そこには、いろんなことは感じながらも、でも「自分達がいい音楽を作って届けていけばちゃんと評価されるし、ちゃんと広まっていくはずだ」という想いがあったからだろうし、もっと強い言い方をすれば、「自分達はそうやって純粋に音楽でのみ勝負していきたいんだ」っていう信念があったからだと思うんだけど。
猪狩:まさにそうですね。実際、『Human Orchestra』で音楽だけで動いていく感じを味わうことができたっていうのもあるし……でも、そこを「選択した」っていう記憶はあんまりないんですよ。自分達の中で他の選択肢はそもそもなかったっていうか……「音楽をもっとやらなきゃ」っていうところがあったから。そこは今も全然変わってなくて。最近は取材を受けることもあるけど、それは自分達の作る曲の強さを確かめる作業に近い。……やっぱり経験を積んでいくと、自分達の中のジャッジも厳しくなっていくから。前だったら、「もういい、何も言うことはない。この作品に関して余計なことを言うことは、逆にこの作品に対してマイナスになるだろう」って思ってたんだけど。でも、最近は作品やアルバムに対して「何があっても大丈夫だろう」っていう信頼が前よりもより強くなってるし、あと「大丈夫でしょ?」っていう確認作業もあったりして……だから取材を受ける時もあるんだけど。かと言って、未だに(取材を受ける等のプロモーション活動をすることが)凄く大事なことだとは思えてないというか。やっぱり俺らの真ん中になきゃいけないのは、自分達が納得いく楽曲を作ることに集中すること、そのために時間を割くことであり、その後、全力でツアーをやるっていうことだと思ってるんで。
――そうだよね。だからtacicaって、凄くプリミティヴなところだけで動いてるバンドで。曲を作って、レコーディングして、ライヴをするっていうのは、バンドとして「基本」であると同時に「すべて」なんですけど。でも、いい/悪いではなく、それを「すべて」にはできないバンドのほうが多いからね。
猪狩:そこは俺らは恵まれてるなと思う。ただ、そういう自分達のことを「正しい」とは思わないんですけどね。テレビで観るバンドマンとかミュージシャンとかも、俺は間違ってるとは思わないし、むしろタフだなって思うから。だから要は、各々の在り方として全うしきれているのか否かっていうことが大事なのかなって思います。自分達が決めたことを自分達が納得できる形で全うできるかどうか、それが一番大事なところなんじゃないかっていう気がします。
猪狩翔一(Vo,G)
精神的に追い詰められた『jacaranda』~『神様の椅子 e.p.』
――『parallel park』の後、『jacaranda』から『神様の椅子 e.p.』に至るまでの頃は、tacicaの歴史の中でも最もテーマがシリアスになっていった時期なんじゃないかと思うんだけど。
猪狩:確かに今考えると、あの頃は割とダークですよね。
――うん。tacicaは一貫して「生きるということ」の中にある様々なことを歌っているけど、あの頃は「生きること/死ぬこと」とか、世の中の「条理/不条理」とかをシビアに問い詰めるような歌詞が多かったし、「神様の椅子」という曲はそのひとつの極点だったなと思うんだけど。ああいうふうにテーマが重くなっていったのはどうしてだったんですか?
猪狩:……重くなっているっていう自覚はなかったんですけどね。やっぱりハナから自分が歌うじゃないですか。そうすると、自分が歌った時に一番しっくりしたものが自分の中でどんどん採用されていきますよね。それが単純に作品になったっていうだけで……だから暗くなったっていうイメージはあんまりないんだけど。
――逆の言い方をすれば、その時の自分が考えていたことや生きる姿勢みたいなものが素直に反映されていただけ、という感覚?
猪狩:そうだと思う。『jacaranda』の前に『人鳥哀歌 e.p.』があるじゃないですか。ここが1個『parallel park』との境目で、舞台が東京に移っていて。……俺、実はそのタイミングで喉を切る手術をしてて、入院してる病院のベッドの上で『人鳥哀歌』に入ってる3曲の歌詞を書いたんですよ。音楽をやるために東京に来たのに、その瞬間に喉を切るってことになって。先生もみんなも「大丈夫、大丈夫」って言ってたけど、いざ切った時に「大丈夫なのかな?」って思いながら書いて……で、退院してみたら、とてもじゃないけどメジャー1発目のシングルの歌詞にはなり得ない歌詞になっていて(笑)、結局全部ボツにして書き直したんですけど。 『スペシャ列伝』ライブ映像より「人鳥哀歌」演奏シーン
――なるほど(笑)。
猪狩:で、そこから『jacaranda』の曲を作り出したんですよね。だから、もしかしたらそういうことも関係してたのかもしれないけど………なんか、『jacaranda』から『神様の椅子』の頃までは、かなり行き詰まっていたというか、精神的に結構キツい時期だったんですよ」
――どうして?
猪狩:結構、自分ひとりが全部をやってるんじゃねぇかって思っちゃうような精神状態になっちゃって……曲作りにしても何にしても『なんで俺、こんなに全部やらなきゃいけないんだ?』って思ってウワーッてなったり。だからその時期になんかいろいろやったよね? スタジオ変えたりとか、エンジニア変えたりとか。
小西:やったね。いろいろ試してみたよね。
猪狩:でも結局はやっぱり元に戻ってきて、いつものスタジオでやり始めたんですけど。
小西:思い返すと、当時はみんながちょっとずつピリピリしてて、普通だったら気にならないことも気になってるのかなっていう空気があったって思いますね。特に『jacaranda』録ってる最中とかはそれを結構感じてた思い出はあります。そういうのが作品にも出てるのかなって。
小西悠太(B)
メンバーの病気療養と、大きな転機となった『sheeptown ALASCA』
――『神様の椅子 e.p.』をリリースした頃に、俊くん(前ドラマー・坂井俊彦)の病気が発覚し、その治療に専念することになります。この出来事はバンドにとっては危機だったと思うし、だからこそ大きな転機になったと思うんですけど。
猪狩:そうですね。病気のことがわかったのが『神様の椅子』の発売日前だったから、CDの中には「野音公演決まりました」みたいな告知が入っちゃってたんですよ。
――そうだったよね。『神様の椅子 e.p.』発売と同時に、初の日比谷野外大音楽堂でのライヴを発表する予定だったから。でも結果、中止になって。
猪狩:そう。提案として「サポートを入れて続行するか」っていうのもあったといえばあったんですけど、それはやめようっていうことになって。
――「この3人でなければtacicaじゃないから、サポートを入れてやるのは違う」っていうことは、当時凄く言っていたよね。
猪狩:そうですね。だから俊くんが回復するのを待とうっていうことになって。で、その間に俺と小西は曲を作ってたんだけど――ただ、それまではスタジオで3人で音を出しながら曲を作っていくっていうやり方が主だったから、それができなくなるじゃないですか。だから曲作りの仕方から変えなきゃいけなくなって。
小西:だから曲作りに関しては、そのタイミングでプロデューサーと一緒にやるようになったんですよね。でもそれによって、猪狩が持ってきた曲をバンドとして広げていく時に、それまで3人の知識でやってた時のとは全然違う形の広がりを作ることができるようになって。そこは『神様~』以前とは大きく変わったと思います。
猪狩:メンバーがひとりいないっていう状況もあったけど、それと同時に、自分でも作り手として意図的に自分の守備範囲を広げたかったっていうのもあったんですよね。それはひとつには『神様~』の時の感じを防ぎたかったっていうのもあって――作品自体がどうのじゃなくて、バンドを続ける上で、『神様~』の頃の追い詰められた空気になるのは避けたいなと思ってたから。
――なるほど。
猪狩:結果的にその守備範囲みたいなものは広げられたと思うから、そういう意味ではよかったと思う。……でも本当に、あの頃はいつ復帰できるかもわからなかったし、いつ出せるのかもわからない中で、ずっと曲を作ってた感じだった。だからそういう意味では、最初の頃に戻ったような感覚もあったんだけど。
――そうやって作っていった曲達が、後にサードアルバム『sheeptown ALASCA』として発表されるわけですが。『sheeptown ALASCA』は作品の雰囲気も『jacaranda』や『神様の椅子 e.p.』とはぐっと変わって――一時期のシリアスな問いかけと共に内面に切り込んでいくような雰囲気から、生きる喜びや音を鳴らす喜び、何よりも「生きたい」っていう気持ちが強く出る作品になった印象があったんですよね。で、そのモード転換は今に至るひとつの起点になっているところもあると思うんだけど。
猪狩:そうですね。自分でも、テーマのベクトルが変わった感じはちょっとありますね。
――そのベクトルの変化をビフォア/アフターで言葉にするとどういう感じ?
猪狩:……「どうせいつか死ぬし」っていうのがビフォアだとしたら、「どうせいつか死ぬから」になったっていう感じですかね。
――あぁ、それは非常にわかりやすい言い方だね。
猪狩:やっぱり自分のテーマとして「死ぬ/死なない」っていうのは最初からあったと思うんだけど、でも「死」っていうものを意識して「死」について書くか、「死」を意識して「生」について書くかっていうことが変わった気がします。……『jacaranda』とか『神様の椅子』とかって、白か黒かって言われたら黒いイメージなのかもしれないんだけど、それは悲しみとかではなく、怒りに限りなく近いと思ってて。で、『sheeptown~』には個人的にはあんまり怒りはないんですよ。で、それは割と意図的にやってた――意図的に怒りがある曲を入れなかったっていう印象があって。そういう作品にしようとしてた感はあります。……たぶん、この時期を境にバンドの在り方や個人個人の認識、心境がガラッと変わったと思うし、『sheeptown~』を出したことでそれが明確になったんだと思います。
――作品っていう形にしたからね。
猪狩:うん。やっぱりそれ以前とそれ以降では違うと思う。………素直になったって話かもしれないですけどね。あらゆる面で『sheeptown ALASCA』っていうアルバムが、自分達の作る曲に対して素直になれるようにしてくれた作品な気がします。
――小西くんはどう思いますか?
小西:自分自身も、やっぱりあの時期を境に考え方が変わって。猪狩から出てくるものに対して自分がどういうふうに弾くのかっていう、その考え方がかなり変わったんですよね。
猪狩:うん、ベースが一番変わったと思う。アレンジっていうものに対して、ベースがどれだけ大事かっていうのが変わったっていうか。
小西:最初の頃は、自分が何をどう弾いても、猪狩が歌っていればtacicaの曲になるだろうみたいな気持ちがあったんですよ。メロディもいいし、ある程度大丈夫だろうっていう変な自信があったというか。でも、『sheeptown~』の時にプロデューサーと一緒にやっていろんなアレンジを教わったりする中で、自分の意識も全然変わってきて。ひとつひとつの曲に対して「猪狩はどういうふうにこの曲の世界観を伝えたいのか?」っていうことを考えながらベースのアレンジをするようになったんですよね。
――要するに、自分のベースが曲の表情を左右していくんだっていうことに意識的になった、と。
小西:左右するっていうか、猪狩の持ってるものをなるべく素直な形で出してあげたいっていうふうに考えるようになったというか。だから猪狩にも「この曲はどういう感じがいいか?」っていうのを聞いて、それを踏まえた上で「こういうのはどう?」っていう提案ができるようになったっていう。前まではあんまり聞いてなかった(笑)。
猪狩:そういう各々の自覚は、あの頃に変わったんだなって思います。リズムもそうだけど、特に3ピースっていうバンドにおいてはベースって凄く重要だし。それぞれのアプローチによって楽曲の表情が変わっていくっていうことに対してより自覚的になった感じはあったと思いますね。楽曲の広がりもそうだけど、そういうのってやっぱり伝わる部分なのかなと思います。
バンドの息遣いまでを音楽に刻んだ『HOMELAND 11blues』
――その後、『jibun』を経て、『HOMELAND 11blues』を作るわけですが。
猪狩:『HOMELAND~』に関しては、『sheeptown~』みたいなマインドも踏まえて、バンドとしてやってみたいことが明確にあったというか。あのタルバムは音像に関して、一番自分達の好みが出てるアルバムなんじゃないかと思う。歌詞に関してはそこまで意識の変化はないんだけど、でも凄く生々しいアルバムになったような気がするし。
――うん。音の質感にしても歌にしても、11bluesっていうそのタイトルが示している通り、生身から出てくるものがそのまま音楽になっている感じの作品だったよね。
猪狩:ああいう裸感って、昨今では勇気の要る作業なのかなってちょっと思ってて。
――いろんな音を重ねたり、デジタルに装飾&加工するのが当たり前の時代になってるしね。
猪狩:そう。そういうところは少なからず自分達にもあったのかなっていう……でも、あの作品は自分でも凄く納得できたんですよ。俺が一番怖いことって、自分達が納得できない作品ができ上がることで。そういう点においては、ここまで生な感じでも俺は納得できたっていうのは、あの作品では凄く大きかった。実際、そうやって『HOMELAND~』を出せたことで(最新作の)『LOCUS』に行けたっていう感覚も凄く大きいし。あの後メンバーは脱退しちゃったけど、ちゃんとブレずに次に向かえたのは、『HOMELAND 11 blues』を出せたことが凄く大きかったのかなって思います。
小西:『HOMELAND~』の時は、作る前、レコーディングする前にちゃんといろんな話をしたんですよ。音に関してもそうなんですけど、曲が出揃う前から「こういうアルバムにしたい」っていうのが猪狩の頭の中にあって、それを聞いた上で曲作り、音作りを考えてやって。
――あの生感、裸感も含め、猪狩くんの中には、もう1回tacicaの0地点みたいなものを作りたいっていう想いもあったんですか?
猪狩:ああ、それはわかんないんですけど……その時の心境を言うと、その前までは、俺の中ではライヴとレコーディングっていうものが別のものだったんですよ。音源は音源として完成度高めて作りたいっていう気持ちが強かったんだけど、あの時期はそこを一緒にしたくなったんです。
――言い方を変えると、それまで「音源はライヴにおける再現性を考えずに作り込む」っていう考え方でやっていたのが、ライヴと同じように、つまり3人がその場で音を鳴らしたものがそのまま音源になっていくっていうやり方にシフトしたと。
猪狩:そうですね。で、それって実は準備がいろいろ必要で。それこそ編集せずに一発録りでレコーディングするってことにこだわるんだったら、その場でいかに足で踏み替えるのかとか(エフェクターで音をどう変えるのか)も考えた上で曲を作らないといけないし。
――あと、たとえばギターを重ねないとどうしても音の厚みやハーモニーは減るから、そこをどう聴かせるのかとかもあるよね。
猪狩:そうそう。だからあのアルバムは極力重ねずに作ってたりしてて。……あの時期はそういうのを凄くやりたくなったんですよね。
――それって、自分がその場で鳴らしている3人の感覚こそがそのままtacicaの音楽なんだっていうことを示したかったってこと?
猪狩:ああ……バンドの息遣いじゃないけど、そこまでパッケージできたら凄くいいのかな、今それをやるべきじゃないのかなっていうのは思ってましたね。
――結果として、作品としてはその後『HALO』というシングルを1枚作り、俊くんがバンドを脱退します。もしかしたら、どこかでそういう予感もあったからこそ、tacicaという3人のバンド感を残したいっていうのもあったのかな?
猪狩:うーん…………終わりを予感してたかっていうと、それは後づけになっちゃうんじゃないかと思う。ただ、やっぱり様子はおかしかったんですよ。やっぱり3人しかいないと、お互いの心境の変化は敏感に感じ取れたりするから……もしかしたら(予感は)あったのかもしれない。でも、それよりも俺としては、曲は曲、音楽は音楽だっていう気持ちの中でのことだったと思いますね。
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