女流義太夫の今、これから

レポート
舞台
2015.10.13
平成22年8月30日女流義太夫演奏会『二人禿』 浄瑠璃 竹本綾之助・竹本京之助 三味線 鶴澤弥々・鶴澤寛也 写真・福田知弘

平成22年8月30日女流義太夫演奏会『二人禿』 浄瑠璃 竹本綾之助・竹本京之助 三味線 鶴澤弥々・鶴澤寛也 写真・福田知弘

序・音曲の司

 日本の伝統芸能にもっと詳しくなってみませんか───

 歌舞伎義太夫(「竹本」)や女流義太夫の伝承者などで組織する一般社団法人義太夫協会が、5月から始まる平成27年度(第68期)[義太夫教室]受講生を募集するにあたって用意したチラシのキャッチコピーである。年齢・性別・職業を問わず誰でも参加できることを謳い、「邦楽・文楽・歌舞伎に興味のある方、また、舞台、舞踊、芸能関係の方、自分の声で語り、三味線を弾いてみて〝音曲の司〟と呼ばれる義太夫節をもっと身近なものにしてみませんか」と呼びかける。音曲の司は、江戸末期に完成の域に達した義太夫節を三味線音楽の王者の意味で言う言葉である。

 教室は義太夫節の稽古をしながら義太夫節の成り立ちや江戸時代の生活感覚などの知識を講義で学ぶ2ヵ月間の入門コースと、前後期7ヵ月間で語り・三味線を存分に稽古する実践コースに分かれる。講義の講師は学識者および伝承者があたる。実技の講師は、重要無形文化財「義太夫節」総合指定保持者を中心とする義太夫協会正会員が持ち回りで担当してきた。27年度は語りが竹本朝輝(あさてる)・竹本越孝(こしこう)、三味線が鶴澤津賀寿(つがじゅ)。ともに今日の女流義太夫界を牽引する実力者である。

 この事業は義太夫節の一般への普及を図るものだが、現今では教室の出身者が女流義太夫伝承者のかなりを占めるに至るから、保存および後継者育成の役割も果たしてきたことになる。因みに女流義太夫という名称は戦後まもなく東京で生れて一般化したもので、かつては娘義太夫(娘浄瑠璃)とか女義太夫(女浄瑠璃)と呼ばれていた。寄席に進出して定席を持ち、あるいは劇場全体を興奮の坩堝に巻き込むような花形を生んで一世を風靡した時代もあるが、女流義太夫という名称への切り替えと浸透にともなって、芸容の受け取り方は次第に変わってきたと考えていいだろう。簡単にいえば、総体的な技芸の質の高さをより強く求められるようになったのである。

 なお、協会は普及活動の一環として[一日体験教室]も行っている。直近の体験教室では「義太夫を教えてくれるところがない」と秋田・酒田市から飛行機で日帰り参加をした女性がいたという。中・近世に羽州屈指の港町として栄えた文化都市酒田の余香も感じさせる話だ。

 付け加えたい。毎年3月に行われる〈義太夫教室卒業演奏会・OB会〉と、5月に行われる〈大日本素義会(そぎかい)公演〉のことである。前者は新旧の教室卒業者有志が一堂に会して親睦を深め、義太夫三昧に浸る。後者は教室出身者と義太夫協会正会員を師匠に持つ素人弟子たち(「連中さん」と呼ぶ)が一堂に会する。どちらも義太夫協会が全面的に協力して女流義太夫の幹部が助演し、研修中の若手たちが裏方として進行を手伝っているのである。時には竹本駒之助・竹本綾之助といった重鎮が三味線で連中さんたちのお相手をするといった御馳走もあるのだが、その駒之助が一昨年100回記念公演を開催した素義会について次のように語っている。

それまで活動していた〈東都五十義会〉と〈日本浄曲会〉が合併して昭和38年に出来た義太夫愛好者の会です。素義は素人義太夫を略したものです。北は北海道から南は福岡まで全国から100人以上の方々が参加しておられました。開催日は4日間に亘ったのですが、やがて日数は3日2日と減り、今は1日になってしまいました。現在は演奏会として開催していますが50回大会までは「審査会」形式でした。竹本越路大夫・竹本春子大夫・竹本津大夫、竹澤弥七・野澤勝太郎といった人形浄瑠璃文楽の錚々たるお師匠さんを前にして語ったのです。出演する会員の皆さんは、熱心の上に向上心・闘争心も並外れていました。審査は厳正で優秀賞・躍進賞など表彰されましたから出演者は励みになったと思いますし、お弟子の三味線を弾く竹本土佐廣(とさひろ)・豊澤猿幸(えんこう)・鶴澤三生(さんしょう)といった私の大先輩にあたる師匠たちの緊張感も相当なものでした。私もずいぶんお世話になってきました。得難い修行の場の1つでもあったのです。現在も若手たちが世話役を務めていますが、単に手伝いというのではなく、そこで見聞きしたことがどれほど自身の芸の実りとなって役立っているか計り知れません。最近はまた活気を取り戻しつつあるようで喜んでいます。今後も大きな刺激を与え続けて欲しいと願っています───

平成23年6月22日女流義太夫演奏会『生写朝顔話 浜松小屋の段』 浄瑠璃 竹本駒之助 三味線 鶴澤津賀寿 写真・福田知弘

平成23年6月22日女流義太夫演奏会『生写朝顔話 浜松小屋の段』 浄瑠璃 竹本駒之助 三味線 鶴澤津賀寿 写真・福田知弘

 竹本土佐廣は昭和57年に女流義太夫界初の人間国宝になった人である。重厚な気迫のこもった語り口を言われ、登場人物の感情や情景の語り分けに勝れていたことを評価されての認定であった。

 とまれ、愛好家たちの下支えがあって、義太夫節が、ひいては女流義太夫が今日に繋がっていることを改めて思う。 

破ノ序・ちょっと義太夫節

 17世紀後半に竹本義太夫によって創始された義太夫節は、主として人形浄瑠璃の音楽として洗練されてきた。台詞とも旋律とも分別しがたい語り口の「イロ」、単なる会話や独白ばかりでなく泣く・笑う・咳をするといった表現にも写実的な技巧を施す「詞」、説明やト書きに相当する部分も三味線を入れて旋律化した「地合」、太夫の語る詞章をメロディに載せる「フシ」など様々な技法上の特色があるが、これを駆使することによって獲得した優れた表現力を賞され、人形浄瑠璃の舞台を離れて純粋に音楽として演奏されることも多い。いわゆる「素浄瑠璃」で、普通は太夫1人、三味線1人で登場人物や情景を語り分け、物語を立体化していく。女流義太夫の演奏形態も素浄瑠璃にあたる。

 人形浄瑠璃についても少し触れておきたい。簡単に言えば浄瑠璃節と三味線の演奏に合わせて人形を操る、日本固有の人形劇である。経緯は不詳だが、室町末期に人形回し(夷舁(えびすか)き)と当時流行の浄瑠璃節という語り物、最新の楽器であった三味線が結び付いて上方で生まれたとされる。浄瑠璃節には諸派があったが、竹本義太夫の出現以降は義太夫節が浄瑠璃節の代名詞になった。義太夫以前の諸派の節は、現在は〝古浄瑠璃〟と一括して呼ばれている。

 江戸期を通じて、義太夫節で語る人形浄瑠璃は歌舞伎と大衆人気の覇を競いつつ発展してきた。人形浄瑠璃専用の小屋もたくさんあったが、次第に人気が衰えて消えてしまう。最後に残ったのが植村文楽軒の経営する「文楽座」で、このため文楽の名が人形浄瑠璃の代名詞になっていったのだった。いわゆる文楽と素浄瑠璃の接点は、元々薄かった。
 素浄瑠璃という言葉は元禄期(1688〜1704)から言われ出すというが、詳しくは知らない。時代は100年ほど下るが、式亭三馬『浮世風呂』に登場する義太夫のけいこ屋とおぼしき男、上方種の落語『寝床』に登場する義太夫に凝った家主、『紙屑屋』に登場する道楽が過ぎた若旦那、『掛取万歳』に登場する義太夫好きの旦那、『転宅』に登場する義太夫の女師匠……などの描写から、江戸時代の素浄瑠璃の広がりを垣間見ることが出来よう。

 ついでに、鼠小僧の墓があることで知られる両国回向院に竹本筑後掾(初代義太夫)・豊竹肥前掾(新太夫)・竹本大和掾・竹本播磨少掾(2代義太夫)の戒名や命日などが彫りこまれた「始祖四霊」の墓石1基があるが、このうちの肥前掾が義太夫節を江戸に伝え定着させた人物であった。長く義太夫協会の事務方を勤めた水野悠子は、200年に亘る女流義太夫の歩みを江戸・東京に視点を置いて綴った『知られざる芸能史 娘義太夫─スキャンダルと文化のあいだ─』(中公新書)で肥前掾が江戸に入って21年目となる宝暦5年(1755)の時点で門弟総数が196名に上ること、職業化していたかどうかは不明ながら13名の女弟子の名が含まれることを紹介し、さらに明和年間(1764〜72)には女も座敷で義太夫を聞かせるようになっていたこと、続く安永(〜78)ごろには女義太夫が職業化していたことを、文献を示しつつ考証している。素浄瑠璃が庶民に享受され滑稽本や落語のタネになるような笑い話を生むほど根付いていたことが偲ばれる。

破ノ破・娯楽から教養へ

 ところで『知られざる芸能史 娘義太夫』は「娯楽から教養へ」の1項を立てて戦後特に顕著となった演じる側の意識変革と観客層の変化に触れ、将来はどうあるべきかについても言及している。著者のいう意識変革とは概略以下のようなものだ。

 とかく〝芸は二の次〟と評されることが多かった女流義太夫は、昭和30年代になって技芸を認められるようになった。いわば市民権を得たそのきっかけは竹本小土佐(ことさ)の紫綬褒章受章で、次いで45年には豊竹団司(だんし)・豊澤小住(こすみ)および豊竹小仙(こせん)・豊澤猿幸という絶世のペアが「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」に認定、55年に邦楽では初めて義太夫節が「重要無形文化財総合指定」となって30名が保持者に認定されたが、うち24名が女流義太夫で、ほどなく竹本土佐廣の人間国宝認定にまで至る。この一連の流れが、無形文化財に相応しい芸を聞かせなければという義務感を保持者はじめ伝承者全体に醸していった──

 観客層の変化は、こう分析する。

 40年間女流義太夫の定席だった本牧亭が平成2年閉場し会場を国立演芸場に移したが、畳敷きの客席で普段着でもふらりと入れるような感じだったのが、椅子席になって高座も遠くなり余所行きのような感じになった上に歓楽街から離れて寄席の気楽さが影をひそめ、常連だった愛好家には舞台との親密感を持ちにくい、演奏会のような雰囲気が生まれた。外部の注目度も上がり、違った感性で接する新しい観客も増えて、プログラムに解説や粗筋を施すほか当日の演目の詞章まで用意するようになる。次第に〝勉強する場〟という色彩が強まっていった──

 なるほど、義太夫の進行に合わせて一斉にページを繰る音が客席に響く光景は今や慣れっこになっているが、こうした環境の様変わりで徐々に「娯楽から教養へ」の道を歩みはじめた女流義太夫は、現在は語りを重視した〝語り本位〟の芸を目指すようになっている……のだという。継いで、明治・大正期に絶大な人気を集めた美声の豊竹呂昇(ろしょう)に代表されるように、かつての女義太夫といえば〝歌い上げる〟語り口がもてはやされていたが、本来が「語り物」である義太夫節をドラマ性重視という観点でみるようになって語り本位の芸が本格的と認められ、そのため女流義太夫の典型であったはずの音楽性・娯楽性にシフトした〝歌い上げる〟語り口の芸は徒花のように卑下される憂き目をみている、と指摘する。

破ノ急・女性の生理で語る

 平成10年に女流義太夫三味線としては初めて鶴澤友路が、翌11年に竹本駒之助が人間国宝になった。友路は力強さと繊細な表現力を、駒之助は義太夫節浄瑠璃の伝統技法を的確に身に着けていることが高く評価されたのである。2人に語り本位の本格の芸の到達点をみていい。なお、友路は義太夫節が盛んな淡路島に居を置き、100歳を超えた今も後進を指導している。駒之助も淡路島に生まれたのであった。

 さて、駒之助である。情味ある語りはしばしば「話がわかり易い、想像しやすい」と評されるが、技芸が現今の女流義太夫界の最高峰であり後進の指標であることを思えば、主流が益々語り本位に靡く傾向にあるのは道理だろう。

 その駒之助は折に触れて「女性の生理でやるから、いろいろ持って行き方が違う」と述べている。そこを聞くだけでなく、文楽ではやらなくなっている古い演出を残している点も駒之助の魅力の1つと思う。

 後進への丁寧な指導ぶりもよく耳にするが、とにかく語ることが好きで、自分の語りを聞いてもらいたい気持ちから出演依頼を断わらない。体調が心配になるが、そこにまた駒之助の良さを感じてもいる私だ。最近では平成25年11月にKAAT神奈川芸術劇場が駒之助を招いて第1回公演を行い、『和田合戦女舞鶴(わだかっせんおんなまいづる)』の三段目切「市若丸初陣(いちわかまるういじん)の段」を語らせて注目された。市若丸は物語の主役である女丈夫板額(はんがく)の子で、やがては板額の計略により将軍頼家の子公暁(きんさと)丸の身代わりとなって死んでゆく。「初陣」は珍しい演目だった。

 KAATは〝モノをつくる〟〝ヒトをつくる〟〝まちをつくる〟を掲げる創造型の舞台芸術専用劇場ではあり、駒之助は秦野市に住むので、もっぱら地縁による人選かと思ったが違っていたようだ。企画の要は、第一人者の貴重な財産演目に焦点を絞ることにあったのだった。プロデュースは元日本舞踊協会にいた女性ということである。解説に早稲田大学演劇博物館招聘研究員の神津武男を迎えて、演目に〝手紙シリーズ〟などテーマ性を持たせている。劇場主導型であるのがいい。翌年は『太平記忠臣講釈(たいへいきちゅうしんこうしゃく)』の「喜内住家(きないすみか)の段」、『桜鍔恨鮫鞘(さくらつばうらみのさめざや)』の「無筆書置(むひつかきおき)の段」を舞台に掛けた。

 今年2月は駒之助自身が発案して『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』九段目「山科隠家(やましなかくれが)の段」を通しで語った。前3回の公演のうち、忠臣蔵物の1つである『太平記忠臣講釈』が直接的には駒之助の導火線に火をつけたであろう。九段目に限っては「おこがましくも演奏させていただく」という挨拶状を書いたとの伝えがあるらしいが、文楽でも最近は前後に分けて語る段を1人で語る、しかも後半は駒之助にとっても舞台に掛けるのは初めてという演目だった。三味線を弾いた鶴沢津賀寿が「私にしても九段目を通して弾くのは最初で最後になるかもしれない」と緊張を隠せなかったが、どんな舞台であったのか私は聞き逃した。惜しかった。この10月には『鎌倉三代記(かまくらさんだいき)』八段目切「三浦別(みうらわかれ)の段」を語ると予告されている。これは『和田合戦』に導かれての演目かもしれない。これまでの上演曲の筋を改めて振り返ってみると、女性が大きく関わっていることに気づく。隠し味として〝女性〟は見逃せないキーワードなのであった。

 それはともかく、私も素浄瑠璃の真骨頂は「話の筋がわかるし、想像しやすい」ことにあると思う。しかし、女流義太夫が文楽に歩み寄った、つまり語り本位にシフトしたことで、とかく堅苦しさばかりが先に立つような舞台が見受けられることが何となく気になりだしている。本行の芸の基本をきちんと押さえてもらうことは大事として、客席の意識もそちらに気が走るばかりに、芸のあら捜しをするだけのようになってしまうのは避けたい。女流義太夫の歴史を振り返れば、もう少し大らかに楽しむ余裕があってもいいと反省を込めて思うようになってきているのである。

 昨年、私の企画した会で駒之助に『絵本(えほん)太(たい)功記(こうき)』の「妙心寺(みょうしんじ)の段」1段を語ってもらった。この「妙心寺の段」を課題曲として、口(導入)の部分を数人の若手に順々に語ってもらう目論見で立ち上げた会である。その時の駒之助との対談で、義太夫節の習得には時間が掛かること、時代物を女性が語るのは難しい面があることなどを伺ったのであった。

 「なんで女性が義太夫節をやるのかということをずっと考えている。女性の方がいいというところを見つけなければと思うが中々みつからない」と、これは津賀寿の話だ。最近の女流義太夫演奏会で聞いた『菅原(すがわら)伝授(でんじゅ)手習(てならい)鑑(かがみ)』の「寺子屋(てらこや)」もその1つだったが、『生(しょう)写(うつし)朝顔(あさがお)話(ばなし)』「宿屋の段」や『傾城(けいせい)阿波(あわの)鳴門(なると)』など女性の気持ちを語るものも多いから、そこは女性の表現は違うし生かせると思った。意識していたわけではなかったが、実は「妙心寺の段」も女性心理の描き分けに大きな比重がかかるのであった。

急・女たちの嘆き

 先の津賀寿の発言は本格を目指す風潮の延長線上にあるような気がするが、これからの女流義太夫は何処へ行こうとするだろうか。

 毎月1日と2日に、御徒町のお江戸上野広小路亭で偶数月に〈ぎだゆう座〉公演、奇数月に〈じょぎ〉公演が行われている。前者は解説付きの女流義太夫普及公演、後者は女流義太夫若手公演と色分けされる。今度の6月〈ぎだゆう座〉公演には〝女たちの嘆き〟というサブタイトルが付いた。演目は『御所(ごしょ)桜(ざくら)堀川(ほりかわ)夜討(ようち)』─弁慶上使(べんけいじょうし)の段─と『碁(ご)太平記(たいへいき)白石(しらいし)噺(ばなし)』─新吉原(しんよしわら)揚屋(あげや)の段─である。話の筋は置いて、〝女たちの嘆き〟が私にはそのまま〝女流義太夫の嘆き〟と重なってしまった。

 『土佐日記』ではないが、男もすなる義太夫節というものを女もしてみる─ことの意義。真名を本格とするなら、仮名の優しさが混じるのが女流義太夫の良さではないかと私は考える。語りに傑出しているばかりでなく声音に女性の色香も感じさせる駒之助の芸風はもちろん、女義太夫と呼ばれた時代の面影を偲ばせる竹本綾之助の芸風も私は好きである。

 修得には時間が掛かる─。経済的には決して恵まれていない中で、それぞれが道を究めようとしている女流義太夫伝承者たちの発表の場は、義太夫協会が主催するものでは国立演芸場およびお江戸日本橋亭で行なっている月例の[女流義太夫演奏会]がメインで、ごく限られている。いきおい研鑚の場を外に求めて個人的に活動することになる。神奈川に拠点を置く人形劇団ひとみ座が伝承する乙女文楽、大阪を拠点として吉田光華が孤軍奮闘する乙女文楽との共演も、そうした活動の1つである。思い出した。紀尾井ホールで駒之助たちと文楽人形の共演企画があった時のことである。珍しいと話題になり、NHKが特集を組みたいと取材申し込みをしてきた。で、「文楽とどう違うのか」と質問され「基本は一緒です」と答えたら、ニュース程度の扱いになった……という話が残っている。NHKは共演に何を求めたのであろう。文楽との共演で言えば、駒之助の若い時代の話であるが、大阪で文楽公演後の何日間か、文楽でやっていた演目の中の幾つかを女流義太夫がやる─ということがあった由である。大正時代には、文楽とは違う人形遣いのようであるが、当時の大御所的存在であった竹本素女率いる一座が〈東京文楽〉という公演をした記録も残っている。

 話が逸れた。外部での活動はかなり活発であるが、それでもなお引き出しの中身を増やす場としては十分でないのが実情だろう。その多くが人の目に付きにくいのが惜しい。定席であるお江戸上野広小路亭・お江戸日本橋亭にしても、100席程度の空間が中々埋まらないのが実情である。

 魅力がないとは思わない。浄瑠璃・三味線の実演を差し置いて申し訳ないが、まず、女流義太夫は概ね美形揃いである。正月など特別な公演で、かつての女義太夫・娘義太夫の風に倣って日本髪を結って舞台を勤めたりすると、小父さんの胸は自然に高鳴る仕組みだ。普段の公演にしても、彼女たちが着ける色とりどりの肩衣を私は目の楽しみの1つにしているが、曲に合わせて、あるいは登場人物の性格に合わせてデザインが変わるなど、華やかさは女流義太夫ならではの景物であろう。そんなわけで?どうしても客席はわけ知りの年配者が多いが、最近は若い女性の姿も多く見かけるようになった。喜ばしい。

 女流義太夫応援団の一人として、ちょっと提燈を持たせてもらいたい。
取り敢えずは6月24日に国立演芸場で行われる「義太夫協会法人化45周年・義太夫節保存会35周年」記念の女流義太夫演奏会だ。竹本駒之助・竹本綾之助・竹本土佐子・竹本土佐恵・竹本越孝・竹本越若、鶴澤津賀寿・鶴澤寛也・鶴澤駒治などなどベテランが勢揃いしている。そこでは先人が育んで今も息づいている女流義太夫の芸系の様々を推し量れるはずである。後に続く若手たちのレベルも知ることができるし、そのことで女流義太夫とは何か、どうあるべきか─を考えてもらうきっかけにもなるのではないか、そんな期待を抱いての宣伝である。

(文/児玉信 邦楽プロデューサー)

 

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