『CREATORS INTERVIEW vol.5 山本加津彦』 ――最期の瞬間に思い出すような曲を書きたい

インタビュー
音楽
2017.10.25

ソニー・ミュージックパブリッシング(通称:SMP)による作詞家・作曲家のロングインタビュー企画『CREATORS INTERVIEW』。第5回目は、西野カナ、東方神起、JYなど数々のアーティストの楽曲を手掛ける山本加津彦が登場。数多くのバラードを世に送り出してきた彼がなぜバラードを書くようになったのか、そして驚きの作詞エピソードや「広島 愛の川」の活動に対する思いなどをお聞きしました。


終活モードに入っていたときに答えを求めて音楽を始めた

――事前にお願いしたアンケートを読むと、山本さんは音楽を始めた年齢が高校卒業後の19歳とわりと遅めなんですね。

1年間、浪人をして、クズだった10代、薄っぺらな人生からおさらばする道を探っていました。本当に薄っぺらい10代だったので、もう想像できたんですよね。このまま大学に行って、コンパをやって、それなりの会社に就職して……。そういう人生が想像できて、「もうこれは終わってるな、このままいったら何もないな」と思っていました。そうやっていろいろ考えている時期に、高校の先生が大学の合格祝いとして飯に連れて行ってくれたんですよ。そのレストランで、ピアノの人がジョン・レノンの「LOVE」を弾いていて。ドラマ『世紀末の詩(うた)』(野島伸司脚本のラブストーリー)の主題歌になっていたのを聴いていて好きな曲だったんですけど、すごく感動したんです。それまでピアノはクラシックのイメージしかなかったのに、好きな曲をピアノで弾くという、すごくシンプルなことで、こんなに心に響くんだということに驚いて、自分もやってみたいなと思って、カシオトーンを買いに行ったんです。ドの音がどこかも分からない状態だったけど、その光る鍵盤と「LOVE」の楽譜、あと「はじめてのキーボード」っていう本の3点セットだけ持って上京しました。

――それまでは音楽にあまり興味がなかったんですか?

小学生の頃は「ファイナルファンタジー」が好きだったので、ゲーム音楽を聴いていましたね。でも、基本的には人並みにヒット曲を聴いたり、友達とカラオケに行ったりするくらいで。ピアノに対しても、「男がピアノを弾くなんて!」って毛嫌いしていたくらいでした。だから、それまでは音楽という要素が全くなかったんです。でも、ピアノを始めてからは、2次元なのか3次元なのかも分からない薄っぺらい人生だったのが、2次元が3次元に、3次元が4次元になったような感覚になって。今まで考えたこともなかったようなことを考えるようになったんです。「この先に答えがある気がするから、ピアノを一生懸命にやろう」と思いました。あと、19歳のときに同級生が亡くなったことも影響しているかもしれないです。「いつ死ぬのかも分からないな、こんなに薄っぺらいと死ぬときに何も残らないな」と思いました。今でいう“終活”みたいなモードに入っていたんですよ(笑)。「どうやって最期の瞬間を迎えるのか」っていう。その答えが全然見つからなくて探していたときに、答えが音楽にあるんじゃないかなと思って、音楽を始めたというのは覚えています。

――自分が死んだ後も自分が作った音楽を残したいっていう思いがありました?

そこまで大それたことは考えていませんでした。ただ、昨日よりも今日、今日よりも明日と、少しだけ上手くなって音が変わっているという、自分の指でしか気付けないような些細な変化が嬉しくて。それまでは表面的なファッションとか見た目とか体裁とかばかり気にしていたのが、誰にも分からないような繊細なことや深いところに気付くようになった。それは、今までに感じたことのなかった感覚で、それだけで世界が変わった気がしたんです。だから、曲を作って人に聴かせるとかまでは、全く考えていなかったですね。「好きな曲を弾けるようになったらどうなるのかな、「LOVE」を弾けるようになったら何か変わるのかな」と思いながら練習していました。

――上京後はどうしました?

最初の1年くらいは何も弾けなかったんですけど、ピアノが上手くなりたいから、どこかで修行はしたいなと思っていて。ある日、横浜のヒューマンロストっていうバンドがアシスタントを募集しているのを知って、「音楽をやっている人たちはいろんなことを考えてやっているはずだから、きっと自分が探している答えがあるはずだ」と思って、アシスタントを始めました。そこで、いろんな人と知り合えたし、メンバーが10歳くらい年上だったので、いろんなことを教えてもらって、自分が求めていた世界観に出会えました。

――オルタナ/グランジ系ですよね。しかも、ギターとベースの男女ユニットで。

荷物運びをしているうちに、キーボードがいないことに気付いて(笑)。でも、どういう気持ちで音楽をやっているのかを知りたかったんです。ボーカル、ベースで’13年になくなってしまったmako姉さんが歌詞を書いていたんですけど、すごく面倒見がよくて、アートな人だったので、話を聞いているのも面白くて。曲もすごくよかったので、そのときに自分でも曲を作ってみようと思ったんですよね。まぁ、思い出すのも苦しいくらい、ひどい曲だったと思いますけど。

――ヒューマンロストのお手伝いの後は?

大学2年生のときにゴスペルサークルに入ってから、ブラックミュージック寄りの人たちの中に入るようになって、SOIL&“PIMP”SESSIONSの丈青さんのピアノを見る機会があったんです。それまでに観てきたピアノとは全く違って、「何だ、これは!?」と思いました。ピアノがピアノに見えないし、黒鍵が折れることもあって。何をやっているのか分からないけど、神業的ですごくカッコよかったし、何より面白そうな人だったんですよ。「この先に何かあるかもしれない、触れてみたい」と思って、丈青さんのライブを何回も最前列で観に行って、丈青さんに「弟子にしてください」ってお願いしたんですけど、断られて。でも、それからもずっとライブを観に行っていたら、ある日、ライブが終わった後に飯に連れて行ってくれて、バンドのメンバーと飯を食いながら、「今日からこいつ、俺の弟子だから」って、みんなに紹介してくれたんです。ジャズ界隈には、僕が10代の頃に気にしていた表面的なものからかけ離れた人たちがいて、みんな、体裁を気にせず、内側に向き合っていました。ジャズは難しくてよく分かりませんでしたが、「求めるものがこの先にあるかもしれない」と思って、ずっとついて回っていましたね。弟子と言っても、ピアノの蓋を開けるくらいしか仕事がないんです。ただ、ついて行って、生の演奏を聴くだけだったんですけど、丈青さんは「それでいいんだ」って。「センスを吸収しないと意味がない。音楽は生の演奏を横で聴くのが一番いいし、それが勉強になるからついてこい」って言ってくれたんです。それで、ひたすらいろんなところについて行って、たくさんの話を聞きました。それは、目に見えない、言葉では説明できなかったり分からなかったりする世界で、まだまだ先があるんだと感じて、薄っぺらいところから自分がどんどん深くなっていっている感じがした修行時代でした。

――当時はピアニストになりたいって思ってました?

ピアニストになりたいとか、どういうプレイヤーになりたいとかっていうことではなくて、「ピアノを一生懸命に練習したら、いつか丈青さんのように弾けるようになるのかな。いや、一生かかってもこんな風に弾けるようにならないんじゃないかな」って。「普通に仕事をしていて時間がなかったら、一向に先に進めないから、少なくとも8時間くらいは没頭したいし、生活する最低限のお金を稼ぐ時間以外は全てピアノや音楽に向き合わないと答えは見つからないな」って思っていました。おもちゃと向き合っているような、ただ、それだけのためにやっていただけで、どうなりたいとかは全くありませんでした。
 

作詞をするときは“いたこ”のようになって書いている

――バンド<Ao-Neko>を始めたのは?

大学3年生のときに、ボーカルの川島葵がゴスペルサークルに後輩として入ってきたんです。何となく面白かったので、「バンドをやろうか」っていう感じで始めたんですけど、それがまた、すごくストレートなボーカルで。それまでブラックミュージックとかジャズとか、難解なところにいっていたんですけど、彼女のボーカルはオシャレなことが全く似合わなくて、小細工をすると逆にダサくなっちゃうんです。ダサいことがダサく見えない、ストレートなことを思いっきりできる子だったんです。だから、その子が歌う曲を作ると自然とストレートな曲になりました。JUJUの「空」(’08年10月発売)も最終的には少しジャジーなアレンジになりましたが、そのときに作った、すごくシンプルな曲だったんです。カッコつけたコード進行とか、いろんなものを削ぎ落として作っていたAo-Nekoの曲が、今、作っている曲に近いですね。

――楽曲提供を始めたのは、そのバンドで作っていた曲がきっかけなんですね。

そうですね。ライブを観にきていたSD(ソニー・ミュージックエンタテインメントの新人開発・発掘セクション)の方に誘われて、牧伊織ちゃんというシンガーのディレクターにバンドの曲を聴かせたら、「すごくいいから、どんどん作って」って言われて。人に提供するっていうイメージは全く沸いていなかったんですけど、いいって言われたら調子に乗っちゃうじゃないですか(笑)。だから、ちょっと頑張って作ってみようかなと思って。結局、僕の曲がリリースされる前にその子は辞めちゃったんですけど、Zepp Fukuokaのライブで、初めて客席から自分の曲を聴いたら、すごく感動したんです。今までは演奏するっていう感覚しかなかったけど、自分の曲を歌ってもらうことも、僕が最初に話していた、“生きる答え”がありそうだなと思って。これはこれですごいなと思って、そこから楽曲提供を始めました。

――曲を作る目的は自己表現とか、売れるためとかではないんですよね。

有名になることが夢ではないし、大きいステージを目指しているわけでもないです。作曲家になりたいわけでも、ピアニストになりたいわけでもない。ジャンルも職業も何でもいい。ただ、答えを求めて向き合えればいいっていうだけなんです。死ぬことを考えた終活に近いから、ひっそりモードになっているというか、「自分がどういうふうなことを考えながら死にたいかな」っていうのを考えながら作っていたら、バラードばかりになりました。

――とにかくスロウテンポのバラードが多いのも山本さんの特徴ですよね。

レクイエムみたいな感じですよね。死ぬ前にドラムが鳴ったらうるさいじゃないですか(笑)。だからドラムはいらないし、グルーヴやリズムも死ぬ前には気にしないだろうから踊れる要素も必要ない。「自分が最期に思い出したい曲を」と考えるから、どバラードばかりになってしまって。90歳近い自分のおばあちゃんにも「もっと元気な曲作りなさい」って言われて(笑)。テンポが早い曲はばあちゃんの影響ですね。

――(笑)。それと、共作も含め、女性アーティストに作曲と一緒に作詞を提供していることも多いですよね。当然ながら女性視点の歌詞が多いですが、作詞はどのようにしていますか?

何を考えているか僕にも分からないですね。作詞をするときは、本当に“いたこ”のようになっています。無茶苦茶薄っぺらかった昔の自分と今の深い部分が、もしかしたら奇跡的にリンクしてるのかな。深く考えていたことがペラペラと出てくるというか(笑)。本当に恐ろしいんですよ。例えば、JYの「好きな人がいること」(’16年8月発売)の<もし5分前に戻れるなら何をしますか>っていうフレーズは、ボイスレコーダーに作ったメロディーを吹き込んでいるんですけど、3日間で吹き込んだ音を聴き返したら、<もし5分前に戻れるなら何をしますか>って歌ってるんですよ。でも、後から聴くと、「何を言ってるんだろうな?」って、何を考えてそのフレーズが出てきたか分からないんです。逆に、考えると出てこないから、むしろ無にするんです。何にも考えない状態にして、パッと出てきたら芋づる方式で書いていくので、本当に“いたこ”ですね。自分じゃない自分が書いている感覚です。

――‘08年にヒットしたドラマ「恋空」の主題歌「アイのうた」(福井舞)も?

ドラマの主題歌ということもあって、最終的には微調整をしたり付け加えたりした部分もありますけど、最初に出てきたところは“いたこ”ですね。もちろん、学生時代に恋をしていたときに通っていた道とか、自分の中にある実体験が出てきているんでしょうけど、何かを考えて言葉を出したわけではないです。でも、それは変えたくない。考えて書きたくないんですよ。音楽って見えないものだし、形のないものだから魅力的だっていう想いがあって。それを方式や形にしたときに、自分の中でつまらない10代の頃に戻る感じがあるんです。でも、そうではない、深い部分に向き合おうと思っているし、不思議でよく分からない未知のものって、すごく魅力的なものに感じるんですよね。考えて書きたくないし、方式にしたくないから、人に教えるのは無理だと思います。訳が分からないけど、自分の中から出てくる。出てこなくなったら自分が薄っぺらくなったっていうことだろうし、出てくるっていうことは普段自分が生きているときに考えていることが蓄積されてポーンと出てくるんだろうなって。全く説明のつかないものだとしたら、魅力的だし面白いなって思いますね。
 

自分が死ぬ間際に、ボケながら弾いているうちの1曲ができた

――“いたこ”とは似て非なるものかもしれませんが、広島原爆を描いた漫画「はだしのゲン」の故・中沢啓治さんが残した唯一の詩に曲をつけて、加藤登紀子さんが歌った「広島 愛の川」(’14)は山本さんが求めているものに近い気がしますね。

そうですね。亡くなられた方の思いが詩になっていて、それを音楽にするというのは、まさに僕が向き合っていたものでした。だから、「残された思いを自分が今、音にする」ということ自体に、すごく求めていたものや目指していたものがありました。ただ、社会的に意味のある詞なので、音楽以外の部分、完成した曲をどうするかというところにも向き合わないといけなかったのは大変でした。僕のせいで、残された人の思いやこの詩を受け継いでいこうとする思いを消してしまったらダメだし、付加要素のついた曲だったので、自分も頑固になって登紀子さんに歯向かってしまったりもしたけど、それでも自分が感じるものを大事にしないといけないなと思ったんです。お役所や学校の先生とかとも戦わないといけなかったので大変でしたが、苦痛で投げ出したいとは思いませんでした。

――それはどうしてですか? これまでのお話だと自分の心の内側と向き合う手段としてピアノや作曲があるという印象を受けたんですが。

ファンタジーみたいに現実離れした曲作りをすることが多かったんですが、2011年の震災でたくさんの人々が亡くなったときに、結局は自分が向き合ってきたものが何の役にも立たなかったんですよね。社会とかけ離れたところで自分の妄想だけでファンタジーを作っていても、現実的に大変なことが起きているときに自分が今やっていることでは何もできなかった。そこで、「もっと社会の中で人と向き合って曲を作らなきゃな」って思ったんです。そういう意味では、その後の「広島 愛の川」は、自分の気持ちだけで作ったものを、世の中の人と向き合ってちゃんと形にして届けるという、20代の僕にはできなかったことができた。自分の中でもう1つ、大切なことが見つかった経験だったと思います。しかも、あの曲は、毎年夏に合唱曲として歌われていて、段々とみんなの心の中に受け継がれている。大変なことを乗り越えて、自分が求めていた、形のないもの、子供たちを繋ぐピュアな音楽に戻ってきているので、そのためには労力を割かなきゃいけないなって。妄想してばかりじゃダメだなって。ちょっと大人になったっていうことですね。

――そして、最新作として、西野カナ「手をつなぐ理由」がリリースされたばかりですが、これが和メロのピアノバラードになっていて。弦が入っていますが、ドラムとベースレスで、ほぼピアノの弾き語りになっていますよね。シングルの表題曲としてはかなり異例だと思います。

この曲は、20代のときに作っていた気持ちに近いものがあります。もともと和メロが好きで、演歌とか祭りの音階しか聴いていなかったんですけど、この曲は祭り笛の音階(ドレミソラのヨナ抜き音階/民謡や童謡以外では坂本九「上を向いて歩こう」、AKB48「恋するフォーチュンクッキー」、星野源「恋」などがある)になっているんです。しかも、ずっと自分の曲にドラムは合わないと思っていた結果、この曲にはドラムが入っていません。

――さらに2番がないっていうのも異例です。

そうなんですよね。シングルになるとは思っていませんでしたが、いい曲だなとは思ってもらえるんじゃないかと思っていて。結果、いろいろと飛び越えて、シングルにしては珍しい、リズムなしで、2番なしで、そのままシングルとして採用してもらえました。和メロなんだけど、西野カナさんが上手くポップスに落とし込んでくれたおかげで、古臭くもなく、今っぽい中で、しかもちゃんと自分のルーツがある曲になりましたね。あと、僕は自分が好きな曲はCDで聴くよりもピアノで弾く方が好きなんです。スピーカーを通して再生するのは、話していた3次元的な感じがして。感動した曲を自分の中で思い出と一緒に弾いていると、音楽を聴くよりも4次元的な感動があるんです。「手をつなぐ理由」は、ピアノで弾いていると、めちゃめちゃ心地がいい。自分がじいさんになってボケたときに弾いても、すごくいいなって思える。そういう感動がある曲だし、自分が死ぬ間際に、ボケながら弾いているうちの1曲ができたと思います。


取材・文=永堀アツオ

プロフィール
山本加津彦
1979年生まれ、大阪府出身。20歳で上京、独学でピアノを学び、丈青氏(Soil&"Pimp"Sessions)に師事する。バラードを中心に、心あるメロディーや詞は時代を感じさせず、子供からお年寄りまでに響く曲を作る。自身のバンドAo-Nekoや、ゴスペル等の演奏も日本各地で展開し、“人のつながり”を重視して広げていくような音楽活動を行っている。
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