東京芸術劇場「扇田昭彦さんを送る会」に参列者600人超。
東京芸術劇場のTwitterより
串田和美・野田秀樹らがスピーチ
去る5月22日、悪性リンパ腫のため74歳で急逝した演劇評論家・元朝日新聞編集委員の故・扇田昭彦を「送る会」が、7月6日、東京・池袋の東京芸術劇場プレイハウスで行われた。
永井愛(劇作家・演出家)と木野花(演出家・女優)が司会を務め、串田和美(演出家・俳優)、川本三郎(評論家)、野田秀樹(劇作家・演出家・俳優)が舞台に設けられた特大の献花台(舞台美術家・島次郎とフラワーコーディネイター桜井忍によって作られたもの)の前でスピーチを行った。
串田「最初に出会ったのは黒テントの最初の公演の時。リュックを背負った朝日の若い記者が旅についてきたのが印象深かった」
川本「最近朝日新聞がバッシングを受けた時、批判をする人々は彼に会うべきだと思った。そうしたら考えを変えるに違いないと。自分も朝日新聞で氏の後輩だったが、不祥事で解雇された(自伝小説『マイ・バック・ページ-ある60年代の物語』に詳しい)後も、実は密かに仕事を回してくれた。実は、そういう男気のある人だった」
野田「自分が20歳の時、VAN99ホールに夢の遊眠社(「走れメルス〜燃える下着はお好き」)を見に来てくれたのが最初の出会い。自分が東京芸術劇場の芸術監督に就任した時、膨大な“見る力”を有した扇田氏に運営委員を依頼したところ快く引き受けてくれた。ルーマニアのシビウ国際演劇祭に一緒に行った時には、オススメ公演の良席のをわざわざ自分のために買ってきてくれて、演劇好きに対する無償の愛が感じられた」
また生前の功績を振り返る映像の中では、彼がかつて司会をしていたBS-NHKの演劇番組に出演した時の唐十郎、蜷川幸雄、故・井上ひさしのトークが紹介され、さらに彼と東大時代より親交を結んできた仏文学者・巖谷國士や、女優・渡辺美佐子の回想コメントも披露された。
巖谷「知的な反面、子供っぽさのある人だった。60年安保闘争も子供っぽく参加したのではないか。その遊び心において彼は演劇に惹かれたのだろう」
渡辺「演劇記者になって初めてのインタビュー取材の時に私のところに来てくれた。普通の記者はメモに書くところ、おもむろに大きな大学ノートを広げて“それでは始めましょうか”と切り出され、面食らった」
閉会に際しては、扇田の家族達と共に最期をみとった大学時代からの友人で編集者の桑原茂夫が挨拶。「死の数時間前に病床の彼から電話連絡を受けて、駆けつけた。しきりと“頼むぞっ”“よろしくなっ”という言葉が出たが、それ以外のことは残念ながら殆ど聴き取れなかった。しかし、不思議なことに2歳になるお孫さんには彼の言わんとしていることのすべてが暗黙のうちに伝えられているように見えた」
会場には一階席がほぼ満員になるほどの参列客約600人超の献花の後は、ロビーに場所を移して懇談会が行われ、小田島雄志・麿赤兒・四谷シモン・嵐山光三郎による献杯や、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、岩松了、平田オリザ、三谷幸喜、市村正親らのスピーチが行われた。また扇田が見てきた演劇をまとめた小冊子が参列者に配布されたが、これは朝日新聞の後輩記者・山口宏子が編集した。
「スクープなど取れば(新聞社では花形コースの)政治部や社会部に異動させられてしまうから」と、社内ではなるべくおとなしくしていたという扇田。「“一生を棒に振る”という言い方があるが、私はひたすら舞台を見ることで“一生を棒に振り”、しかもそれを心から楽しんできた」という彼の言葉も紹介されたが、演劇の魔力に魅せられてしまった全ての演劇好きの人間たちの持つ心情を見事に言い当てている。
また、巖谷が指摘した扇田の「子供っぽさ」とは、かつて「唐十郎のことを鈴木忠志が“幼な心の発露”と称した」と扇田が嬉々として書いたことと合わせ鏡のように重なりあい、やはり扇田が何よりもいちばん好んだのは唐十郎の演劇だったのではないかと考えさせられるのだった。
それにしても、一人の演劇評論家あるいは演劇記者の追悼会として、これほど大勢の人が集まることはそうそうあるものではなく、改めて氏の功績の大きさや人柄の良さが偲ばれる一夜であった。