【全6回連載】“傷だらけの天才バッター”西岡剛が今だから話せる『過去・現在・そして僕の未来』《第5回》「本当の僕は弱い人間」

インタビュー
スポーツ
2019.7.1
強がっていた20代。その強がりを捨て、自分の弱さを認めた時、やっと「素」に戻れた西岡。恩師・髙橋慶彦さんや親への感謝も素直に口にできるようになった

強がっていた20代。その強がりを捨て、自分の弱さを認めた時、やっと「素」に戻れた西岡。恩師・髙橋慶彦さんや親への感謝も素直に口にできるようになった

 

昔は強く見せていた。でも本当の自分はめちゃくちゃ弱い人間


―西岡さんは自分の性格はどんな性格だと思いますか?
「めちゃくちゃ弱いですよ。いやー、もう弱いですよ」

―信じられませんね。逆に見えますけど?
「弱いから強く見せているんですよ。本当に強い人は黙っています。芯のある人って口数も少なくて。こういう人は強いですよ。(それに対して)僕は弱いですよね。若い時は弱いことを隠そうとして、強く見せていたんですよ。だからイケイケというようなイメージを持たれていたと思うんです」

―でも、親分肌ですよね?
「いや、それは僕が言うことじゃないから(笑)。でも、この自分の弱さをそのままでいい、そのままを出していこう、と思ったのは4年前です」

―弱さを認めるのは逆に強いということでは?
「うーん、どうですかね。僕が20代の時、『俺はもう、プロ野球選手だ』『気安く話しかけんなよ』と、しょうもないオーラを後輩たちに放っていたんです(苦笑)。でも、年を重ねていっていろいろな経験すると、それがどんなに無駄なことかと。だって、結果出していれば、自ずと『凄い人や』と見てくれるじゃないですか。その人が『喋りかけんな』みたいな風になったら冷めますよね。『なんなんだ?この人』って」

―メジャーに行っても気づいたことじゃないですか?
「はい、メジャーに行っても気づきました。去年引退したジョー・マウアーという選手がチームメイトにいたんですよ。イチローさんと常に首位打者を競っていて、7年で200億円くらい稼いでいたプレーヤーです。僕の一つ年上なんですが、メジャーの中でもスーパースターとして有名でした。でも、スーパースターの中でも一番そのオーラを出さないスーパースターとしても有名で、本物の人格者なんです。マイナー選手にだろうが、普通に『Hey!』みたいに気軽に声をかけてるんです。アメリカの文化、育ちだとは思うんですけれども、それ見て衝撃受けましたね」

―西岡さんは「男気」とか「かっこよさ」を追求してきたように思いますが…
「その通りです。いや、そう思われるように(自分自身を)作っていました。時代っていうのは本当に変わっていっていますよね。僕らやもっと上の年代の人たちの小中高の教育のされ方と、今プロに入ってきている若手の育ち方というのは全然違いますよね。監督が頭をバットで『ポン!』とやったり、ケツバットをやるだけでも訴えられる時代になってきているわけですよ。そういう子たちに対して『ビビらしたり』とか『この人怒らしたら怖いやろうな』とかは、これからは必要ないですよね」

―いじめ、しごきもそうですね
「はい。そういうのはもうナンセンスですよ。教える情熱は必要ですけれども、伝え方は昔と今は違いますよね。それをまだ昔のスタイルでやっている人というのは、時代に沿えないというか、どうかな?と思うんですよね」
 

弱さを認めた今、誰に対しても『素の状態』でいられる


―西岡剛という男は、実は根がすごく真面目な人なんじゃないですか?
「僕は真面目なのかなぁ(笑)。でも、仲良くなった友だちからは『イメージとまったく違うね』とよく言われますね。それでいいんだと思います。全員に『自分のそのまま』を見せてたら、特にプロの世界はいろいろな人が寄ってくるので。すべてを取り込んでしまうと生活そのものが大けがする場合もあると思うんです」

―そこは見極めないといけませんよね
「はい。その点はすごく慎重にしていました。結婚もしてない若い時、一緒に飲みに行ったり遊んでくれる友だちもいてましたけれども、結婚したら妻以上に信頼できる人はいなくなりましたね。もちろん、人づきあいは大事だけど、妻という存在ができた瞬間に積極的に遊びに行く必要がなくなったんです。だから、もう誰に対してもそのまま『素の状態』で接していけばいいや、という感覚になったと思うんです」

―すごく真面目でナチュラル。でも、そう思われたくなかった
「若いうちは『あんなに練習せえへんのに、なんで活躍できるんやろ?』って言わしたかったんです。僕は20~25歳までの約6年間、プロ2年目から高橋慶彦さんに育ててもらいました。ナイターは午後9~10時ごろに終わりますよね? それ終わってから毎日、深夜0時までバッティング練習ですよ。毎日です。1度だけ『全試合出てるから、試合後にずっと練習してたらカラダが持たないです』と訴えた時に『今すぐユニフォーム脱げ』と言われました」

―人知れずにそこまでやっていたんですか?
「僕は向かって行くタイプ、スタイルなんですよ。でも、慶彦さんはそのスタイルに付き合ってくれた。でも、自分はその時間ってすごく身になったと思うんです。今の時代の子は分かりませんが、それはその時の教育なんで。僕も(向かって行く)そういう性格やから、慶彦さんに対して今でもものすごく感謝しているんです」
 

プロのピッチャーの怖さを知り、打てなくなってスイッチに


―その慶彦さんにスイッチを勧められた?
「いや、そう思われているみたいですが、真相は少し違います。もともと中学1年生までは右打ちだったんですよ。で、中学2年の時に変えて、プロ2年目までは左でやっていたんです。僕は高校生(時代)の左ピッチャーのカーブなんか全然怖くなかったし、普通になんの違和感もなく打ててたんです。で、プロ1年目の時は2軍で1年間試合出たんです。その最初の試合の時に、多分1軍のオープン戦かなんかだったと思いますがその時、左ピッチャー…、誰だったかは忘れましたけど、変化球見た時に僕、『ウッ!』ってなってしまったんです」

―スライダーかなんかですね?
「はい。『ビクッ!』ってなった瞬間に怖さを覚えてしまったんです。で、変化球やと思ったら真っすぐが胸元にきて、それでまた『ガッ!』ってきて、怖くなってしまったんです。それで1年間打てなくて、当時1年目の途中くらいかな、2軍バッティングコーチにスイッチやれと言われたのが(スイッチバッターへの)きっかけです」

―高橋慶彦さんじゃなかったんですね?
「ないんです。で、(2軍コーチに)スイッチやれと言われたものの、教えてくれないんです。そのコーチはスイッチ(バッター)じゃなかったからです。一週間やったんですが『僕やめます』と言って、また左だけでやってたんです。で、2年目に入った時に、ちょうど高橋慶彦さんがロッテのコーチに来られたんです。でも、僕はまだ左でなかなか結果が出ていなかった。その時に僕自身が決断して、また『スイッチをやる』と2軍監督に言いに行ったんです。(そうしたら)『分かった、やれ』と。で、僕の感覚の中で(自分で)練習していたんですよ。その一週間後に1軍行きが決まりました。スイッチは一週間しか練習しなかった(というよりする時間がなかった)。その最初の試合(のピッチャー)が日本ハムの砂田投手(毅樹、現横浜DeNA)。次の試合が(元)ダイエーの和田(毅)さん。その2試合とも3安打打てたんですよ。でも、その時は(ガムシャラで)見えてないですよ、感覚で『バーン!』って打ってるから。そこで、慶彦さんが1軍のコーチだったので、『コーチ、スイッチ真剣に行きたいから教えてください!』と。そしたら、『分かった。お前、途中で逃げんなよ』と言われて『逃げないです!』みたいな感じで(笑)。そこからの6年間はキツかったです」

―でも天才の実力をまた、一つ引き上げてくれたのが慶彦さん
「はい、もちろんです。でも、プロ入るまでは両親なんで、両親にもすごく感謝しています」
 



強がっていた自分の「弱さ」を認めた時、スーッと気持ちが楽になったという西岡。初めて虚像でない実像の人として独り立ちできた瞬間でもあった。一般人でもなかなか素直になれない行動がとれたのは、もともと素直で正直な性格の持ち主だったから。今の自分を育ててくれた恩師・髙橋慶彦さんと両親への感謝も忘れない。最終回は、成長をし続けている西岡剛のBCリーグ、そしてNPBへの思い、そして後輩中田翔選手のこと(第6回に続く、敬称略)


取材・文:青木秀道(SPICEスポーツ記者)

 

イベント情報

ルートインBCリーグ公式戦 栃木ゴールデンブレーブス ホームゲーム

■栃木ゴールデンブレーブス×読売ジャイアンツ(三軍)
2019.7.27(土)試合開始:13:00~
栃木市総合運動公園野球場 (栃木県)

■栃木ゴールデンブレーブス×読売ジャイアンツ(三軍)
2019.7.28(日)試合開始:13:00~
栃木市総合運動公園野球場 (栃木県)

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