MOROHAアフロの『逢いたい、相対。』第二十回目のゲストは斎藤工 コンプライアンスがあることは表現をする人にとってチャンス
-
ポスト -
シェア - 送る
MOROHAアフロの『逢いたい、相対。』、第二十回目のゲストは斎藤工。本番が始まる前、アフロの「糞」と描かれたニットに目が行ったので「その服、すごく良いですね」と声をかけた直後、何の気なしに斎藤を見ると全く同じニットを着ていた。今回はニットに描かれた「糞」の話題から始まり、コンプライアンスや表現の根幹について2人が語り合う。『MOROHA lV RELEASE TOUR 単独』『フードロア:Life in a Box』『COMPLY+-ANCE』『原子力戦争』『芸人・永野』『シン・ウルトラマン』『チャップリン』など、会話の中で散りばめられたキーワードが繋がった時、アフロと斎藤が互いに惹かれあう理由を知ることができた。
●「着る」というのは1つの表現じゃないですか●
(お互いの洋服を見ながら笑う2人)
斎藤:いやぁ、ハハハ。
アフロ:ビックリしました?実は俺も持ってたんです。
斎藤:ビックリしました。
アフロ:このニットはプレゼントで頂いたものなんです。貰った当初は「ネタだ!おふざけだ!」と思っていたんですけど、以前、彼に「浅田次郎の『壬生義士伝』がめちゃくちゃ好きだ」と話していた経緯があって。その上で「あれはネタじゃないよ。お前の好きな『壬生義士伝』の中に「人間なんて物を食って糞を出すだけの糞袋だ」というセリフがあるだろ」と後から彼に言われて。その時にようやくコレをもらった意味が分かったんです。
斎藤:なるほど。
アフロ:この前、とある忘年会でお会いしたじゃないですか。で、工さんと話したいと思って何人もの関係者が行列を作って、斎藤工待ちの状況になってた。言ってしまえば、俺にとって工さんは友人だから「友達と話すのに並ぶのかぁ、、、」と思って、あの日は挨拶だけして帰ったんです。そして帰り道に一人になって「並ばれる者と並ぶ者」という境界線がハッキリある世界なんだな、としみじみ思って。まさにあの日に工さんは「糞」ニットを着てて。もしかしたら、ああいう状況に対してのメッセージを表していたんじゃないかって。
斎藤:ある意味、それは芯を食っていて。「着る」というのは1つの表現じゃないですか。前に週刊誌に写真を撮られことがあったんですけど、「フェロモン男俳優」という文字が表一面に書かれて。「俺はそれだけじゃないんだ」と言いたい気持ちもあるんです。だけど、世の中から見たら「こいつの内側は関係ない」と思われる仕事をしている。だからこそ、自分の行動とか身につける物でイメージを裏切っていけたらと思って。
アフロ:正直な話、俺はああいう業界人が集まる場に「あわよくば仕事をもらえるかも」と思って行った。その時点で、俺は並ばれる側の人間じゃないと思うんですよね。そんな時に見た、工さんの「糞」ニットは「仕事欲しさにのこのこ来やがって」という俺に対してのメッセージにも感じて「本当にそうなんだよな」と。そこを受け入れなくちゃダメなんだと思った瞬間に、「ストロンガー」の<惨めな思いをするのは 俺達が弱いから悪いんだ>の歌詞が勝手に繋がった気がして「うわぁ、帰って歌詞を書こう」と思いましたね。
斎藤:曲ができる瞬間って、そういうことだったりするんですか。
アフロ:そうですね。他人に向けて書いた曲ってあんまりなくて。自分に対するみっともないところや、不甲斐ないところを見つけたタイミングで歌詞を書いてます。その方が自分も心が痛いし、歌う時も気持ちが乗りますね。
●「自分が仕事を選ぶ」という立場に行ったら終わりだなと思って●
アフロ:俺には1つロマンがありまして、『仮面ライダージオウ』で変身ベルトの声を担当したんですよ。甥っ子が仮面ライダーからMOROHAの音楽に行き着いて、いつか歌詞の意味が分かる年齢になったタイミングで改めてMOROHAと出会い直してくれたらすごく良いなって。
斎藤:うんうん、素敵ですね。
アフロ:しかも「変身する」のではなく「変身させる」声をやらせてもらえたのが嬉しくて。我々の音楽もそういう音楽でありたいと思っています。だからこそオファーを受ける意義を感じた。工さんは仕事のオファーを受ける・受けないという判断はどこで決めるんですか?
斎藤:僕は「自分が仕事を選ぶ」という立場に行ったら終わりだなと思ってて。事務所としての判断をすることもありますけど、選ぶというのはおこがましいなと。それは、仕事をもらえない時期が長かったことが影響しているんです。ただ、取材で記者の方から「あの時は不遇の時代でしたね」と言われるんですけど、自分ではそう思ってなくて。
アフロ:思ってないんですか?
斎藤:思ってないんですよ。役者として仕事をもらえない時期が長いと、「仕事を辞める」という理由がどんどん増えていくんです。でも、そこで辞めなかったことが筋トレになっていたと思うんです。まだ役者の仕事で食べていけなかった時、新聞を配るバイトをしていたんですけど、そこは余った新聞をもらえたんです。同世代の役者の方々が活躍している記事を自分の配った新聞で確認をしていると、悲しい気持ちと同時に得ているものも感じて。あの得ている感覚に近いものを今、アフロさんやUKさんの音楽からもらっている気がするんです。撮影が終わってメイクを落とした後、帰りの車中で窓に映る自分の顔を見つつ、その向こうの景色を眺めて「さっきまでいた華やかな世界と真逆だな」と思う。その真逆なところに興味があるんですよね。まさにMOROHAの音楽って、そういう瞬間に懐中電灯を当ててくれている気がして。
アフロ:俺は音楽だけで食べていけなかった頃、漫画喫茶で働いていたんです。当然ですけど、お店には音楽雑誌が入ってくるわけですよ。それを陳列する時に誌面を見ると、同世代のミュージシャンたちが載ってて。その時のなんとも言えない気持ち。自分を守るために「金出せば載れる雑誌なんかに出て、恥を知れ」と相手を落とす。そんな自分自身の弱さに気づいて、それを曲にするんです。自分のズルした瞬間に歌詞のヒントがありますね。だから帰り道に自分が今日してきたズルさとか、うまく立ち回ったなとか。俺が歌詞を書くのはそういう場面だったりします。同じような深いところで、工さんもシンクロしてくれているのが嬉しいです。
斎藤:なるほど。あの……年末にZeepで観たライブ(『MOROHA lV RELEASE TOUR 単独』)が忘れられなくて。(「うぬぼれ」の)演奏中に倒れちゃった方がいたじゃないですか。あの時、UKさんは演奏を止めずに、アフロさんは大勢のオーディエンスに対してじゃなくて倒れた方に向けて即興の言葉を放った。あの時、僕は気づいたら号泣してたし、周りにいた他の人たちも泣いてたのを見て「これがMOROHAなんだな」と。……あれはすごかったです。
アフロ:音楽をやっていて望むのは、ライブで聴いている時よりも、仕事へ行く時、学校に行く時、悔しさや苦難に立ち向かう瞬間、ある種ライブハウスに背を向ける瞬間に最も響くライブをする事なんです。だから工さんが言ってくださったあの瞬間に歌っていた曲が一番響くのは、不本意ながら退場しなければならなかった彼だと思うんですよね。
斎藤:そうですね。そこに感動しました。
●なぜか分からないけど、自然と自分の目からボロボロと涙が流れて●
アフロ:俺が育った長野県の青木村に昔から壁に「サグライフ」という落書きがあるんです。アート性のあるお洒落な感じじゃなくて、ただ単純にカタカナで書いてあるんです。で、大人になった今も、帰省してその壁を見ると「サグライフ」の文字が残ってる。そういう、ずっとここに居る、って事実に心がじんわりするんです。俺のライブが良かった日も悪かった日も、女の子にフラれた日も付き合えた日も、ずっとこの場所で「サグライフ」のままでこの村を見ていたんだと思うと「ああ……」ってなるんです。それと同じ感情を工さんが監督をした『フードロア:Life in a Box』に強く感じて。劇中に登場するお弁当屋のおばあちゃんが若者にお弁当を渡さなくても、あそこにおばあちゃんがいてくれただけで救われたと思うんですね。
斎藤:はい、そうですね。
アフロ:おばあちゃんは、ずっとあの場所でどんな時もお弁当を売り続けてくれていたんだって思うと、すごく安心するというか。
斎藤:実は、あのおばあちゃんは“ナミさん”という実在するモデルがいまして。群馬県・高崎市で40年間お弁当を作り続けている方なんです。映画に登場する寄せ書きは、全部彼女のお店から借りてきて。
アフロ:そうなんですね。あの寄せ書きは確かに生々しくて、実物しか出せない気配がありました。
斎藤:1人でお店を切り盛りして、1日限定50食のお弁当を作られているんですけど。それがめちゃくちゃ美味しくて、地元にファンも多いんです。そのナミさんが物語の元になってます。
アフロ:どういう流れで、映画のテーマをお弁当にしたんですか?
斎藤:今回は「HBO」という海外の放送局が製作会社に入っていて、アジアオリジナル作品第2弾として僕が監督をすることになったんです。最初に先方から「食」というテーマを聞かされて、僕は「日本らしいものにしよう」と思いました。とはいえ中々良いアイデアが浮かばず悩んでいた時、西日本で災害(平成30年7月豪雨)が起きたんです。被災地の広島には昔からの友人夫婦と8歳になる女の子がいて。その女の子から「今、お家の周りはこんな状態なんだ」と写メが送られてきたんです。それがテレビで報道されているよりも、もっと酷い状況だった。僕は「とにかく会いに行こう」と思って、早朝の新幹線で向かったんですね。それでお家の手伝いをした後に、子供達が集まる場所に行ったら、その子たちは今がどういう状況か分かっているから、はぐれないようにみんなで1箇所にかたまっていたんです。
アフロ:実際に現場にいる人の姿や、表情は胸に迫りますよね。
斎藤:突然の災害で怖い思いをして、そんなトラウマを受けた場所でこの子達は明日も明後日も生活をするんだなと思ったら本当に心が痛くて。エンタメの力を使うことで、悲しい思い出も少しはアップデート出来るんじゃないかと考えて、近くの小学校や幼稚園で自主的にワークショップを開くことにしたんです。ある日、幼稚園でワークショップを開催したら、給食を作っている方々が子供達の食事を作りに来てくれたんですね。ワークショップを終えて、僕らが次の幼稚園へ移動しようとした時、塩むすびを持たせてくれたんです。
アフロ:その状況での塩むすびはたまらないですね。
斎藤:その日は土砂かきもしていて、食事をすることを忘れていたんです。移動中に頂いたおにぎりを食べたら、労働をして汗をかいた僕らにちょうど良い塩加減だったんですよ。なぜか分からないけど、自然と目からボロボロと涙が流れてきて、それと同時に手紙を受け取った気持ちになったんです。その話を脚本家にしたら「是非、それを映画にしよう」という話になって。
アフロ:なるほど、そこで作品と繋がっていくんですね。
斎藤:おにぎりをもらった瞬間だけじゃなくて、後からその優しさや温もりを感じる。その感覚ってMOROHAにも通じることで、ライブで対峙している瞬間だけじゃなくて、その後にも考えさせられるんですよね。
●俺は俺自身にコンプライアンスをかけているんじゃないの?って●
アフロ:もう1本、工さんの作品について話したいんですけど、その前に『さよならテレビ』って映画観ました?
斎藤:観ました。
アフロ:あの映画を観た直後に、工さんの『COMPLY+-ANCE』を観てすごく連動性を感じたんです。どちらのキーワードにもなっている「コンプライアンス」って、要はいろんな人の都合じゃないですか? 例えばインタビューの時に俺の都合が見えた瞬間に、少なくとも自分の中では嘘を吐いた気持ちになる。
斎藤:「真意じゃなくて、キレイな回答をしちゃったな」と。
アフロ:そうです。大事なのは、どれだけ自分に不利益なものを「くれてやる」と投げ出せるかだなと『COMPLY+-ANCE』を観て思いましたね。自分の表現に置き換えた時に、俺は俺自身にコンプライアンスをかけているんじゃないの?って。自分に不都合なことは隠してないか?って、問いただしたくなるぐらい観てて痛い気持ちになりました。
斎藤:いつからかドラマや映画で「後ろの座席もシートベルトしてください」とか、お芝居でいろんな制限が設けられるようになって。それが不思議だと思うことが、どんな現場でもあったんです。で、パク・チャヌク(韓国人監督)が撮った『お嬢さん』という作品がありまして、それは日本の春画をテーマにしているんですよ。当然、劇中には多くの春画が出てくる。
アフロ:へぇ、春画かー。江戸のエロ本ですね。
斎藤:世界中でヒットをした作品なんですけど、国内で放送するとなった時に全ての春画にモザイクがかかってて。それはパク・チャヌク監督の意図するものとは全く違うし、しかも日本で放送できない事実が僕は最初、疑問に思ったんです。ただ、いざ観たらモザイクばっかりだからモザイクに慣れてくる自分がいて。モザイクアートじゃないですけど、隠すことで卑猥な思考に脳が活性化されていった。
アフロ:想像力で新たな感覚を得た、ってことですね。
斎藤:得ましたね。そこと通じる話なんですけど、1970年代から80年代にかけて活動していた、伊武雅刀さんや小林克也さんなどが所属する「スネークマンショー」というシニカルなコント集団がいまして。言っちゃいけないワードを入れ替えたり、ひっくり返したりするネタがあったんです。ただ不自由を叫ぶというよりは、「滑稽さを前に出した方が作品として良いんじゃないか」という考えから生まれた逆転の発想だったんです。
アフロ:確かに、コンプライアンスがあるからこそ、面白い作品が生まれる場合もありますよね。
斎藤:そうですね。それで1本の映画が生まれちゃうっていうことを『COMPLY+-ANCE』でやりたかったんです。
アフロ:ああ、なるほど。俺はHIPHOPにもコンプライアンスを感じてた事があるんです。例えば韻を踏むという事、「YO」という掛け声、それらを守らなければ排除される、そんなコンプライアンスに感じてたんです。ただ限られたルールの狭い土俵ゆえに生まれた発明もあるから、表現する上で邪魔か?と言われたらそうじゃないかもしれないですよね。時にコンプライアンスがあることは、表現をする人にとってチャンスでもありますよね。勇気さえあれば破る事でエッジにも出来る訳だし。
斎藤:まさにそうで、手段をもらっていると思った方が得だなと思います。かつて1960年代から80年代にかけて活動していたATG(日本アート・シアター・ギルド)という日本の映画会社があって。予算はないんですけど、すごく骨太な作品を生んでいたんです。特に、僕の中で強烈だったのが1978年に黒木和雄監督が撮った『原子力戦争』。主人公は原田芳雄さんで、リアルに福島第一原子力発電所へ芳雄さんが役のまま乗り込んでいくシーンがあるんですよ。もちろん係りの人に止められるんですけど、それでも芳雄さんは臆することなく脱原発の精神をぶつけて。まるで『警察24時』みたいな様子なんです。芳雄さんは芝居を続けて、向こうはマジで止めにかかっている。それを作品にしちゃってるんです。
アフロ:ひゃー、すごいっすね、それ。
斎藤:その映画が記憶に強く残ってて、3・11(東日本大震災)が起きた時に僕はハッとしたんです。『原子力戦争』は30年以上も前から、脱原発を訴える状況を予期していたんですよ。原発がどういうもので、どんなリスクがあるのかを映画ですでにやっていた。やはり表現者って時代の先を読まないといけないから、今をどう捉えるかが重要だと思うんですよ。僕は『原子力戦争』と現代に起こっていた状況がリンクした時に、これが映画なんだと思った。もう黒木監督も芳雄さんも亡くなっているんですけど、今、僕はあの人たちが羨むのようなことをしたいんです。
アフロ:あの当時はできなかったことを、今の時代でやるということですか?
斎藤:そうです。もしも当時の人たちが生きていたら、絶対にそういう映画を作ると思うんですよ。
アフロ:現場で撮影するクルーも、原田さんのお芝居にかけるバイタリティもすごいですね。
斎藤:そもそも、ご自身で提案した配役だと思うんですよね。撮影というスタイルを取って、本当だったら厳重な注意を受けるところを「撮影です」と言うことでフェイクにしてる。
アフロ:なるほどなぁ。
斎藤:当時にしても新しいし、今でも新しい手法だと思います。
●みんな側に準じないと僕は浮き続けると感じて●
アフロ:ちなみに工さんにとって、お芝居の根幹はどこですか?
斎藤:僕の役作りのベースって、中学時代の教室にすべてありまして。
アフロ:それ、面白いなぁ! 確かに、教室にはあらゆるキャラクターがいますもんね。どんな中学生だったんですか?
斎藤:僕はシュタイナースクールという、学校に通っていたんです。感性教育のような環境で、食事もマクロビだったし、授業も数学とか国語と科目ごとに分かれてなくて、公園へ行って落ち葉で算数兼道徳を教わるみたいな感じでした。そこから、ある時に公立の中学校へ転校したんですよ。そしたら何から何まで、僕のいた環境と違っていた。
アフロ:それは相当なギャップですよね。まさに突然、コンプライアンスの現場へと放り込まれたと。
斎藤:そうなんですよ。当時のシュタイナー教育って、日記の代わりに水彩の絵を描いていたんです。しかも既存の色というよりも、色と色を混ぜて新しい色を作って描く。その混ざった色こそが、その日の感情を表していると。
アフロ:なるほど。生まれたものに答えに見出す教育ですね。
斎藤:公立の中学へ転校した後、美術の授業でスケッチに各々校庭を描くことになったんです。みんなのスケッチをみたら、ほぼ全員が同じ絵だったんです。というか、同じ色を使っていた。でも、僕はその日は暑かったので朱色で空を描いてみたんです。みんなと違う絵を描いていることに気づいて、「ここで自分の普通は通用しない」と焦りました。そしたら、美術の石黒先生がみんなの前で僕の絵を掲げて「斎藤くんの絵は、今日の天気を表していて先生は良いと思う」と言ってくれて救われたんです。
アフロ:めちゃくちゃ良い先生ですね。ドラマみたい。
斎藤:ただ、みんな側に準じないと僕は浮き続けると感じて、徐々に合わせていったんですね。だからこそ、より周囲に敏感なのかもしれないです。
アフロ:元々、みんなと育った環境が違ったわけですもんね。で、周りのコンプライアンスに準じようと思ったから、クラスのみんなを観察するようになった。それが役作りのベースになっているんですね。
斎藤:そうなんですよ。
アフロ:工さんって落ち込むことあります? いつも飄々としている印象なんですけど。
斎藤:落ち込みベースですね。むしろ、落ち込む要素を集めているところがあって。
アフロ:あ、わかります。俺の場合はそれを曲に落とし込むんですけど、工さんはどうするんですか?
斎藤:僕も作品に活かしてますね。ちなみに(芸人の)永野さんが好きなのもそこで。あの人は日々の自分にかかる圧とか棘を集めて、それをネタにしているんですよ。「免停を食らった後にかっぱ寿司へ行くカップル」というネタがあって、店内でかっぱ寿司のテーマが流れているんですけど、カップルは食欲がない。
アフロ:ハハハ。それゃそうだ、免停をくらった直後だから。
斎藤:そうです。だけど入店しちゃってるから、しょうがなくガリだけ食べて帰るっていうネタで。そういう風に日常で感じた傷を作品に昇華する姿勢は、ある意味『原子力戦争』も同じだと思うんですよね。今回の『COMPLY+-ANCE』も、日常で感じたことをエネルギーに作品として仕上げてますし。
●カッコつけてないカッコよさが芸人さんの美しさだと思います●
アフロ:役者として難しさを感じるのは、どんな場面ですか?
斎藤:正義の味方みたいな役を演じている時に、どこか嘘くさい自分と戦わないといけないんですよ。「俺は清廉潔白なセリフを言えるような人間なのか?」と、本来の自分に蓋をして補正しないといけない。役作りというのは、そういう蓋の開け具合だと思いますね。自分の素性というか糞な部分を自覚しておかないと、どの程度の加減で蓋を開けて良いのか分からない。
アフロ:俺は自分の言葉ですら思う事があるので他人を演じる役者さんは尚更ですよね。ちなみに工さんの糞な部分って、どこだと思います?
斎藤:うーん……。
(ここで斎藤が考えたまま、数秒間の時間が流れる)
斎藤:……こうやって繕ってしまうところですね。僕が芸人さんをリスペクトして、学びたいと思っているのがそこなんです。芸人さんってロジックはあると思うんですけど、その場の空気に合わせて自分を捨てられるじゃないですか。でも、僕はどこかで自分をブランディングしようと、言葉を選んで躊躇してしまう。本当はもっと生き物として能動的にいたいんです。そこに憧れるからこそ、芸人さんと仕事したいと思うんですよね。
アフロ:俺も、カッコつけてないカッコよさが芸人さんの美しさだと思います。それに他人を笑顔にするなんて、こんなに尊くて元気に満ちた仕事はないと思ってて、そんな話を永野さんにしたことがあるんです。そしたら「いや、そういう見られ方は嫌なんだよ」って。
斎藤:ハハハ。
アフロ:「ドキュメンタリー番組で芸人をアスリートのように扱うでしょ。違うんだよ。かっこいい!じゃなくて、芸人はコイツはバカだな〜と思ってもらわないといけないんだ。」と言ったんですよね。こんな事言ったら営業妨害になってしまうんですけど、それが皮肉にもめちゃくちゃかっこいい!と思いました。そして恐らく永野さんの「芸人たるものバカにされて指を差されてなんぼ」という美学、それも自身のコンプライアンスですよね。芸人さんが反射的にリアクションを返せるのも、きっと自分なりの自主規制が固まっているから。そう思ったら、言葉に躊躇する工さんは、自分自身のコンプライアンスを固めたくないのかもしれない。
斎藤:去年、『シン・ウルトラマン』という作品の撮影時のことなんですけど、ある先輩俳優さんに「台本の台詞をどうやって覚えてる?」と聞かれて「声に出して反復しながら覚えてます」と答えたら「自分もそうだったんだけど、最近は黙読するようにした」と言ったんです。それは何故かと言ったら、音読をしちゃうと生っぽい空気が出せなくなると。「まるで今、初めて発したような言葉にしたいから」と言われた時に、「確かにな」と爽快感があったんです。台本の段階で自分の正解を作ってしまうと、相手が誰でも同じ芝居になるんじゃないかと考えるようになって。
アフロ:そうかー、、、でも俺はその俳優さんの考えと別の答えを見つけたいですね。「初めてギターを買って、1発目に弾いた瞬間こそロックンロールは一番カッコ良い。そこからどんどんカッコ悪くなる一方だ」って名言を誰かが言ったんですけど、そんな事あってたまるかと思うんです。言葉の本意は何なのか何百回、何千回と呟いて繰り返して、その研究で作っていくものの方がカッコイイと思いたい。そうじゃないと、どこに向かって努力をすれば良いのか分からないなって。
斎藤:2月に公開する『ヲタクに恋は難しい』という映画があって。冒頭で佐藤二朗さんが、ものすごい勢いで語るシーンがあるんです。みんなは「また自由奔放にやってるな」という目で見ていたんですけど、後から分かったのが、全て監督と打ち合わせした上での演技だったんです。1箇所だけアドリブのシーンは設けているんですけど、それ以外は全て台本通りにセリフを発していたと判明して。それを知った時に、僕はまたひっくり返って。アフロさんが言ったように、二朗さんの演技は練習を積み上げて「まるで初めて発したように見せる」という凄さ、それを魅せつけられました。
アフロ:いとうせいこうさんが「HIPHOPのカッコイイ瞬間は、1000回練習してラップをするか、1回も練習しないでラップをするかの2種類しかない」と言ってたんです。1000回練習しているように見せている表現が意外と1回も練習してなくて、1回しか練習してないように見えて1000回練りこまれているとしたら、もはや奥が深くて考えるの嫌になっちゃいますね。でもどちらの方法も意識して追求したいですよね。
●自分なりの解釈で足すことによって作品を完成させるという、本当の映画芸術がそこにあって●
斎藤:僕が後輩の役者から「演技の学校へ通った方が良いですか?」と相談を受けた時は、「MOROHAを聴け」と必ず言うんです。もちろん、どの曲にも歌詞カードがあるじゃないですか。だけど、MOROHAのパフォーマンスというのは、めちゃくちゃ今を感じる。それは俳優が目指す究極のところなんですよね。決められたセリフを僕らは話すけど、それをいかに生きた言葉にするか。生きた言葉にするためには、生きた感情へ持っていくということが必要なんです。そこに最も近いのがポエトリーリーディングだと思ってますし、その真ん中にMOROHAさんがいると僕は思ってます。
アフロ:その言葉はすごく嬉しいです。先ほど学校の話がありましたけど、工さんは演技の学校に通ったことはありますか?
斎藤:日本で一番厳しいと言われている伊藤正次さんの授業に3年間通ってました。初めて見学に行った時、いきなり「斎藤くん、デモクラシーの意味は分かるか?」と聞かれて。演劇の授業だから、てっきり発声とか技術的なことを学ぶのかと思ったら、戦争を含めた演劇の歴史を教えていたんです。その出会いは今に繋がってますね。
アフロ:すごく贅沢な時間ですね。本質を伝える授業ということは、まさに「神は細部に宿る」を信じている方の教えというか。
斎藤:本当にそうですね。授業の発表会で、菊池寛の戯曲を披露したことがあって。僕は「車屋です!」と袖から声を出すだけの役だったんです。
アフロ:舞台上には出ない役だったんですね。
斎藤:そうなんです。でも、先生が「ちゃんと扮装しろ」と言うんです。先生の家に当時の車屋が着ていた服があったので、それをお借りして足袋も履いて。その時、先生はお客さんがどう受け止めるかというよりは、僕に対して「ただの音として参加するのか? 一言だとしても車屋として存在するのか?」というメッセージを投げてくれたと思ったんですよね。
アフロ:そっかぁ。作品にふれる上でも、そう言った奥行きが覗けるような感性を持って楽しみたいな、と思わされますね。
斎藤:年末に知人の子供とチャップリンを観たんです。そしたらサイレント映画だから、自分でアフレコしながら観てて。確かに、チャップリンの表情とかシチュエーションで、どんなことを思っているかのヒントは詰まっている。そこから得たヒントを自分なりの解釈で足すことによって作品を完成させるという、本当の映画芸術がそこにあって。もしかしたら、その能力が。
アフロ:作る能力に変わるかもしれない。
斎藤:そうなんです。
アフロ:アンテナを立てなくても楽しめるけど、立てたらもっと楽しめる。
斎藤:それを子供から学びました。
アフロ:俺、自分の歌を他人に歌われてたまるかと思っていたんですけど、チャップリンは多くの人にアフレコしてもらえると考えたら、すごく良いですね。そっかぁ……面白いなぁ。
文=真貝聡 撮影=森好弘
斎藤工 ヘアメイク=くどう あき
取材撮影協力=炭火焼 尋 (東京都目黒区上目黒3-14-5 ティグリス中目黒Ⅱ 3F)