高橋優、ヨルシカ、クリープハイプ、いきものがかり、LiSA等のサポートで活躍する鍵盤奏者・平畑徹也。幅広いアーティストから求められる理由とは?【インタビュー連載・匠の人】

インタビュー
音楽
2022.5.2
平畑徹也

平畑徹也

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鍵盤奏者、作編曲家、サウンドプロデューサーとして活躍している平畑徹也。自身の音楽ユニット・グックルやソロ活動と並行して、高橋優、ヨルシカ、クリープハイプ、いきものがかり、LiSA、坂本真綾、Aimer等、様々なアーティストのライブやレコーディングをサポートしている。彼の音楽人生はどのように始まり、今日に至っているのだろうか? 仕事に対する信条、プロミュージシャンとしては異例な部分もある少年時代のエピソードなどについて語ってもらった。

――平畑さんはどのような少年だったんですか?

音楽は全くやっていなくて、幼少期は外で遊ぶかファミコンをしているかでした。中学では陸上部に入って、その頃も音楽は聴くだけでしたね。音楽を始めたのは高校生になってからです。軽音部に入って、ドラムと鍵盤を同時に独学でやり始めました。姉がピアノを習っていたので家にピアノはあったんです。小室哲哉さんの曲が流行っていたので、遊びで鍵盤に触り始めたのがきっかけでした。

――テレビゲームがすごく好きだったみたいですね。

ファミコンをめちゃくちゃやっていました。あと、ガンダムが好きでした。どこにでもいるような子供だったと思います。音楽を聴き始めたタイミングは、ミュージシャンの中では遅い方だったかもしれないですね。中学の陸上部の先輩にいろいろ教えてもらったり、3歳上の姉の影響で聴くようになったんです。

――音楽への興味の入口は、先ほどもお名前が挙がった小室さんですか?

そうですね。globeが好きで、初めてライブを観に行ったのもglobeでした。でも、一番大きなきっかけとなったのは陸上部の顧問の先生です。鍵盤を弾きそうには見えないのに、文化祭でちょこっとピアノを弾いたんですよ。「スポーティーな人がピアノを弾くってかっこいいなあ!」って思いました。

――楽器に本格的に触れ始めたのは、高校に入ってからですか?

はい。でも、軽音部に入った高校の3年間も習ってはいなくて、先輩からちょっと教えていただいたくらいでした。しかも当時は手弾きはほとんどしていなかったんです。クラブミュージックが好きになっていたので、ドラムンベースの曲を打ち込みで作ったりしていました。ある時作曲のコンテストがあって、そこに応募したら優勝賞をいただけて。高校2年の秋くらいだったかな? 浅倉大介さんが審査員のコンテストで、浅倉さんから直接賞状をいただいたのが、「俺、意外といけるかも?」みたいなことに繋がりました。言葉を選ばずに言うのならば「調子に乗った」ってことなんですけど(笑)。それで高校卒業後に音楽の専門学校に進んで、鍵盤の手弾きを2年間教わったんですけど、最初は全然弾けなかったです。ものすごくしごかれた毎日でした。

――子供の頃からクラシック音楽の教育を受けたり、理論を知っていたわけでもなかった高校生がめきめきと頭角を現すようになるのって、かなり異例だと思います。

高校の頃はコードの理論とかはわかっていなかったです。「このトラックで鳴ってるあの音ってメジャー7thっていうコードなんや? おしゃれな響きのコードなんやな」っていう感覚的なことでしか知識を蓄えていなかったので。理論に関しては専門学校に入ってから、「あれってこういうことだったんだ?」って、感覚的な蓄積と紐づけていった感じでした。

■26歳くらいまでは「どうやって音楽で生きていったらいいんだろう?」って思い悩んできた

――高校の時の打ち込みでの作曲も、自然と感覚的にできたんですか?

そうですね。初めて買ったシンセサイザーにシーケンサーが付いていて、それに適当に打ち込んでみるようになったんです。シーケンサーに触ったことがある人はわかるかもしれないですけど、コードとかよくわかっていなくても、リズムさえなんとなく作れたら上手くいくもんなんですよ。クラブミュージックが好きだったので身体で感覚的に気持ちいいリズムを探していったというのはあったかもしれないです。

――感覚的に捉えていたとはいえ、「どうやら自分は音楽に向いているようだぞ?」と、高校の後半辺りで気づいたんですね。

はい。でも、「感覚的にどれだけ自分を信じ続けられるのか?」っていう感じで、葛藤はありました。高校も進学校でしたし、レールを切り替えるのはめちゃくちゃ不安で、親も心配していました。26歳くらいまでは地元の大阪で、「どうやって音楽で生きていったらいいんだろう?」って思い悩みながらバンドを組んだり解散したりを繰り返していたので、自分としては結構遠回りしてきた感じがあります。

――大阪で活動をしていた時期の大きな一歩は、やはり吉留慎之介さんと結成したグックル?

そうですね。2005年の7月に結成して、東京のメジャーシーンを意識しながら楽曲を作るようになっていったんです。グックルを結成する直前は、掛け持ちでバンドを7個くらいやっていたんですけど。

――グックルのインディーズの作品を浅田信一さんにプロデュースしていただいたのも、転機でしたよね?

はい。それが僕にとっての一番の転機だったかもしれないです。浅田さんには、音楽を聴く時の掘り下げ方をすごく教えていただきました。浅田さんは60~90年代とかの音楽を教科書的ではなくて、ご自身の「聴きたい」という気持ちで掘り下げ続けていらっしゃるんです。教えていただいた様々な音楽は、僕にとってすごく大きかったです。「はっちゃん、弾いてよ」と、浅田さんがプロデュースをされているアーティストのお仕事をくださったのも、自分のキャリアの積み上げになったのかなと思います。

■高橋優くんとの関係は人生における大事な繋がりなんでしょうね

――2008年の夏に上京する前から、東京でレコーディングの仕事をする機会もあったようですね。

はい。新垣結衣さんの『そら』というアルバムの「そら」でピアノを弾いたりしました。グックル以外のレコーディングで東京で演奏したのは、それが初めてだったかもしれないです。その後、「こういう仕事もしたい」と思って上京することにしました。

――上京してすぐに高橋優さんと会ったそうですが、それも浅田さんのご紹介ですよね?

そうなんです。高橋くんも当時上京したてやったから、同じ境遇の同じ世代の人と友達になるというのは、すごくありがたいことでした。彼の作品のレコーディングでも弾かせてもらいました。『僕らの平成ロックンロール』の「駱駝」「16歳」「風前の灯」「頭ん中そればっかり」「友へ」です。

――メジャーデビュー前から、高橋さんは只者ではない感じがあったんじゃないですか?

そうでしたね。優くんとレコーディングした最初の3枚のアルバム、『BREAK MY SILENCE』くらいまではバンドと一緒に歌を録って、その段階でほぼ完成できていたんですよ。今は歌詞に対する歌い方とか、よりこだわる部分も出てきているのでリテイクしたりもあると思うんですけど、バンドと録ったテイクで本チャンのレベルの歌を歌えてしまう熱量をデビューした頃に既に持っていたんです。「すごいなあ」っていつも思いながら僕は弾いていました。それはレコーディングで演奏をミスったら彼の本チャンの歌に影響があるっていうことでもあるので、緊張感はものすごかったです。でも、その緊張感も含めて楽しかったんですよね。

――メジャーデビューした直後の高橋さんは、平畑さんと2人でライブをする機会が多かった記憶があります。

今はバンドで弾かせてもらっていますけど、2人でやっていた頃を含めると、ものすごい場数になります。トータルの時間ということで言えば、僕が奥さんと過ごした時間よりも長く一緒にいるのかもしれないです(笑)。やっぱり優くんとの関係は、人生における大事な繋がりなんでしょうね。

――高橋さんはどんどん活躍の場を広げていって、2013年には初めての武道館公演を成功させましたが、そういう姿をずっと近くで見てきたということですね。

そうなんです。レコーディングに参加するようになった頃に、「この後ライブがあるんで、よかったら観に来ませんか?」って言われて、TRICERATOPS のドラムの吉田佳史さんと一緒に渋谷のライブハウスのHOMEに行ったことがあります。対バンのお客さんも含めて2、3人しかいなくて、優くんは必死にやっていました。彼の中で葛藤はあったみたいで、ちょっと空回ってしまう感じもあったみたいです。ライブが終わった後に一緒に飲みに行ったら悔しがっていました。そういう頃から観ていたので、2013年の武道館に至るまでの時期は、ひとりの男が成長しながら成功を掴むサクセスストーリーを目撃した感じがあります。彼は時代に流されずにずっと歌い続けるタイプのアーティストやと思うんです。歌そのものに力が漲っているので、一生音楽をやっていける人なんやろうなと思っています。

――努力家でもありますからね。

この前のライブハウスツアーで、彼は「自由が丘」という曲で鍵盤を弾きながら歌ったんです。あんまり時間がない中で僕の家に3回くらいレッスンで来て、すごい精度で弾けるようになっていました。あの曲のMV撮影まではピアノに触ったことがなかったくらいの人なんですけどね。

■みなさんに申し訳ないと思いつつ、好き勝手にやらせてもらっている

――上京してから高橋さんのライブやレコーディングで演奏するようになりましたが、他のアーティストのみなさんとのお仕事も増えていきましたよね?

はい。例えばクリープハイプのレコーディングとか。鍵盤のメンバーがいないバンドのレコーディングもいい経験になりました。そこからバンドのお仕事も多くなっていきましたね。ヨルシカでやるようになったのも、僕がバンドの中で鍵盤を演奏することに特化した人間だからだと思います。ヨルシカのアルバムはインストと歌ものがあって、インストの曲はn-bunaくんが自分でピアノを演奏しているんですけど、歌ものは基本的に全部僕が弾かせてもらうようになっています。あと、いきものがかりのお仕事はアレンジャーの江口亮さんのご紹介でしたね。坂本真綾さん、LiSAさんのお仕事をいただいたり、江口さんにはとても良くしていただいております。King & Princeで弾いたのも、江口さんに声をかけていただいたからです。

――幅広いお仕事を経験してきていますね。

そうですね。大竹しのぶさんのレコーディングをやらせていただいたこともあります。高橋優くんや、何人かと一緒にお寿司に連れて行っていただいたり、大竹さんとはもともとお会いしたことがあったんです。でも、そういうこととは関係のないご縁でレコーディングに参加することになりました。中村タイチさんからの「大竹さんのレコーディングで鍵盤を弾いてくれませんか?」というお話だったので。僕が弾いた曲の作曲者は山崎まさよしさんでした。僕は昔、ニコニコ動画でアニメソングをジャズアレンジでカバーするプロジェクトを遊びでやっていて、それがわりとバズったことがあったんです。8ch名義でCDを1枚リリースして(2009年にリリースされた『キラッと☆ジャズ ~KIRA JAZZ~』)、その中で「One more time, One more chance」をピアノカバーしました。そのことを大竹さんに世間話のひとつとしてしたことがあったんですけど。

――山崎さんは大竹さんのレコーディング現場にいらっしゃったんですか?

はい。「まさよしさんの前で『One more time, One more chance』を弾きなさいよ」って大竹さんに言われたのは弱りましたね(笑)。まさよしさんも「聴かせて欲しい」っておっしゃったので、「怒られるんちゃうかな?」と思いつつ、その場にあったピアノで弾きました。リスナーとして聴いていた方々とそうやってお会いしてお仕事をさせていただけるのはすごく嬉しいことですね。

――ベテランの方々とのお仕事も度々経験してきていますよね? 世良公則さん、西田敏行さんとか。

西田敏行さんは、LIVE福島で「もしもピアノが弾けたなら」を弾いたんですけど、事前リハと当日リハがなかったんです。バンドでは練習していましたけど、ご本人と合わせるのは本番の1回きり。LIVE福島はたしかYouTubeで世界同時配信、50万人くらいが観ていて、会場には2万人くらいのお客さんがいて、そこで一発勝負で弾くのはすごい大変だった記憶があります。

――アイドルグループのバックで演奏している姿も、時々テレビでお見かけします。

アレンジャー、ギタリストの知野芳彦さんのご紹介で、Kis-My-Ft2の番組で彼らと一緒に弾いたこともありましたね。アレンジャーさんからのご紹介、アーティストのみなさんとの繋がり、スタッフさんとの繋がり、それによっていろいろな経験をさせていただいています。例えばヨルシカで一緒に演奏しているキタニタツヤくんから声をかけていただいて彼の作品で弾くようになり、その縁で彼のレーベルメイトの當山みれいちゃんのレコーディングで弾いて、當山みれいちゃんの曲のアレンジャーが変態紳士クラブのプロデューサーのGeGくんなので、そこから変態紳士クラブのサポートもするようになって……っていう感じでしたから。

――先日、私立恵比寿女子中学の「宇宙は砂時計」のレコーディングに参加したのも、楽曲提供をしたキタニタツヤさんからのお声がけですよね?

はい。それもご縁でしたね。

――「平畑さんとまたお仕事を一緒にしたい」とみなさんそれぞれが思うから活躍の場が広がり続けているということだと思います。

僕、自分では人柄がいいと思っていないんです(笑)。みなさんに申し訳ないと思いつつ、好き勝手にやらせてもらっているというか。不器用なので気を使って優しくしようとかできないんです。地の部分の僕を気に入って、声をかけていただいているのかなと。いろんなみなさんのおかげで生きてこられました。

――アーティストのサポートをしているライブでも、平畑さんは人気がありますからね。高橋優さんのファンからも大人気じゃないですか。

高橋優くんやヨルシカのファンのみなさんとかが僕のことを調べて応援してくださっているのは本当にありがたいです。

――平畑さん、ライブでも存在感がありますから。

高橋優くんのサポートの歴史で言うと、デビューしてから3年間くらいは、僕はずっとハットをかぶっていたんです。でも、ある時から「スキンヘッドにしてみようかな」ってなって、1回これになっちゃうと戻れなくて(笑)。スキンヘッドにしてキャラを作ろうとしたわけではあんまりなかったんですけど。

■下の世代に対して大人げないくらい突っかかっていく気迫を持ってやり続けたい

――劇伴の作曲でもご活躍ですね。NHK『仕事ハッケン伝』、ダンス舞台GQ2015『GABBY』とか。

もともとインストが好きやったというのもあるので、劇伴には興味があったんです。だからそういうお話をいただいた際はなるべく受けるようにしています。

――あと、これはミュージシャンとしてのお仕事とは少し違いますけど、サントリー「ストーンズバー」「ほろよい」のCMにも出演しましたよね。

それは優くんからの繋がりです。若干癖のある見た目の僕を活かすお仕事を箭内道彦さんがくださったんです(笑)。

――(笑)やはり平畑さんは、気になる存在感があるということですよ。

激しめのサウンドのアーティストのライブでヘドバンをすることがあるんですけど、髪の毛の長い人だったら結構髪の毛の動きでなんとかなるから楽なんです。でも、この髪型だと激しく動かなきゃいけないから大変なんですよ。「あのスキンヘッドのおじさんのヘドバンすごかった」みたいな感想を書いてくださるお客さんが結構います。目立ち過ぎては駄目だと思っているんですけど、コロナ禍以降、お客さんの盛り上がり方が制限されているので、「ライブの乗り方ってこういう感じやったな」みたいなことを少しでも感じていただきたいなという風にも思っています。

――お仕事をする現場は様々で、演奏する音楽性も幅広いですけど、心掛けていることはありますか?

これは歌ものの時に意識していることなんですけど、「歌が歌いやすい」「気持ちよく歌える」っていうリズム、音の積みは考えて演奏しています。でも、近年はそれだけではなくなってきていますね。「歌いやすい」っていうのは大前提。その上で歌に対してオブリガードを加えたり、楽曲の顔になれるような印象的なフレーズを歌の邪魔をせずに入れることに挑戦していっている気がします。例えばヨルシカだったらバンドのサウンドなので、あまりにもサポートの伴奏っぽくやっていても駄目なんだなと気づかされたりもしていて。自分もその楽曲を作るのに参加している自覚を持って、結構攻めたことをする瞬間も大事だと思うようになっています。「冷静な気持ちでリミッターを越える」みたいなことなんですけど。

――高校時代から始まった音楽人生を振り返って、改めて何か感じることはありますか?

20代、30代は身を立てるのに必死やったんですけど、40手前になってちょっと気持ちの余裕が出てきた感じはあるんです。でも、だからこそ下の世代に「平畑っていう人の鍵盤、大したことないな」って思われるのはすごく癪(笑)。下の世代に対してちょっと大人げないくらい突っかかっていく気迫を持ってやり続けたいですね。

――今年はピアノソロツアーは行わないそうですけど、その代わりに何か大きなプロジェクトを進めると、先日ツイッターに書いていらっしゃいましたよね?

はい。今、いろいろ動いていまして、それも期待していただければと思っています。時期が来たらみなさんに大々的にお伝えします。新しい出会いも大切にしていきたいですね。初めてご一緒させていただくアーティストのお仕事は緊張感があるんですけど、新進気鋭のみなさんと音を出すのって、すごく刺激になるんです。それが自分を老けさせない感じもあるので、引き続きそういうこともどんどんしていきたいと思っています。

取材・文=田中大

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