《連載》もっと文楽!〜文楽技芸員インタビュー〜 Vol. 7 豊竹呂勢太夫(文楽太夫)

2024.2.2
インタビュー
舞台

豊竹呂勢太夫(文楽太夫)

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高音も難なくこなす美声、物語を克明に伝える語り。豊竹呂勢太夫(58)は今や文楽を担うとされる太夫の一人だ。初代国立劇場が閉場し、他劇場での公演をスタートした文楽。昨年12月のシアター1010に続き、2月は日本青年館ホールで公演……と新しい挑戦が続く中、今年芸歴40年となる彼は、どのようにこの芸能と向き合っているのだろうか?

“和”に魅せられ、人形劇に心惹かれて

趣味も義太夫関連のグッズ集めと、公私ともに文楽漬けの呂勢太夫さん。その原点は、幼い頃に親しんだ世田谷の祖父母の家にあった。

「母親が弟を産んだあと体調が悪かったため、私は曾祖母と祖父母が住む梅ヶ丘の家によく預けられていたんです。戦後すぐに建てられたような日本家屋で、庭に灯籠があり、冬は火鉢に鉄瓶が乗っていて。そこで和の雰囲気に親しみました。特に曾祖母は、武島羽衣さんに短歌を習っていたり、お茶をやっていたり、柳田國男さんと本を貸し借りしたり、道明寺の先代やこないだ亡くなった住職さんが家に泊まりに来たりするような文化人。全く大阪人の匂いのしない人だったのですが実は大阪の出身で、晩年の超高齢になった頃お風呂に入ったら『年寄りに新湯は毒』なんて『絵本太功記』の尼ケ崎の段の一節を語り出したりして。警察署長の娘で厳格な家庭に育ったのに、大阪人の体には義太夫節がしみ込んでいたんですね。この曾祖母がとても可愛がってくれ、よく渋い番茶を一緒に飲んだりしていたので(笑)、その影響は結構大きいんじゃないかと思います」

文楽を知ったきっかけは、1973年から1975年まで放映されていたNHKの連続人形劇『新八犬伝』。

「夢中になって見ていました。当時は私だけじゃなく、みんな好きでしたよね。そこから先がうちの親の変なところで、『そんなに人形劇が好きなら文楽というものがあるよ』と。親は別に、文楽がすごく好きだったわけではないんですよ。祖父母は歌舞伎を観に行っていたし、母は大学の時に日本舞踊をやっていたから、文楽も行ったことがある、という程度だったのですが、『新八犬伝』の音楽に義太夫の三味線が使われていることがわかるくらいの知識はありました。祖母の友人の息子の友達という人が国立劇場に勤めていたので、その方に文楽の切符を取っていただいて観に行ったところすっかりハマり、しょっちゅう切符をお願いしていたら、ある日、佐々木英之助さんという当時の養成課の一番偉い人が、カモが来たということで(笑)『文楽の人に会わせてあげましょう』と、楽屋にたまたまいた先代(五世豊竹)呂太夫師匠に紹介してくださいました」

しかし、呂勢太夫さんの父の転勤で富山県へ行くことに。すると佐々木は、地歌を習うよう勧めた。

「義太夫の三味線は大きくて子供には弾けないから、文楽では最初、地歌の三味線をお稽古することが多いんです。指使いがほぼ一緒なので。それで(地歌箏曲演奏家で人間国宝の)菊原初子先生のお弟子さんを紹介してもらい、地歌の三味線とお箏を教わりました。もともと楽器が好きで、家にあるピアノや祖母のお箏や太鼓で遊んでいましたし、ブラスバンド部ではパーカッション担当だったくらいなので楽しかったですね。新しいことを覚えてできるようになるのが嬉しくて。その先生は今95歳くらいなのですがお元気で、この前も巡業の際にお目にかかったんですよ」

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