日本初の偉業達成を目前に、指揮者 飯森範親が語る ーー 10年の歳月をかけ演奏と録音を続けた「ハイドンマラソン」がついに完走「ご一緒にお祝いしましょう!」
日本センチュリー交響楽団 首席指揮者 飯森範親 (C)s.yamamoto
首席指揮者・飯森範親と日本センチュリー交響楽団が10年の歳月をかけて演奏と録音をやり続けたハイドンの交響曲は現時点で102曲。2025年3月21日(金)の「ハイドンマラソンHM.38」では、交響曲第84番と交響曲第104番「ロンドン」を演奏し、日本初、世界でも数例しか無い “交響曲全曲演奏&全曲CD録音” という大偉業を達成し、感動のゴールを迎えることになる。
本番を2週間後に控えてナーバス気味なのでは、といった予想に反して、リモート取材の映像に映る飯森範親はとても爽やかで、私の質問にも饒舌に答えてくれた。
指揮者 飯森範親 (C)山岸伸
●「ハイドンマラソン」ゴール目前にして、一抹の寂しさはありますね
――達成は難しいだろうと思われた「ハイドンマラソン」も遂にゴール目前です。本番まで約2週間後に迫った現在の心境はいかがですか。
「ああ、もうこれで終わるのか」といった一抹の寂しさはありますね。先日、オクタヴィア・レコードの江崎友淑氏と、今月リリースされるハイドンのCDの編集作業をしていたのですが、彼も「もう終わってしまうのか」と寂しそうでした。このプロジェクトの功労者の一人、江崎氏はハイドンの交響曲104曲すべてを一人のエンジニアで手掛けたことになります。これは前代未聞の記録。彼は、このプロジェクトに関わらせて貰えて、この上ない幸せだったと言ってくれました。「ハイドンマラソン」にはそういったドラマもあるのです。
「いずみ定期」第1回ハイドンマラソン(2015.6.5 いずみホール) (C)s.yamamoto
「ハイドンマラソンVol.1」のチラシ
CD「ハイドン交響曲集Vol.1」2016.11.18発売 レコード芸術誌特選盤に選出
――飯森さんが日本センチュリー交響楽団の首席指揮者に就任されたのが2014年で、翌年から「ハイドンマラソン」は始まりました。104曲と膨大なハイドンの交響曲を全曲、演奏と録音するという大掛かりなプロジェクトを思い付かれたのは何故だったのでしょうか。
首席指揮者に就任した頃、既にセンチュリーは美しい音を奏でる、腕利きのオーケストラでした。もちろん、それだからポジションを引き受けたのですが、思いっ切りの良さという点において、改善の余地があるように思っていました。躊躇することなく、どの瞬間もエネルギーをぶつけて来る積極性がもっと有っていい。そんな時に、ハイドンの全曲を実演だけでなく、録音もするくらいの無茶な冒険をやれば、彼らの技術やオーケストラの魅力がもっと広がるのではないかと思い、「ハイドンマラソン」を提唱したのです。実演だけじゃなく、録音が入ると楽員の意識も姿勢もまったく違います。サイズ的にもハイドンならエキストラ奏者を入れなくてもこのオーケストラ本来の姿でやれるはずですし、予算的にもオーケストラに優しい作曲家です(笑)。ハイドンは客が入らないと言われる理由は、これまでの演奏が良くなかったのではないでしょうか。ハイドンは難しいですから。キチンと演奏をすると、楽しんで貰える良い曲ばかりです。これは我々演奏家の責任かもしれませんね。
「第10回ハイドンマラソン」 (2017.8.11 いずみホール)協奏曲のソリストを時には楽員が務めるのも「ハイドンマラソン」の特徴。ディッタースドルフ「コントラバス協奏曲 」の独奏はコントラバス首席の村田和幸 (C)s.yamamoto
――ハイドンの交響曲全曲を実演とCD録音しているのは世界で何例くらいあるのでしょうか。
レコードやCDでは交響曲全集としていくつか出ています。アンタル・ドラティの指揮でフィルハーモニア・フンガリカの演奏、アダム・フィッシャー指揮、オーストリア・ハンガリー・ハイドン管弦楽団の演奏、エルンスト・メルツェンドルファーの指揮でウィーン室内管弦楽団、デニス・ラッセル・デイヴィス指揮でシュトゥットガルト室内管弦楽団などです。これら、全集としては残っていますが、すべての曲がコンサートで演奏されたかどうかまでは判りません。日本ではもちろん初めてです。
指揮者 飯森範親 (C)s.yamamoto
――「ハイドンマラソン」スタート当初は否定的な意見も聞かれたそうですが。
関係者を中心に、肯定的な意見は殆ど無かったです(笑)。ある評論家からは「本当に104曲やる必要があるのですか。中には駄作だって結構あるでしょうに」と言われました。僕は評論家なのにそういうことを仰るのかと驚きました。ハイドンの作品は、出版社こそ違えども、全曲出版されて残っています(ハイドン・モーツァルト・プレッセ版、ランドン版、ベーレンライター版 etc)。これは凄いことですよ。それぞれに残す価値があり、演奏する価値がある作品なのだと。それを「演奏する必要があるか?」とは……。この一言でモチベーションに火が点きました(笑)。
評価が変わりだしたのは、中間地点を過ぎた頃でしょうか。オーケストラの演奏精度や表現力が目に見えて上がったこともあって、オーケストラの評価と並んで「ハイドンマラソン」の評価も次第に高まっていった感じです。ハイドン以外の曲、例えばブルックナーの緩徐楽章なんかでも違いが鮮明なようで「ハイドン効果」というような表現が使われ始めたように記憶しています。
「第222回定期演奏会」(2018.1.19 ザ・シンフォニーホール)ブルックナー交響曲第4番「ロマンティック」を指揮する飯森範親 (C)s.yamamoto
「第222回定期演奏会」(2018.1.19 ザ・シンフォニーホール) (C)s.yamamoto
――ここでセンチュリースタイルのハイドン演奏について確認しておきたいのですが。全ての曲にパブロ・エスカンデさんのチェンバロが入りますね。演奏する上での決まり事などを教えてください。
ティンパニはバロックティンパニを使用しますが、管楽器は基本モダン楽器を使用します。これは普段オリジナル楽器を演奏していない奏者がそこにこだわると、どうしてもストレスになります。なにしろ10年がかりの長丁場。始めるに当たって、そういったストレスを排除する所から始めました。彼らは一流のプロですから、オリジナル楽器を意識するだけでも全然違うのです。弦楽器は細かくピッチにこだわる為、ノンビブラートで演奏しています。その上でアクセントとしてビブラートをかけることで芳醇な響きが生まれます。繰り返しは極力守り、装飾音符の使用などで奏者の自発性を高め、その為に有効なボウイングの共有を図っています。コンサートマスターの松浦奈々さんはじめ、古楽奏法に造詣の深いメンバーも何人かいますので、アドバイスをしてくれています。そして、エスカンデさんのチェンバロは必須です。ハイドンはチェンバロのために楽譜を書いていないので、エスカンデさんはスコアを読み解き、毎回即興で演奏されます。いわゆる通奏低音と言われるファゴットやチェロ、コントラバスと一緒に作り上げる和音感や、チェンバロの響きの中にヴィオラやセカンド・ヴァイオリン、ホルンの響きが溶け込む瞬間などは、ハイドンの音楽の醍醐味を味わえます。こういったスタイルでハイドンを演奏することで、和声感やアンサンブル力は相当鍛えられたと思います。
「第37回ハイドンマラソン」(2024.10.10 ザ・シンフォニーホール) 交響曲第31番「ホルン信号」演奏シーン (C)日本センチュリー交響楽団
「ハイドンマラソン」になくてはならないパブロ・ エスカンデのチェンバロ (C)s.yamamoto
――これはコンサートマスターの荒井英治さんからお聞きしたのですが、「ハイドンマラソン」では、楽譜が配られるタイミングまでには飯森マエストロが予めパート譜に自分でボーイングや注意事項を書き込まれている。これはかなり早いタイミングで勉強されているという事で、なかなか出来ることではないと仰ってました。
リハーサルの1か月前までには、譜面に鉛筆で色々と書き込んでメンバーに渡しています。そうでないと、あそこまでの演奏は出来ません。皆さんしっかりさらって、初日のリハーサルに臨まれています。初日の練習が終わる頃には、明日演奏会にかけても良いほどのクオリティになっています。定期演奏会と同じく3日間のリハーサルですが、2日目にはアーティキュレーションや音量バランスを整え、全員が納得いくレベルまで持って行きます。メンバーからアイデアが出て来ることもあって、新たな発見なんかもあります。3日目には本番とは別にレコーディングが入って来るので、もう仕上がっていないといけません。レコーディングが入ると、これだけタイトなスケジュールになります。
「第29回ハイドンマラソン」(2022.12.9 ザ・シンフォニーホール)モーツァルト「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲」 Vn独奏 首席客演コンサートマスター荒井英治、Va独奏 首席客演奏者 須田祥子 (C)s.yamamoto
――この10年で特に印象に残っている公演はありますか?
コロナ禍の2020年6月、活動自粛が続く中で初めて大規模なオーケストラ演奏会となった「第19回ハイドンマラソン」で演奏した交響曲第95番、第93番、第97番が色んな意味で忘れられません。最初にバッハ「G線上のアリア」を演奏しましたが、久し振りにお客様を前にした演奏で、感動したことを覚えています。広くディスタンスを取りアクリル板を設置し、1曲終わるごとに換気のために15分の休憩を入れながらの演奏会でした。芸術に携わる者として、この演奏会の事を忘れることは無いと思います。
「第19回ハイドンマラソン」(2020.6.20 ザ・シンフォニーホール)コロナ禍でソーシャルディスタンスをとった配置での演奏 (C)s.yamamoto
●最終公演のプログラムは 「ウイーンの栄華、パリそしてロンドン」
――「ハイドンマラソン」の最終回のプログラムについて教えてください。第104番『ロンドン』をラストに、交響曲第84番とモーツァルトの『アヴェ・ヴェルム・コルプス』、『レクイエム』より “ラクリモザ(涙の日)” と合唱の入る曲が並びました。
「ラストを飾るのは交響曲第104番『ロンドン』と交響曲第84番の組み合わせで」というのは、前の楽団長でこのプロジェクト立ち上げの功労者、望月正樹さんの強いこだわりでした。第104番『ロンドン』は、12曲ある「ロンドン交響曲(ロンドンセット)」の最後を飾る見事な曲。交響曲第84番は「パリ交響曲(パリセット)」の3曲目と、ハイドンを語る上で大切な街が二つ登場します。この2曲に加え、このプロジェクトでは一度も登場していない合唱曲を、関係の深いモーツァルトの代表曲でお届けします。そうですね「ウィーンの栄華、パリそしてロンドン」という感じでしょうか。
モーツァルトの絶筆として知られる『レクイエム』の第8曲 “ラクリモザ(涙の日)” ですが、8小節まではモーツァルトが書き、9小節以降は弟子のジュスマイヤーの補筆として知られています。我々の「ハイドンマラソン」は未完で終わることなく、見事に成し遂げました。この達成感をメンバーや事務局、そしてお客様と一緒に歓喜の涙を流す意味を込めて、この曲を演奏したいと思います。「アヴェ・ヴェルム・コルプス」については、イエスが誕生したことを皆が喜ぶように、新生日本センチュリー交響楽団の前途を祝福するような思いでお聴き頂ければと思います。日本センチュリー合唱団が最終回にして初登場。彼らも一緒に完走をお祝いします。
指揮者 飯森範親 (C)s.yamamoto
日本センチュリー合唱団
「第38回ハイドンマラソン」ファイナル公演のチラシ
――2020年から指揮者陣に名を連ねておられたミュージックアドバイザー秋山和慶さんの訃報に触れ、何を思われましたか。
喪失感しかありません。昨年の秋にもご一緒していましたし、どのように受け止めればいいのかわかりませんでした。私が桐朋学園大学の作曲理論学科指揮専攻を目指したのは、小澤征爾先生、秋山和慶先生、尾高忠明先生から教えて頂きたいという思いからでした。結果的には皆さんから色々とお世話になりましたが、秋山先生とは東京交響楽団、中部フィルハーモニー交響楽団など、同じオーケストラになる事も多く、感謝してもしきれません。3月いっぱいでポジションを返上しますが、楽団にとっても非常事態ですので、協力できることは何でもやらせて頂きたいと思っています。
「第251回定期演奏」(2020.12.17)ブルックナー交響曲第4番「ロマンティック」を指揮する秋山和慶 (C)s.yamamoto
日本センチュリー交響楽団ミュージックアドバイザー 秋山和慶 (C)s.yamamoto
●センチュリースタイルのハイドンの交響曲が聴けるラストチャンス
―― ー楽団にとってもファンにとっても、非常に嬉しく力強い言葉が聞かれました。実際に飯森さんは来年度も、6月に「センチュリー豊中名曲シリーズVol.34」に登場されます。
そうなんです。今話題の鈴木愛美さんと初共演をさせていただきます。鈴木さんは一昨年の「ピティナ・ピアノコンペティション」で特級グランプリと聴衆賞を、「日本音楽コンクールピアノ部門」で第1位と岩谷賞(聴衆賞)を受賞し、昨年の「浜松国際ピアノコンクール」では第1位、聴衆賞、室内楽賞と、3連続で大きなコンクールを、完全制覇をされています。特に浜コンは、12回目にして初の日本人の優勝者ということで大変注目を浴びているピアニストですが、コンクールの本選と同じベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を弾いてくださいます。他にも劇付随音楽「夏の夜の夢」序曲とグラズノフのバレエ音楽「四季」を演奏します。ハイドンとはまた違った煌びやかなサウンドをお楽しみください。
「豊中名曲シリーズVol.7」(2018.7.14 豊中市立文化芸術センター)ドヴォルザーク交響曲第8番を指揮する飯森範親 (C)s.yamamoto
「豊中名曲シリーズVol.7」(2018.7.14 豊中市立文化芸術センター) (C)s.yamamoto
――では最後に「ハイドンマラソン」最終回に向けて、メッセージをお願いします。
チェンバロが入ったセンチュリースタイルのハイドンの交響曲が聴けるラストチャンスです。特に交響曲第104番「ロンドン」は人気の曲で演奏機会も多いだけに、ぜひ私たちの演奏をお聴きいただき、他の演奏と比較してみてください。どうか記念すべきゴールの瞬間を一緒にお祝いしてください。
実はハイドンの交響曲は104曲以外にも、アントニー・ヴァン・ホーボーケンが編集・採番した後に見つかった交響曲が4曲あります(モーツァルトの作品におけるルートヴィヒ・フォン・ケッヘルのような役割)。若い頃、それこそ一桁台の交響曲の頃の第107番、第108番。第30番台と同じ頃の第105番、そしてロンドンセットの頃に書かれた第104番の協奏交響曲。いずれも15分ほどの短い曲です。学術的な見解は色々あるのかもしれませんが、104曲以外にも交響曲があると言われれば、この4曲もやりたくなるものです(笑)。そんな夢というか課題を頭の隅に残しながら、皆さま、ご一緒に偉業を祝ってください。3月21日(金)はザ・シンフォニーホールで皆様のご来場をお待ちしています。
皆様のご来場をお待ちしています! (C)山岸伸
日本センチュリー交響楽団をよろしくお願いします (C)井上嘉和
取材・文 = 磯島浩彰