蜷川さんのこと 今村麻子
蜷川幸雄さん 2016年5月12日没
蜷川さんが亡くなった。そのことをいまだ受け入れたくないし、目をそらしたい。だけど、蜷川さんが「目の前で起こっていることに対して目をそらして生きているから、そういう演技しかできないんだろ!」と役者に言っていたことを思い出した。蜷川さんのダメ出しは、生きる姿勢を言い当てるし、その場のみんなが我がことのように感じてドキリとする。蜷川さんの死から目を背けず、向き合ってみたいと思う。わたしは大学卒業後、演劇書も刊行する出版社に就職し2016年に退職したのだが、演劇雑誌*の編集長という仕事を通して蜷川幸雄さんとお会いした。
蜷川幸雄さんには「馬鹿野郎!」と言われたことが三度ある。一回目はニナガワ壁新聞事件から時を経て和解したとき。二回目は国立の劇場について特集を組んだとき。三回目は創設した演劇賞の第一回目が決まったとき。
ニナガワ壁新聞事件というものがある。わたしが携わっていた雑誌はかつて蜷川さんを取材から外していた。そのころ編集顧問という立場の人がいて、その方が新聞社に所属していたときに、役者をコテンパンに酷評したことがあった。蜷川さんは「舞台の上で闘っている役者をペンで殺すのか」といった反論を「ニナガワ壁新聞」に書き劇場ロビーに貼り出した。それはわたしが入社する15年以上前の出来事ではあったのだが、そういう経緯も拍車を掛け、雑誌は蜷川さんを避ける傾向があった。入社当時は常に最前線をいく蜷川演劇を取り上げないことへの違和感と怒りもあったのだが、蜷川さんも断ってきていたのだから仕方がない。それでも蜷川さんの舞台に魅了されて5年ぐらい通ったころだろうか。蜷川さんへの取材依頼にOKが出た。「コースト・オブ・ユートピア」の稽古のときだった。
忘れもしない、ベリンスキー役の池内博之さんに稽古をつけているときのこと。「池内、もっと強く言え!」「はい」「どうして演劇雑誌のくせに俺を出さなかったんだよ! これまでの奴らは、意気地がなかったのか! 馬鹿野郎!」あくまで池内さんへの稽古だったわけだが、雑誌のあり方への怒りが込められていた。徐々に名指しになり、池内さんは台本にない台詞に戸惑いながらもベリンスキーとして繰り返す。稽古が終わって、蜷川さんがわたしのところにやってきた。「世代の交代だね」と一言。それは、蜷川さんなりの歓迎だったと思っている。ニナガワ壁新聞についても話した。「自分のお金で作って無料配布していたんだよ。僕らが必死になって舞台を作るのと同じような力量でちゃんと批評してほしいから。最前線で罵倒されるような、ブーイングを受けながら仕事しているんだからさ。「味があった」なんて簡単に言うな、この野郎!って(笑)。客席で寝ているのに劇評を書く人を見るとバカバカしくなる。まず人間として、何を恥ずかしいと思うかですよ。人間を証明するのは何を喜ぶかより、何を恥ずかしいと思うかです。批評は鞭で生身の人間の身体を打ったのと同じ意味になってしまいます。そうすると「この恥知らず!」って言いたくなる。その場合、僕は正しくなくても前に行って闘わなきゃいけないからニナガワ壁新聞を配っていたわけ」と。
かつて中村伸郎さんが雑誌に載せた酷評を読んで引退された話に悲しくなったことがあると言うと「そうだよねえ。演劇は生身の人間がやる実演のメディアだってことを理解してほしいよね」と蜷川さん。その後、雑誌では何かとお世話になっていく。稽古場に行くと「これ、おいしいよ」とお菓子を自分の口に一気に入れて、どんぐりを頬張ったリスのようになりながらお菓子をすすめてくれたり、「おーい! ここきたら」と稽古が見やすい位置を指で示してくれたり、心配りが行き届いていた。
二回目の「馬鹿野郎!」は、三人の歴代芸術監督を表紙にした国立の劇場について特集を組んだとき。朝早く稽古場に行くと、すでに蜷川さんが待っていた。「雑誌読んだよ。何であんな特集を組むんだよ! 馬鹿野郎! アイツら苦労してないよ」と。蜷川さんは青俳時代の話、現代人劇場を作ったときのこと、小劇場から商業演劇に移ったら総スカンを食らって孤独で悲しかったときのこと、清水邦夫さんや唐十郎さんとのこと、それまでの演劇人生を話してくれた。「そうやって血を流しながら、演劇を作って来たの。僕はね、アイツらにもそれぐらいがんばってほしいだけだよ」そう言うと、くるりと横を向きピッチャーが球を構えるポーズをとりエアーで球を投げた。投げてはまた構え、球を投げる。投げ終えるとしばらく遠くを見つめていた。三回投げたのは、三人の歴代芸術監督へゲキを飛ばしていたのだろうか。「さ、やろうか」と芸術監督室に移って取材を始めた。井上ひさしさんのことについて蜷川さんに聞いたのだが、終わったとき「最初、すごく緊張したけど、大丈夫だった。他には聞いておくことない?」と芸術監督のあり方について海外の例も比較しながら話してくれた。
三回目の「馬鹿野郎!」は雑誌名を冠にした演劇賞の第一回目の受賞が野田秀樹さん作、演出の「MIWA」に決まったとき。「なんで野田なんかにやるんだよ! 馬鹿野郎!(笑)」わたしの顔を見るなりの第一声、びっくりした。「わかるよ、野田は才能があるし、いい作品もある。『白夜の女騎士』とか、ぼく好きな作品だよ。でもなんで『MIWA』なの。「ハァー♪」とか歌うんでしょ」。突然の蜷川さんがやる美輪明宏さんの声色は似ているようで似てない。「野田はすごいよ」と野田さんを褒めたと思ったら「役者に嘘っぽい歌を歌わせてんじゃねーの?(笑)」と憎まれ口を叩いたり、才能への敬意と嫉妬と愛憎が入り混じる感じだった。「野田は次に何やるの?」と常に意識されていた。その後、第三回目の賞に蜷川さんの『リチャード二世』が受賞した。病床ですごく喜んでいるということを知って嬉しかった。蜷川さんの大きな仕事と言える高齢者劇団さいたまゴールド・シアターを作ったこと、若手育成のさいたまネクスト・シアターを作ったこと。その二劇団が『リチャード二世』を作り上げて、成果をあげたこと。「蜷川さん! シェイクスピア作品、まだ全部は終わっていないんですけど! まだまだ観たいのに、なんで逝ってしまうんですか!」という正直な気持ちもあるけれど、受賞が蜷川さんの最後になってしまったことに「間に合ってよかった」という気持ちになる。
最後に取材をしたとき「こういう取材、歴史ある演劇雑誌だから受けてきたんじゃないよ。今村さんだから受けていたんだからね」と言ってくれた。きっと演劇に愛情を持った若者にはわたしに限らずみんなに言っていたと思う。そうやって心の奥をくすぐる、人たらしでもあり、どんな質問をしても大丈夫という空気を作ってくれた。自分の心も開くし、相手の心も開かせてくれる。蜷川さんのおかげでわたしは思い切り取材をすることができた。なにより相手に恥をかかせない品性があるから、ぶつかっていくことができた。言葉が明晰で、正直に話してくれて、質問をはぐらかしたり、お茶を濁すようなことは一回もなかった。精神が清潔で、自分の美学に反することは絶対にやらない。才能に対する嫉妬心が強く繊細で、とことん自分のイメージを追求するのに、照れ屋なところもある。「仰天させるぞ!」と言うときの顔は少年のようで、誰に対しても分け隔てなく接して、やってもらったことは忘れないし裏切らない。蜷川さんの特集を組んだ雑誌を「できました!」と渡したとき「やべえな(笑)やべえな(笑)」と照れながら「ありがとう」と何回も繰り返してくれた。亡くなる前の十日間「ありがとう」しか言わなかったと聞いて、蜷川さんの優しさが伝わってきた。蜷川さんに関わった人は、わたしだけでなくみんなが蜷川さんのことが大好きになり、宝物のような言葉をもらい身体に雷が打たれたような衝撃を受けて、人生観も変わったと思う。
お通夜、告別式には合わせて三千人以上が集まったと聞く。雲がない青空が広がる風の強い日だった。高い空を見上げていると紙飛行機を飛ばす『冬物語』を思い出した。ダイナミックなのに繊細な演出だった。風が強く木々がわさわさしていたのだが、竹林が揺れながら現れてくる『ムサシ』のオープニングや風のシーンにこだわっていた『わたしを離さないで』の蜷川さんも彷彿とさせた。「きれい過ぎるから猥雑さを込めよう。ゴミも飛ばそう!」と黒いビニール袋を扇風機でどんどん飛ばして「やり過ぎか(笑)」と実験する蜷川さんのことを思い出す。これまでの蜷川舞台で使った音楽がかかっていたのだが、SigurRosの"Untitled"が流れたら『海辺のカフカ』のオープニングを思い、Radioheadの"creep"が流れたら松本潤さん主演『あゝ、荒野』の一場面が脳裏に蘇り、Liberaの"Sanctus"が流れたらこれまでのシェイクスピアの歴史劇が走馬灯のように駆け巡る。亡くなってしまったことが受け入れがたく、これから新作が観られないと思うと悲しいが、日常に彩りを加えてくれた蜷川さんの舞台はそうやって心の中でどれほど生き続けているか。蜷川さんがくれた世界一美しい舞台の記憶は一瞬にして体温を上げてくれる。これからも日々の生活の中で、蜷川さんのことを思いながら、生きていくと思う。
ちょうど一カ月前、国際シェイクスピア・フェスティバルに招聘された『リチャード二世』を観にルーマニアのクライオーヴァに行ってきた。蜷川さんが作った、さいたまネクスト・シアターとさいたまゴールド・シアターは最高の舞台を届けた。スタンディングオベーションが16分続いた。蜷川さんに伝えたかった。
蜷川さんの眠るお顔は、穏やかで美しかった。もう一度「馬鹿野郎!」と言ってもらいたかったのだけど、叶わぬ夢になってしまった。