演出家・白井晃氏に聞く──フィリップ・リドリー作『レディエント・バーミン Radiant Vermin』

2016.7.7
インタビュー
舞台

『レディエント・バーミン』のイメージ写真。左から、キムラ緑子、高橋一生、吉高由里子。 撮影/二石友希

グロテスクで幻想的な世界を執拗に描くことで、人間の本質に迫るフィリップ・リドリー作品。その独特な魅力に取り憑かれて14年。演出家・白井晃が、昨年、ロンドンで上演された大人のためのブラックな寓話劇『レディエント・バーミン Radiant Vermin』に挑戦する。稽古場でその意気込みを聞いた。

フィリップ・リドリー作品に惹かれる理由

──今回の『レディエント・バーミン Radiant Vermin』で、白井晃さんが世田谷パブリックシアター/シアタートラムで演出されるフィリップ・リドリー作品は5作目、まつもと市民芸術館での『メルセデス・アイス』を含めると、全部で6作目になります。フィリップ・リドリー作品を上演しつづける理由、白井さんなりのこだわりについて聞かせてください。

白井 もともと映画『柔らかい殻』を観て、その魅力に取り憑かれました。その後、彼が戯曲を書いているということを知り、なんとしても上演したいと思ったんです。

 改めて考えると、彼の作品には、常に他者との関係のなかで自分を作るのに不安定な人間が出てくる。自分を成り立たせるために外界、つまり、他者と戦っている人物が出てくるんですね。その人物を通して、われわれが生きていくうえで──子供から大人になっていく段階で──経験していくこと、自分とは何か、他者とは何か、世界とは何かを常に見つめる視線が作品のなかに描かれている。それがいちばんの魅力で、ぼく自身がなぜ演劇をやっているのかと問われると、そういうことのためにやっているような部分がある。そこに惹かれるんだと思います。

 それに加えて、フィリップの作品では、常に弱者が描かれ、その弱者が他者に対して牙をむく瞬間が描かれる。他者から攻撃を受けたとき、自分を守るために、人は暴力をふるったり牙をむくことだってあると。それは動物であるかぎり、われわれ人間のなかにどうしても内包されている本能というか……

──自己保存とか、防御本能といったもの?

白井 ええ。そういう行動はしかたないことなのだという認識が、どの作品にも顕著に表れている。ぼくはそこに一種の驚きと共感と美学すら感じる。それは残酷さを伴うのですが、そこに人間というものの本質の輝きのようなものを感じてしまう。もちろん暴力を肯定するわけではなく、そういうものが内包されていること自体が人間なのだという、その認識が美しいと思う。

 われわれは手を切れば血が出るし、心臓も飛び出すんだということを、目の当たりにさせられるんです。その魅力に取り憑かれて、作品が書かれると、常にそれにアプローチしたいという思いでいます。

他者との関係が隔絶した現代

白井 なぜ人間が戦争をしてしまうのかということも、フィリップの作品を観ることによってわかってきたり、先日(6月12日)、フロリダで起きた銃乱射事件にしても、撃った男の心境はどんなだったんだろうと考える。事件を肯定するつもりはさらさらありませんけど、実際に撃たなければその感触さえわからないという現代への危惧があります。

 だから、われわれのなかで起きて当然だと思うことを、フィリップは作品のなかでくり返し書いてきたのですが、いまや、現実に他者との関係が隔絶されるなかで、自分が牙をむいたら、相手が傷つき、本当に血が出るということを、実際に牙をむくまでわからなくなっている。他者を排除することでしか自分を守れず、それをおこなえば相手も傷つくことがわからないという現状は、ここ20年間ぐらいのコミュニケーションのツールによって大きく変わってしまったことだと、ぼくは思っています。

──遊◉機械/全自動シアターのときから、白井さんのなかには常に弱者を見つめる視点があり、そういう人たちを演劇的な想像力で描くことが多かったように思います。その傾向とフィリップ・リドリーの視点とは、ある意味、重なるところがある。

白井 そうですね。なので、彼の作品に触れたときには、理屈で考えるとか、どうにかしようとするのではなく、彼の書いている言葉にそのまま素直に乗っかって表現しようとしている自分がいて、迷いがないんですよね。

──登場人物たちは、社会に適合できない弱者が描かれ、彼らは周縁に追いやられて、地下室や隔離された空間で生活している。そのような劣悪な環境で生きる人々を描きながらも、常にフィリップ・リドリーは、彼らを詩的な感覚や美的なイメージで支えようとしている気がします。

白井 それはまさにそのとおりで、舞台に登場する主人公たちは、フィリップ自身の精神をそのまま投影しているんだと思います。彼自身はけっして裕福な家庭で育ったわけではありません。社会的な環境もそうだし、マイノリティであるという感覚をずっと持っていたと思うんです。

 そんななかで、自分をどう成り立たせていくのかをずっと考えていて、絵や詩や言葉のなかに、自分をなんとか表そうとした人であるということが、ぼくにはとても共感を呼ぶところだし、自分自身が演劇という行為をなぜしているのかというと、ほぼ同じような理由があったからかもしれません。自分には何の能力もないという感覚とか、社会的には当たり前とされていることに対する抵抗が、演劇を続けさせてきたと思っています。

現実のような嘘の世界

白井 もうひとつ、フィリップは社会的な部分をひとつの大きな寓話にしてしまう力があって、ひとりの少年がいろんな妄想を膨らませるように、世の中の状況を、ひとつのフェアリー・テールにして語っていく。そこには天使のような美しい人たちばかりが出てくるわけではなく、お化けみたいなものもいろいろ出てくるという……

──幽霊も出てきますよね。

白井 もう、虫やらクモやら、バタバタする鳥やら、『宇宙でいちばん速い時計』のように部屋中に剥製が置かれていたり、気持ち悪い状況ばかり。でも、不思議な寓話を作るところが、直裁的ではないんですよ。

 たとえば、去年、やらせてもらった『マーキュリー・ファー』では、架空の街で、蝶々を食べている設定になっていた。それはなにかの隠喩であることは、はっきりわかるわけですけれども、そういう不思議な空間を作りあげる。現実のような嘘の世界。でも、その嘘のなかに本当があるような、そんな世界を作るところが、演劇的な仕掛けとして、すばらしくぼくにはフィットする。これが現実社会のある部分を切り取っただけのものだったら、ぼくはやらないと思います。そういう手法での演劇には興味がないから。むしろ、こういうふうにフェアリー・テールにしているところが面白い。今回の『レディエント・バーミン』にしても、そういった演劇的仕掛けを持っているから、面白いと思っているところがありますね。

世田谷パブリックシアター『マーキュリー・ファー Mercury Fur』(2015年、会場:シアタートラム) 撮影/細野晋司

作品世界の忠実な具現化

──白井さんの演出ですが、フィリップ・リドリー作品の場合だけは、どこまでも作品世界をそのまま具現化している印象が、最初の『ピッチフォーク・ディズニー』のときからありました。

白井 先ほど申しあげたとおり、彼の作品に出会ったときに、もうそこに書かれている世界が、ぼくのなかでは絵として浮かんできてしまう。フィリップは画家でもあるので、そういうビジュアルも含めて、この物語があるべきところを想像していると思うんです。

 作家が想像していることと、ぼくが想像していることとはちがうかもしれないけれど、ぼくは少なくとも彼が書いた戯曲を読んでいると、自分のなかで、まわりの空気や雰囲気がどんどん膨らんでいってしまう。ですから、そこにどういう役者がいたらいいかを考えてキャスティングをする。作品世界に一直線で進んでしまえるところがあるんです。 

──古典を演出するときには、常に現代と結びつけるための仕掛けを考えられますよね。

白井 現代劇の場合でも、ぼくはどういう演劇的な仕掛けができるのか考えてしまうんですが、フィリップの場合はまったくないですね。おそらく彼だけかな。ぼくが自分の演出的な読み取りを全面に押しだそうとしないのは。

──だからこそ、皮膚感覚とか、体温とか、息づかいまで感じとることができるような、濃密な空間が生まれてくる。

白井 戯曲を読んでいると、そういうふうに読めてくるので迷わないんですよ。だから、役者さんに要求するときも「ここはこうだから」って、もう自分自身が作家の気持ちになりきって演出している感じのときがあります。

演出家・白井晃氏。フィリップ・リドリー作品を演出するのは『レディエント・バーミン』で6作目。

寓話性についての驚くべき仕掛け

──これまで上演されたフィリップ・リドリー作品は、独特なイメージに基づく繊細な描写によって眼前で展開される世界を静かに見つめる舞台だったと思うんですが、『レディエント・バーミン』は冒頭から登場人物が観客に向かって話しかけたあげく、観客を舞台の参加者に見立てるところがあります。

白井 これがふつうの観客開放型の芝居だと思うと、とんでもない話で、すでに観客すらも彼らが頭のなかで創造した人物としているわけです。彼らは「自分たちがやってきたことは、本当に犯罪なんだろうか。みなさん、どう思いますか?」と訊いている。その問いに対する自分たちのイメージが、観客を呼びこむ。だから、客席にいる人たちも、自分たちが創造した人たちであるという想定になる。そういうような構造を持っている。つまり、劇場全体がお客さんを巻き込んだ大きな装置になっている。

──今回は観客を巻き込むかたちで、寓話性が拡大している。

白井 こういうかたちで寓話を膨らませたかという驚きがありますよね。ふつうならば、寓話性を拡大させる手法として、登場人物たちがより巨大なものだとか、大きな存在だとかの方向で、もっと世界を上から見るような設定を考えるところです。

 でも、そうではなくて「わたしたちが生きているこの場所は何なんだ?」いう問いを突きつける。この地球上でぼくたちが生きている場所すらも寓話であり、そのなかに生きているのかもしれないと思わせるような、足下からすくわれるような寓話の広げかたという感じがするんですよ。自分たち自身が「おいおい、ちょっと待ってくれ。ぼくたちは寓話のなかで生きているのか」とハッとするような、そこにこそ視点を当てている。

──はじめオリーとジルの夫婦は、高度資本主義のなかで虐げられる存在だった。だが、ミス・ディーの出現によって、被害者から加害者へと変わっていく。それはミス・ディー自身もそうで、彼女はオリーとジルに特権を与える使者としてやってきますが、もうひとつ、浮浪者ケイとしても登場します。つまり被害者であることと加害者であることの両方を、観客は考えることになる。

白井 台本上に「ミス・ディーがケイとして現れる」と、わざわざ入っていますよね。だから、その意味では、この空間自体はミス・ディーが仕掛けた空間とも読み取れます。また、ミス・ディーのディーって何だろう。それはドリーム(Dream)のディーなのか、それともデビル(Devil)のディーなのか。

──そういわれると、両方のイメージがありますね。

白井 そうでしょうね。だから、少なくとも彼女がいる場所、彼女が仕掛けている場所、手紙を送ってきたという場所自体が、いってみれば「われわれが生きているこの世界なんじゃないか?」と問いかけているような、そういう構図を持っている。

 はじめは気づきませんけれども、だんだんそれがわかってきて、最後に、観客である自分たちもこの空間に巻き込まれた登場人物のひとりであるということ、そして劇場の外へ出て行っても、現実世界の街角にミス・ディーが立っているような、まるで地続きなフィクションの場に変貌させるような寓話の広がりかたをさせている。

 その意味では、CGとか、SFXにより、ファンタジーのなかで見たこともない絵面(えづら)が飛び込んでくることとはまったく逆方向の「いえいえ、あなたたちの劇場の外の方がよっぽど寓話ですよ」というような、寓話の立てかたをさせていることが怖ろしい。またなんという台本(ほん)を書いてくださったのかと、毎回驚かされる。

フィリップ・リドリーが喚起するもの

白井 約10年前、最初に『マーキュリー・ファー』を読んだときは、驚きのあまり、もうこれは上演できないと思った。でも、この10年間に、現実の方がフィリップの世界に追いついてしまった。あのときのぼくは、このフィリップの危機感を読み取りきれなかった。

──死のシミュレーションゲームはエスカレートしていき、次第に『マーキュリー・ファー』の世界が迫っています。経済格差もますます広がり、少数の特権階級と大勢の貧困層しかいなくなりつつある。中間層がごっそりと抜け落ちていく。

白井 そういった意味で、フィリップはバブル以降のロンドンの社会に対して、深刻さを感じていたと思うし、それはロンドンだけでなく全世界的に、より加速度的にそういう方向になっている。

 しまいにはドナルド・トランプさんみたいな人が出てきて、本当に大統領になったりしたら、ナチ党が生まれて約100年経ちますから、100年周期で、より脅威の波の高さが増して歴史がくり返し、大きな全体主義みたいなものが出てくるかもしれない。その恐怖感は本当にありますね。

──最後に、観客のみなさんに、ひとことお願いします。

白井 この三人の役者たちで演じられる濃密な会話劇、それも通常の速度ではない会話の嵐でくり広げられる作品を、まずは楽しんでいただきたいです。また、フィリップ・リドリーという劇作家の社会に対する非常に鋭い視線がこの舞台には内包されているので、コミカルななかに深い闇が横たわっていることをぜひとも感じていただきたい。観客のみなさんに、演劇はこういうことができるんだという醍醐味を味わってもらいたいと思います。

 当日券でふらっと見にきていただけるお客さまに、ぼくはけっこう期待しているところがありますので、ぜひとも劇場に足を運んでほしいと思います。

(取材・文/野中広樹)



白井晃演出によるフィリップ・リドリー作品
2002年 遊◉機械オフィス『ピッチフォーク・ディズニー The Pitchfork Disney』
2003年 遊◉機械オフィス『宇宙でいちばん速い時計 The Fastest Clock in the Universe』
2010年 世田谷パブリックシアター『ガラスの葉 Leaves of Glass』
2012年 まつもと市民芸術館『メルセデス・アイス Mercedes Ice─An Urban Fairy Story for Modern Children』
2015年 世田谷パブリックシアター『マーキュリー・ファー Mercury Fur』
2016年 世田谷パブリックシアター『レディエント・バーミン Radiant Vermin』
 
公演情報
『レディエント・バーミン Radiant Vermin』
■作:フィリップ・リドリー
■翻訳:小宮山智津子
■演出:白井晃
■出演:高橋一生、吉高由里子、キムラ緑子
■日程・会場:
2016年7月12日(火)~2016年7月31日(日)シアタートラム *当日券あり
2016年8月03日(火)~2016年8月04日(木)兵庫県立芸術文化センター 阪急中ホール
■公式サイト:https://setagaya-pt.jp/performances/20160712radiant.html
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