宝塚歌劇宙組『 エリザベート―愛と死の輪舞(ロンド)―』:美貌と悲劇のオーストリア皇后エリザベートの生涯を宝塚は少女漫画の文脈で読み直した/天野道映

レポート
舞台
2016.12.12
宝塚歌劇宙組「エリザベート―愛と死の輪舞(ロンド)――」 朝夏まなと(右前) ©宝塚歌劇団 禁複写・無断転載

宝塚歌劇宙組「エリザベート―愛と死の輪舞(ロンド)――」 朝夏まなと(右前) ©宝塚歌劇団 禁複写・無断転載


古い文化を持つオーストリアのミュージカルが日本の観客を捉えた。それは宝塚歌劇がこの作品を日本の古い文化から生み出された少女漫画の文脈に置いたからである。

むろん原作の魅力も大きい。ヨーロッパのオペラの伝統を受け継いで、全編ほぼ歌でつづられていく。歌詞は哲学的で、旋律は逆に麻薬のように理性を麻痺させる。旋律のパターンはヴォーカルで約20、インストゥルメンタルで約30。これらがさまざまに組み合わされ、思いがけないところで反復され、70曲余のナンバーを形作っている。この数は公演によって増減がある。フィナーレナンバーは計算に加えない。私が最も気に入っているのは、エリザベートの結婚式の場の参列者たちによる四部合唱――なかでも貴婦人たちの次の一節である。

馬車を降りる時に足を踏み外し王冠を落とした


しかし今はこれらの曲の中から、数珠を繰る時の大きな玉のような重要なナンバーを取り出して、宝塚版の性格を明らかにしたい。

1.エリザベート「私だけに」

エリザベートは、16歳でオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフと結婚して皇后になった。現代ならば女子高生の年齢である。実家の父マクシミリアン公爵は狩猟に明け暮れる自由人で、シシーの愛称で呼ばれる娘は父の生き方に憧れていた。しかし姉が皇帝とお見合いする場にたまたま同席して、皇帝に求婚され、旧弊なハプスブルク家の一員に加えられてしまう。

その劇的な生涯が舞台の上によみがえる。脚本・歌詞ミヒャエル・クンツェ、音楽シルヴェスター・リーヴァイ。1992年にアン・デア・ウィーン劇場で初日の幕を開けた。日本初演は1996年。宝塚歌劇団雪組の古澤真プロデューサーが、ウィーン在住の小熊節子のコーディネートにより、他のプロダクションを抑えて、上演権を勝ち取った。潤色・演出小池修一郎。翻訳黒崎勇。音楽監督吉田優子。日本初演20周年に当たる今年2016年、宙組による9回目の公演が7~8月の宝塚大劇場に続き、9~10月の東京宝塚劇場でおこなわれている。

宝塚が原作を少女漫画の文脈に置いたといっても、ヒロインの少女時代はまたたく間に過ぎ去り、シシーは姑に当たる皇太后ゾフィーとの息詰まるような闘いに直面する。新婚初夜が明けた早朝5時、姑は女官たちを引き連れて、シシーの寝室に乗り込んでくる。

「毎朝5時きっかりにすべて始めるのよ。」
「陛下が言われた。ゆっくりお休みと。」
「昨夜のあなたはぐっすり寝こんだそうね。」
「陛下が言うはずない。」
「聞いたのよ。」


ゾフィーは皇帝を呼んでこさせる。エリザベートは夫の胸にすがって助けを求めるが、彼はこう答えるだけである。

僕は君の味方だ。でも母の意見は君のためになるはずさ.


ゾフィーは息子の言葉を聞き、勝利の笑みを浮かべて悠然と去って行く。嫁と姑の闘いは少女漫画の題材にふさわしくないかも知れない。だが16歳のシシーは少女の心のままである。人びとが去った後で彼女は朝の光を宿す寝室の窓を背に独りたたずみ、サイドテーブルに置かれていた本からペーパーナイフを抜き取り、胸を刺そうとする。

彼女は死への傾斜――自殺願望を持っていた。その衝動を辛うじて抑え、渾身の力を込めて2オクターブにわたるソロナンバー「ICH GEHÖR NUR MIR」(私は私だけに属する。宝塚版のタイトル「私だけに」)を歌う。これが作品全体のキーワードである。

たとえ王家に嫁いだ身でも
命だけは預けはしない
私が命ゆだねる それは
私だけに
私に


歌い終わってシシーは気を失って倒れる。するとトートが回転する盆の迫りに乗って奈落から姿を現す。彼は「愛と死の輪舞(ロンド)」を歌い、シシーの手からナイフを取り上げる。

返してやろう、その命を。その時お前は俺を忘れ去る。お前の愛を勝ち得るまで追い詰めよう。


トートとはドイツ語でDER TOD。「死」を意味する男性名詞である。人間ではないが仮に男優(宝塚では男役)によって演じられる。

2. トート「愛と死の輪舞(ロンド)」

宝塚歌劇宙組「エリザベート―愛と死の輪舞(ロンド)――」 トート:朝夏まなと  ©宝塚歌劇団 禁複写・無断転載

宝塚歌劇宙組「エリザベート―愛と死の輪舞(ロンド)――」 トート:朝夏まなと  ©宝塚歌劇団 禁複写・無断転載

トートが歌うこのナンバーは宝塚版の潤色・演出の要請によって、原作者により新しく加えられた。しかしそれは単なる増補ではなく、トートという役の性格を一変させ、回転扉の軸になって宝塚版と原作を反転させることになった。このため宝塚版のタイトルには原作にないサブタイトル「愛と死の輪舞(ロンド)」が付けられている。

原作ではトートはエリザベートの内面の死への傾斜だったが、宝塚版ではこのナンバーによって、あたかもヒロインに先立って存在し、彼女を愛へ誘惑するかのような者になる。トートの愛とは死にほかならない。原作ではすべてはヒロイン独りの心の内部のドラマなので、彼女が失神した後にトートが現われて、「返してやろう。その命を」と歌うことはない。

トートの性格の変化は元をただせば、宝塚の「男役中心主義」から始まった。女性のエリザベートを主役にするミュージカルを翻訳上演するに際して、宝塚側は原作者にこのことを説き、原作者も受け入れ、男役トートを立てるために台本を改訂し、ナンバーを追加した。その時回転扉が回って、少女漫画の世界が目の前に現われる。

3. 皇帝フランツ・ヨーゼフ「エリザベート。開けておくれ」

エリザベートは2人の王女を生むが、ゾフィー皇太后に養育権を奪われ、続いて生まれた皇太子ルドルフも皇太后の監視下に置かれる。ここに至ってエリザベートは俄然反撃に出る。政務に追われて心身共に疲れ果てた皇帝が皇后の居室のドアを叩く。

エリザベート 開けておくれ
君が恋しい 側にいたい
君の優しさで 僕を包んでほしい
安らかに眠りたい
せめて今宵だけは


--最後のフレーズは原作では「0hne wunsch für eine nacht(一夜何も望まずに)」。


エリザベートはドアの隙間から皇帝に書類を渡して、彼の入室を拒む。

それは正式な最後通告です。私を失いたくないなら、その条件を呑んで下さい。子供の教育を任せてほしいの。自分の子供に何をして、何をさせるか、たった今から私が決めます。よく読んでご決断下さい。お母様か私か。それでは独りにして下さい。


第1幕の幕切れに皇帝はこの最後通告に全面降伏する。

君の手紙なんども読んだよ。君の愛が僕には必要。君なしの人生は耐えられない。息子の教育君に任せる。ほかの希望もすべて通そう。君が望むものは君のものだ。


皇帝はこれを皇后の持ち歌「私だけに」の旋律で歌う。歌詞だけでなく旋律も全面降伏している。同じ旋律の思いがけない反復の効果のなかでも、これは最も皮肉な例である。

4. ルイジ・ルキーニ「キッチュ」

皇后は夫を屈服させることによって、皇太后ゾフィーとの闘いを制した。姑の権力は息子によって初めて成立していた。しかし皇后は宮廷内闘争に勝利すると、そこで権力を振るうことには興味を示さなかった。彼女はルドルフ出産の2年後、肺の疾患を疑われて、大西洋に浮かぶポルトガル領マデイラ島に転地療養したのをきっかけに、ヨーロッパ中を旅するようになった。この時23歳である。病は神経症的色彩が濃く、ウィーンに戻ると体調を崩し、旅に出ると回復した。旅に明け暮れている間に、皇太子ルドルフはハンガリーの革命家と組んで父皇帝に対して反乱を企てるが、失敗に終わり、トートに抱かれてピストル自殺を遂げる。

皇太子の反乱は宝塚版で初めて詳しく語られることになった。ひとつには日本では馴染みの薄い挿話だからであり、またトートを主演者として際立たせるためである。トートはまず息子の命を奪うことで、ヒロインを自分の愛へ、つまり死へ引き入れようとする。エリザベートは息子を救えなかったことを強く後悔しつつ、その後も喪服を着て旅を続け、スイス・ジュネーブのレマン湖のほとりでイタリア人テロリスト、ルイジ・ルキーニに暗殺され、61歳の生涯を閉じた。

ルキーニは幕開きから登場して、エリザベートの生涯を再現するドラマの狂言回しを演じていた。皇后の姿はルキーニの目を通して語られ、それはヒロインに対して批判的なまなざしである。ルキーニのナンバー「キッチュ」は原作ではこう主張している。

私は君たちに打ち明けよう
シシーは本当は
悪意に満ちたエゴイストだった
彼女は息子を巡って闘った
自分の方が強いことを
ゾフィーに証明するために
だがその後は息子を追い出した
彼女に大切だったのは
自分を解放すること
彼女は君主制のお陰で生活していた
そしてスイスに
隠し口座を開いていた


ルキーニの批判にウィーン市民の意識が投影されている。原作者のクンツェによると、一般市民は今でも皇帝フランツ・ヨーゼフびいきで、エリザベートの自由を求める精神を理解しながらも、彼女が宮廷をよそに暮らした生き方には好感を持っていない(『VISA』 コミニケ出版 1996年1+2号)。一方、宝塚版はエリザベートに同情的である。健気に生きる姿が強調され、生涯を通じて少女漫画的ヒロインでありつづける。宝塚版でもルキーニは「キッチュ」を歌うが、別の穏当な歌詞に差し換えられている。

5. トート+エリザベート「愛のテーマ」

エリザベートの自殺願望と彼女の暗殺による死はどう結びつくのか。暗殺者ルキーニはエリザベートとトートの「大いなる愛」を成就させるために、トートから凶器の細長い三角ヤスリを与えられて、彼女を襲った。トートは原作ではエリザベートの心中の存在なので、死は彼女自身の願望の成就にほかならない。宝塚版ではエリザベートの新婚初夜の明け方にトートが彼女の手から持ち去ったナイフがルキーニに手渡され、このナイフが45年後に改めて彼女の胸を刺す。
レマン湖のほとりでエリザベートは女官と2人で船に乗ろうとしていた時、凶刃に襲われた。彼女は上着を脱ぎ、新婚初夜の場と同じ姿(リアルな下着ではなく、ギリシャ風の白く長いローブ)になる。そこにやはりそれまでの黒の衣装を白装に改めたトートが現われる。彼らのデュエット「愛のテーマ」の旋律は前半が皇帝の持ち歌「エリザベート。開けておくれ」で、間奏の後はエリザベートの「私だけに」になる。

トート 今こそお前を
黄泉の世界へ
迎えようエリザベート 連れて行って 闇の彼方遠く
自由な魂 安らげる場所へ
(間奏)
エリザベート 涙 笑い 悲しみ 苦しみ
長い旅路の果てに掴んだ
2人 決して終わる時などこない
エリザベート あなたの
トート お前の
2人 愛


歌い終わると、2人は舞台中央のセットに取り付けられたステップに乗り、手を取り合って天空へ去って行く。原作の展開はこれとはまったく違う。間奏の後の歌詞は次のようになる。

エリザベート 私は泣いた 笑った
勇気がなかった
新しいものを望んだ
だが何をしても
私は常に自分自身に忠実だった
2人 世人は空しく訊ねる
エリザベート 私の
トート お前の
2人 人生の意味を


それから宝塚版にはない決定的な末尾の3行を歌って幕になる。

エリザベート DENN ICH GEHÖR
(なぜなら私は属する)
トート DU GEHÖRST
(お前は属する)
2人 NUR MIR!
(私だけに)


なんと見事なレトリック! エリザベートとトートは同一人物である。だから2人にとってそれぞれ「NUR MIR」(私だけに)という言葉が成立する。歌い終わると、エリザベートは倒れ、死の天使たちが現われて、彼女の亡き骸を片付ける。

原作のエリザベートは自滅していく。そのことにどういう意味があるのか。彼女はこの時、第一次世界大戦に向かって終焉を迎えつつあるヨーロッパ世界そのものの象徴になった。原作の主題はそこにあり、美貌と悲劇の皇后エリザベートの孤独な生涯が、滅び行く世紀末のウィーンの残照と重なり合う。

6. 私の居場所

この主題を宝塚版は少女漫画の文脈で読み直した。藤本由香里『私の居場所はどこにあるの?』(学陽書房1998年)によると、ほとんどすべての少女漫画の主題は、性、恋愛、家族、仕事において自分の存在に不安を抱き、居場所を求める少女たちの手探りの闘いである。この不安は愛する異性が自分を好きだと言ってくれ、自分の存在を肯定してくれる時、初めて解消され、「女」というマイナスの符号は劇的にプラスに変わり燦然と輝き始める。

宝塚版の『エリザベート』はまさにこれである。旧弊なハプスブルク家の宮廷で、居場所を求めて手探りの闘いを続けていたヒロインは今トートの胸に抱かれて昇天していく。新婚初夜が明けた朝の皇帝と違い、彼女の全てを肯定し、愛すると言ってくれた。これはエリザベートがやっと迎えた真実の新婚初夜にほかならない。もし初演の宝塚版の終幕が原作を踏襲していたら、オーストリアとは文化を異にする日本でこれほどの成功をおさめたかどうか疑わしい。宝塚の「男役中心主義」が少女漫画を呼び寄せた。「男役中心主義」と少女漫画のメソッドが終幕で手を取り合っている。しかも男トートと見えたのは、やはりヒロインが自分の居場所を探して作り上げた幻影に過ぎず、そこには少女が1人立っているだけである。

今回の宙組公演には、初演当時はまだ歌劇団の演出部に入団していなかった小柳奈穂子が共同演出に加わっている。主要なキャストは、朝夏まなとのトート、実咲凜音のエリザベート、真風涼帆のフランツ・ヨーゼフ、愛月ひかるのルイジ・ルキーニ、純矢ちとせの皇太后ゾフィー。皇太子ルドルフには澄輝さやと、蒼羽りく、桜木みなとのトリプルキャストが組まれている。多くの役が初演以来さまざまに工夫されてきた。今回の舞台はそれらの工夫を一度白紙に戻して、原点のドラマを見つめ直そうとしているかに思われる。


参考文献
・「ELISABETH」(『TEXTBUCH THEATER AN DER WIEN』 1992年)
・『スペシャルエディション エリザベート 20th Anniversary』(宝塚歌劇団 宝塚クリエイティブアーツ 2016年、20周年記念ムック)

About 天野道映
あまの・みちえ。1936年うまれ。新聞記者を経て現在演劇評論家。朝日新聞に歌舞伎評、ミュージカル評、宝塚歌劇評を掲載している。宝塚の男役について「女子生徒が仮に男のジェンダーを身にまとって時代に立ち向かう姿」という独自の論考を展開している。

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