須賀貴匡&宮崎秋人らが演じる熱き闘争!『冬の時代』稽古場レポート

レポート
舞台
2020.3.19
 渋六役の須賀貴匡(左)と、飄風役の宮崎秋人(右)

渋六役の須賀貴匡(左)と、飄風役の宮崎秋人(右)

画像を全て表示(7件)


舞台『冬の時代』が3月20日より開幕する。

明治天皇暗殺計画の嫌疑により、全国100名余の社会主義者や無政府主義者を検挙、幸徳秋水ら12名に死刑判決がくだされた「大逆事件」(幸徳事件)。明治政府からの制裁は、当時の革命家・運動家らに多大な影響を与え、日本の社会主義運動は「冬の時代」へと突入した。

本作は、そんな「冬の時代」を生きた、熱き革命家たちの物語。社会主義者・堺利彦が設立した「売文社」を拠点に、この国をよりよくするために、真の平等のために、日夜激論を交わした男たちの思索と分断が描かれていく。

この国はどこへ向かっているのか。民衆は、国家とどう対峙するべきなのか。その問いは、「大逆事件」から100年が過ぎた現代の日本でも何ら古びたものではない。だからこそ、今改めて上演する意義がある。

ここでは、初日を目前に控え、通い慣れた稽古場で行われた最終稽古の模様をレポート。堺利彦らは、迫害を受けながらも理想の国づくりに燃え奮闘した。では、閉塞感ばかりが年々濃くなる現代に、風穴をあけるのは果たして誰だろうか。

俳優たちが、まるで格闘技のように言葉と信念を戦わせ合う

台詞劇は、スポーツだ。

首筋に血管を浮き立て、顔を真っ赤にしながら台詞を交わす俳優たちを見ていると、ふとそんな感想が脳裏をかすめた。

ともすると、「高尚」「静謐」と形容されがちなストレートプレイ。社会主義者たちの斜陽の日々を題材とした本作も、現代の観客から見れば「難解」に映ることだろう。

確かに、文体は現代演劇のそれではない。明治後期から大正にかけての時代背景を理解していないと、「赤旗事件」について語る冒頭のやりとりなんかはなかなか頭に入りづらいかもしれない。

けれども、理解しようとする前に、まず体感してみる。

台詞という拳を、相手に向けて打つ。感情が乗れば乗るほど、拳もどんどん重くなる。足を強く踏み込み、腰を大きく捻り、前方めがけて拳を突き出す。すると、相手も反撃に出る。目の前で繰り広げられる舌戦は、まるでボクシングの一戦のようだ。鋭くジャブを入れ合い、駆け引きに興じるときもあれば、ハードパンチャー同士の渾身の殴り合いもある。

彼らの熱が伝わるように、観客の体温も見る見る上昇していく。はじめは「情報」でしかなかった俳優たちの台詞がいつの間にか「感情」に変換されて血管に直接流れ込み、体の内側からふつふつと興奮が沸き上がってくる。気づけば、あっという間に1幕が終わっていた。

観客が思う以上にカロリーを消費するのだろう。派手なアクションなんて何もないのに、俳優たちは汗で額を濡らし、大きく息を吐いている。それを見てやはり思うーー台詞劇は、スポーツだ。

「売文社」ーーそれは、革命家たちの生活と運動の拠点

『冬の時代』は3幕によって構成されている。1幕は、「大逆事件」から2年が過ぎたある秋の日の話だ。登場する人物は、それぞれ実在の人物をモデルにしながら、名前を変えている。「売文社」の設立者である堺利彦は、渋六(須賀貴匡)。同じく「売文社」の一員である大杉栄は飄風(宮崎秋人)。荒畑寒村はショー(青柳尊哉)といった具合に。

物語は、渋六らが「大逆事件」より遡ること2年前に起きた「赤旗事件」について振り返るところから幕を開ける。「赤旗事件」とは、初の合法的社会主義政党「日本社会党」の中でも暴力革命を主張する「硬派」の指導者層が一挙拘束された弾圧事件。これにより、飄風やショーはおろか、止めに入った渋六らも懲役刑を受けることとなった。

しかし、運命は皮肉だ。この「赤旗事件」により獄中の身であった渋六や飄風らは、「大逆事件」からは蚊帳の外だった。つまり、硬派の中でも急先鋒であった飄風やショーが連座を免れ、のうのうと今も社会主義を謳っている。そのことを、同じ「売文社」の一員であり、自らは「大逆事件」の恐怖にさられされたノギ(池田努)は「無責任」だと非難する。社会主義の旗の下に集いながらも、決して彼らが一枚岩でないことが、冒頭の議論から伝わってくる。

左から、渋六役の須賀貴匡、ノギ役の池田努、ショー役の青柳尊哉、飄風役の宮崎秋人

左から、渋六役の須賀貴匡、ノギ役の池田努、ショー役の青柳尊哉、飄風役の宮崎秋人

そこから物語は「売文社」の日常風景へ。「売文社」とは、代筆・文章代理を業とした、現代の編集プロダクションの先駆けのような組織だ。そこには息子に宛てる手紙の代筆から、彼らの信条とは違える「社会主義撲滅論」の執筆まで、様々な依頼が舞い込んでくる。

そんな中、社会主義運動の後退を危惧する飄風とショーは、この「冬の時代」を打ち破るべく新たに「近代思想」という文芸・思想誌の発刊を計画する。一方で、渋六はこの「冬の時代」だからこそ、あえて猫をかぶる必要があると主張し、新機関誌「へちまの花」の構想を発表する。

根は共にしながらも、思い思いの方向へ伸びていく枝のように、社会主義という心は同じであっても、渋六、飄風、ショー、ノギと、それぞれ実現の方法や立ち位置は異なってくる。そこから生まれる対立や摩擦が、本作の大きな見どころだ。

ショー役の青柳尊哉

ショー役の青柳尊哉

飄風の抱える「不発弾」。彼は、火をつけられることを求めていた

それは2幕、3幕と進むにつれ、より色濃くなる。1幕から3年後の2幕では、飄風はますます血の気が多くなり、時間も場所も構わずに議論をふっかけてくるように。一方、渋六は社員の生活を守るべく、忍術本の編集を請け負ったり、別の会社まで翻訳の臨時仕事に駆り出されたり、革命家の面影もない。そんな渋六を飄風はまるくなったと責める。

論争に火をつけるのは、決まって飄風だ。飄風は、いつも何かに激しく憤っている。飄風の中の激烈さが、この『冬の時代』の牽引力となっている。一方で、渋六は決して声を荒げたりしない。飄風のように何かを攻撃することで、自分の正義を貫こうとしない。

飄風役の宮崎秋人

飄風役の宮崎秋人

このふたりを分かつものがあるとしたなら、それはきっと先の「大逆事件」なのだろう。「赤旗事件」によって投獄された飄風は「大逆事件」では部外者だった。師である幸徳秋水の命を奪い、彼が人生を懸けた社会主義運動を一気に氷結させた大事件に、自らは関わることができなかった。その虚無が、彼の心を巣食っている。

本来ならあの「大逆事件」で彼の中にある爆弾は火を噴いているはずだった。けれど、その機会を奪われたまま、ずっと不発弾として彼の心に埋め込まれていたのではないか。飄風が見境なく議論を欲し、権力に逆らい、妻がいる身でありながら次々と女たちと恋に堕ちていくのも、彼自身が誰かにこの不発弾に火をつけてほしかったからのように見えてならなかった。

エンマ役の佐藤蛍(左)と、飄風役の宮崎秋人(右)

エンマ役の佐藤蛍(左)と、飄風役の宮崎秋人(右)

そんな飄風を、宮崎秋人は苛烈に演じている。見せ場は、2場の長台詞。ページをめくってもめくっても続く膨大な台詞を、宮崎は自らの中で吠える暴れ馬を鞭で叩くように繰り出していく。木下順二の紡ぐ言葉は心地よい音律があり、どんなに長い台詞であってもするりと観客の耳に溶け込む力がある。けれど、それを軽やかに歌い上げては空疎になる。激動の時代を生き抜いた若き革命家の叫びとして成立させるには、尋常ではないエネルギーがいる。

反逆によってのみ得られる飄風の無軌道な生が、宮崎の全身から迸る。舌鋒鋭く自らの主張を論じた後、静寂の中で、宮崎の唇から抑えきれない感情が荒い吐息となって漏れ出た。その瞬間、飄風の反逆心の矛先は、権力でも、渋六でもなく、自分自身なのだと感じられて、思わず視線が引き寄せられた。

渋六の願った団結。だが、それは決して叶わない

そして、そんな飄風と対峙する渋六の佇まいが印象的だ。演じる須賀貴匡は1幕の時点から悠然とした構えで「売文社」のメンバーの論争を見守っている。その柔和な笑みは、飄風の激烈さとは対照的で、どことなく哀感がある。革命家の立場にありながら、自らの意見を表明する場を避け続ける渋六の態度は、急進的な飄風に対し、保守的とも言える。

そこには、この「冬の時代」だからこそ派を分かつのではなく、全体が一致団結しなければならないという思想があった。この厳しい風雪をみんなで凌ぎ、社会主義復興の時機を待つ。「売文社」はそのための孤塁だったはずだ。けれど、その声はもう飄風には届かない。共に「売文社」を立ち上げた同志であるはずの飄風は、気づけば最も遠い存在となっていた。

渋六役の須賀貴匡(左)と、奥方役の壮一帆(右)

渋六役の須賀貴匡(左)と、奥方役の壮一帆(右)

そんな渋六の人間性を、須賀は鷹揚たる口調で表現する。どれだけ飄風が気炎を吐いても、渋六は自分のペースを崩さない。だが、その中でふと苦悩を見せた場面があった。それが2場のあるひとコマ。そのときの須賀の表情に、言葉に乗せることのない渋六のやるせなさが満ち満ちていて、胸が締めつけられた。

男たちの闘争は、3幕でさらに大きなうねりを迎える。その決着は、ぜひ劇場で見届けてほしい。

自分の思想を表明することは、自分は何者であるかを表明すること

100年前の男たちの議論を目の当たりにしながら、今の日本でこんなふうに自分の思想を表明することなんてほとんどないなと思った。政治に対し、社会に対し、憂いていることなど山ほどある。SNSを開けば、そういう類の意見のぶつかり合いは目にする。けれど、それらを見ると正直うんざりしてしまうのが本当のところで、ましてやリアルの場で政治的主張を一席ぶつなんて、それだけで相当変わり者扱いされるのが現実だろう。

それが正しいかどうかは、わからない。でも、間違いなく100年前の彼らは本気で国家を想い、この国がもっとどうあるべきかを真剣に話し合っていた。その姿は、生命力に満ちていた。

かつて幕末の時代に武士たちが維新に命を賭したように、100年前のあの時代は革命家たちが国の未来を担う志士だったのかもしれない。そう考えると、やはりこの『冬の時代』は決して小難しい話ではない、と思えてくる。信念に燃えた男たちの生き様の話なのだ。

2020年になった今、日本の格差はますます広がり、生活に困窮する労働者は増えるばかりだ。あの狭い執務室で革命を夢見た彼らは、100年後の日本を見てどう思うだろうか。僕たちは、彼らが託した未来を生きている。その旗の色が何色かなんて問わない。でも、この国に生きるひとりとして今こそ旗を掲げなければならないのだと、「冬の時代」を生きた彼らの弁舌が、今も耳に響いている。

取材・文:横川良明   撮影:交泰

公演情報

unrato#6『冬の時代』
 

 
日程:2020年3月20日(金)~3月29日(日) ※上演時間は3時間15分を予定(休憩時間含む)
会場:東京芸術劇場シアターウエスト
 
■作:木下順二
■演出:大河内直子
■出演:須賀貴匡、宮崎秋人 / 壮一帆 / 青柳尊哉、池田努、若林時英、結城洋平、山下雷舞、溝口悟光、戸塚世那 / 小林春世、佐藤蛍 / 井上裕朗、羽子田洋子、青山達三
 
■公式サイト:http://ae-on.co.jp/unrato/
 
【あらすじ】
舞台は大逆事件(1910年)の後、渋六が設立した、代筆や文章代行を行う「売文社」の一室。
あちこちから、忍術の本や広告作成などの依頼が次々と届いている。
楽天家の渋六社長のもとには、ショーやノギ、不敬漢、デブ、文学士ら多士済々の社員が集まってくる。
激動する社会、飄風の恋愛事件…。
堺利彦や大杉栄、荒畑寒村、伊藤野枝など実在の人物が名前を変えて登場。
大正デモクラシーの波の中、考え葛藤し、そして行動した表現者たち。
知的で情熱的な若者たちをいきいきと描く物語。
シェア / 保存先を選択