フランク・ザッパからhideまで──テリー・ボジオが語る約50年にわたるドラマー人生とは【インタビュー前編/連載・匠の人】

2020.7.17
インタビュー
音楽

テリー・ボジオ

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今回「匠の人」に登場するのは、「世界で最も優れたドラマーのひとり」として知られるテリー・ボジオ。クラシックとジャズを学び、フランク・ザッパに見出されて以降は、ロック、ポップ、様々なジャンルにおいて、ハイレベルな技量を発揮してきたスーパー・ミュージシャンだ。現在は日本在住のテリーに、ザッパからhideまでを横断する多彩なキャリアに加え、ソロ・ワークや家族のことについて、前・後編にわたり存分に話してもらった。
山ほどの打楽器に囲まれた"要塞"と形容されるドラムセットの写真を見たことがある人も多いと思うが、決してテクニックをひけらかしたがる自己顕示欲の強い人物ではないことが、以下のインタビューを読めばわかるだろう。その音楽に対する真摯な姿勢は、やはりザッパの元で学んだ経験が大きいのだということも、改めて実感する。この記事を入口に、テリー・ボジオという素晴らしいアーティストに対する興味をいっそう深めてもらえたら嬉しい。

――コロナ禍で全世界がまだまだ大変な状況で、それに加えてアメリカはBLMでも激しく揺れ動いていますが、ここ日本でどんな日々を過ごしていますか?

僕はすごく恵まれた暮らしをしてる。支えてくれる家族もいるしね。もともとあちこちへ動き回るタイプでもないから、今は曲作りをしたり、アート制作をしたり、健康維持のために散歩したりしてるよ。娘のMarinaと一緒に練習することもある。

――あなたが初めて日本を訪れたのは、フランク・ザッパ唯一の来日公演(※1976年2月「YUYA PRESENTS 浅草最大のロック・ショウ」ほか数公演)ということになりますね。その時のことについて話してもらえますか。

素晴らしい経験だった。まるでビートルズみたいに、ファンがロビーで待っててさ。アメリカじゃ、ひとりか2人くらいしかいないのに、大勢の人が集まっていたから、とても嬉しかったのを覚えてる。僕はもう、断続的に日本に住むようになって10年くらいになるんだけど、ある時テレビで(内田)裕也を見たんだ。口にVサインを当てて歌ったりしてて、すごく変わった人だと思って(笑)、もちろん王道のロックンロールをやっててカッコよかったけど、とにかくテレビで観た彼が、かつてフランクを日本に呼んだ人だったなんて驚いたよ! 彼の妻についても、素敵な人だと思ってた。彼の方はあんなに風変わりで、彼女は素晴らしい女優で、そんな2人がカップルなのはクールだと思ったな。裕也が亡くなった時は、あのツアーを企画した人だったんだと思うとショックだった。彼はあらゆるタイプの日本食レストランに連れて行ってくれたよ。天ぷらとか鉄板焼き、もちろん寿司も、次から次へと、とにかく何もかも美味しくて、本当によくしてもらって、素晴らしい時間を過ごした。すごく特別な経験だったね。以来ずっと日本に惚れ込んでいるんだ。この国に住めるようになるなんて思いもしなかったから、本当に嬉しい。

――裕也さんのことも、よく覚えているのですね。

僕が日本のテレビで彼を見るようになった頃には、白い髪をしていて、見た目はかなり変わっていたけど、以前は黒い巻き毛だったよね。当時の写真も持ってる。彼には色んなところへ連れて行ってもらった。伝統的な着物を着た女性がいるようなお茶会とか、歌舞伎とか、あと、あのショウは何だっけ?(横にいた奥様が教えてくれる)そう、SKD(松竹歌劇団)だ。足を高く上げるラインダンスとか、すごく風変わりな踊りだったというか、アメリカではもう見られないような、50年代みたいな感じで。とにかく僕には日本の街自体が新鮮だった。複雑で、ネオンサインが輝いてて、車も人もいっぱいで、ニューヨークみたいに縦方向に高くそびえてもいるし、ロサンゼルスみたいに横にも広がっているという。

■フランク・ザッパは僕の能力を引き出してくれた

――では、何度も訊かれた質問だとは思いますが、改めてフランク・ザッパのバンドに加入することになった経緯を教えてください。

僕はカレッジを卒業した後、サンフランシスコでロック・ミュージカル『Godspell』とかの仕事をして、それからサンフランシスコのジャズ・アーティストの間で引っ張りだこになった。ウッディ・ショウやエディ・ヘンダーソンをメインに、ジュリアン・プリースター、ジョー・ヘンダーソン、ルイス・ガスカみたいな人たちと共演できて、すごく誇らしかったな。そういう人たちとやってたから、実はそれまでフランク・ザッパの音楽はまったく聴いたことがなかったんだよ。で、ルイス・ガスカのアルバムで共演したジョージ・デュークが「サンフランシスコにいる優秀なドラマーを知らないか?」って、エディ・ヘンダーソンに訊いたんだ。フランクがロサンゼルスでオーディションをしたけど、いい人が見つからなくて、他の街でも探してみたいと言ったらしくて。それでエディが、「うちのドラマーのテリーがすごくいいよ」って言ってくれた。そうしてジョージから連絡をもらって、LAに行くことになったんだ。あれは、かなり恐ろしいオーディションだったよ。50人のドラマーが集められ、大きなドラムセットが2つあって、一人が片方でオーディションを受けてる間に、もう一人のドラマーがキットをセットアップするんだ。そこにはジョージ・デュークとトム・ファウラーとフランク・ザッパがいて、そりゃものすごい威圧感だった。で、他のドラマーが挑戦しては失敗するのを見ながら、みんないいドラマーだったけど楽譜の読めない人もいたりしたんで、「よし、やるだけやってみよう!」って思ったんだ。最初に叩いたのは「Approximate」。すごく難しい曲なんだけど、初見で演奏しなきゃならなかった。僕が叩いてみせると、フランクが「よし、テンポを上げてみてくれ」って言った。少なくとも彼には、これほどの難曲を初見で演奏できるなら対処できるだろうとわかったってこと。それから聞き覚えによる演奏もやって、複雑なテンポの変化を覚える記憶力がテストされた。それもちゃんとできた。次に「ジョージ・デュークはいつもソロを19(拍子)でやった」とフランクが言って、僕はそれもビリー・コブハムのマハヴィシュヌ・オーケストラで馴染みがあったから、ちゃんとプレイできた。次に、じゃあブルース・シャッフルができるかやってみようって言われたから、僕は「やった!」って感じで、ノリノリでスウィング&グルーヴしてみせたんだ。するとフランクが「すごくよかったよ。君のプレイが気に入った。残りの人たちを聴いてから、また聴かせてもらいたい」って言ってね。あと25人くらい残ってたかな。ロード・マネージャーが彼らの方を見ると、みんな首を振ってて「テリーの後には誰も叩きたくないみたいだな」ということになり、フランクに「決まったみたいだな、もし君がよければ」と告げられたんだ。驚いたよ。はっきり言ってショックだった。まさか自分に決まるなんて思ってなかったから。

――ザッパとの活動で、特に印象深かったことはなんですか?

何よりまず、彼は僕より10歳年上で、かなり経験を積んでいた。そして、天才だった。その点、僕は若くてナイーブで、それでもプレイヤーとして彼を満足させようと頑張ったんだ。いつも思っていたのは、彼は指揮者で、僕はオーケストラのパーカッション奏者なんだってこと。もしくは、彼がフェリーニみたいな映画監督、僕は俳優で、彼の望むことは何でもやるっていう。そして、彼は僕の能力を引き出してくれた。自分がドラムを叩きながら同時に歌えるなんて思わってなかったからね。ナポレオン(M.ブロック)がバンドを辞めた時、彼の演劇的なパフォーマンスを誰かが引き継がなきゃいけないと思ったんだ。彼は本当にいいショウマンだったから、僕はドラムセットの向こう側でそれをやろうとして、悪魔のマスクをかぶったり、「Punky’s Whips」で歌ったりした。楽しかったよ。それがフランクが僕に求めたキャラクターだったんだ。バンドの他のメンバーと比べて、ドラマーの僕にはより自由があった。フランクが曲を作ると、各メンバーが自分のパートを作ってみて、気に入られたら採用される。だから一緒にやってた時は、実際にたくさん作ってインプットすることができたんだ。フランクはすごく賢く、面白い人で、僕はいつも畏怖の念を抱いていた。バンド活動のプロセス全体が、海兵隊のブートキャンプみたいで……ミュージシャンのためのブートキャンプだと思ってたよ(笑)。自分にできると思っている以上のことをやらされて、できるようになるっていうね。

■ザッパ・バンドの腕ききプレイヤーだった3人がポップ・バンドになろうとしてみたのがミッシング・パーソンズだった

――次に来日したのは、U.K.としてになりますね。後年には、トニー・レヴィンやパット・マステロットとも一緒にやっていますし、キング・クリムゾンのメンバーと接点がありますが、若い頃のあなたはブリティッシュ・ロックにどのくらい興味を持っていたのでしょう?

子供の頃はすごく入れ込んでたよ。63年頃にビートルズが出てきて、ブリティッシュ・インヴェイジョンが起きた時にも夢中になった。ただ、その後、69年に高校を卒業し、本気で音楽を学ぶためにカレッジに行って音楽を専攻したんだけど、サンフランシスコ・シンフォニーのクラシックの先生から、ジャズの偉大な先生まで、いい先生たちに恵まれてね。すごく厳格な先生ばかりで、たくさんのことを学んだよ。当時の僕はクラシックとジャズが好きで、ロックンロールにはあまり興味がなかった。だからフランク・ザッパとの仕事が決まった時、自分がロックンロールを好きだった頃にさかのぼって、再発見する必要があったんだ。その仲介役とも言えるのがジミ・ヘンドリックスとやってたミッチ・ミッチェルだ。70年代半ば頃は、ミッチとジンジャー・ベイカー(クリーム)が大好きでね。70年代後半にはジョン・ボーナム(レッド・ツェッペリン)も好きになった。あと、当時の僕にとって大きな影響と言えばビリー・コブハム。彼は素晴らしいドラマーで、ロックのスタイルでやりながら、ものすごく音楽的なこともやっていた。変則的なテンポや、ラテン・ミュージックにも精通していたし、とにかくスマートなドラマーで、作曲家としても影響を受けているよ。僕がロックンロールをやるようになるまでの道のりはこんな感じ。正直なことを言うと、キング・クリムゾンの音楽は、エディ・ジョブソンと一緒にやるようになるまで聴いたことがなかった。エディが、確か彼らのファースト・アルバムを聴かせてくれて、まだビル・ブルーフォードはいない頃だったけど、興味深い音楽だと思って感銘を受けたよ。その後、80年代初めの、エイドリアン・ブリューやトニー・レヴィン、ビル・ブルーフォードがいた時代のクリムゾンは大好きだった。ただ、それからの僕は自分の音楽に集中するようになったから、キング・クリムゾンが大きな影響だったとか、そういうことは言えないんだ。80年代のあの時代以外はね。

――私の世代だと、最初に体験したあなたの音楽はミッシング・パーソンズで、けっこう思い入れもあり、そういう人も日本に結構いるはずです。あなたにとっては異色のキャリアという印象ですが、ああいう方向性に進んだのはなぜだったのでしょう。

ザッパ・バンドの腕ききプレイヤーだった僕たち3人(※テリー、パトリック・オハーン、ウォーレン・ククルロ)が、ポップ・バンドになろうとしてみたのがミッシング・パーソンズだった。言い方を変えると、当時の僕たちはポスト・パンクや初期ニューウェーブの始まりの時代にいたから、ポピュラーな音楽をやりつつ、同時に音楽的なこともやりたかったんだ。僕たちは熟練したミュージシャンだから、アレンジの中に機微や繊細さを感じ取ってもらえると思う。カウンタープレイがたくさんあったり、いくつものパートが重なっていたり、シンセサイザーだと思うかもしれないところが実はギターだったり、その逆もあったりするしね。で、僕たちにも、僕たちなりの“15分間の名声”を手にしたけど、タフな時期でもあった。1980年にバンドを結成した時から1983年まで、すごく苦労したんだ。デヴィッド・ボウイやエルトン・ジョンを手掛けた偉大なプロデューサーのケン・スコットが、街にある全レコード会社にあたってみても、ことごとく「好きじゃない」と言われてしまった。だけど、地元のラジオ局に持っていって曲を流してもらったら、ナンバーワンになったんだ(笑)。そしてライブを始めて、まずは小さなクラブでのオープニングアクトから、小さなクラブでのヘッドライナーになって、どんどんハコが大きくなって、最終的にはサンタモニカ・シビック・オーディトリアムでソールドアウトのショウができた。キャピトル・レコーズと契約して、最初の年は大成功、そこから急激に落ちていった(笑)。それでも、誇りに思えるアルバムを3枚作って、当時の自分たちにできるベストを尽くしたよ。

テリー・ボジオ

■大事なのは自信を持つこと、自由であること。そして自己批判しないこと
 

――世に優れたドラマーはたくさんいますが、「どんなジャンルの音楽でも呼ばれたらプロフェッショナルに叩きこなしてしまうタイプ」と、「ジャズやプログ・ロックなど特定のジャンルにおいて自らの表現スタイルとテクニックをひたすら追求していくタイプ」の、主に2つに分けられるのではないかと思っています。そんな中、あなたはそのどちらにも偏らず、バランスよくキャリアを重ねてきた印象を受けるのですが、自分が特異なタイプのドラマーだと意識していますか?

うん、経済的な助けにはなっていないけどね(笑)。僕がよく言うのは「自分には芸術的なアート・マインドと、技術的なスキル・マインドがある」ってこと。音楽業界では普通、お金を払ってるプロデューサーかアーティストにコントロール権があるから、たとえ同意できないことがあっても、彼らの求めるようにやるしかない。そのために呼ばれてお金をもらってるわけだからね。「わかった、望みどおりにプレイするよ」っていう、それが僕のスキル・マインドだ。その一方でアート・マインドもあって、僕はオスティナート(反復)をベースにしたソロのドラムワークを開発した。さらに、ドラムで明確にメロディを奏でる方法も編み出した。それは他に誰もやっていないことなんだけど、後に続く人も誰もいないんだよ(笑)。僕が一生懸命新しいレベルまで持っていったのに、現代のドラマーでそれをやる人間はひとりもいないっていう。僕のオスティナートのグルーヴをいくつか取り入れて、自分のソロで使ってる人はいるかもしれないけど、そこまでだ。それをモノにしてる人はいないと思う。

――その、ソロ・ドラムのパフォーマンスや『コンポーザー・シリーズ』の曲は、どのように書いているのでしょう? 作曲においてはインプロビゼーションの要素も多いのですか?

すべてがインプロビゼーションと言ってもいいくらいだ。ただ、まったく何も知らずにはできないよね。リズム、メロディ、ハーモニー、ダイナミクス、オーケストレーションっていう音楽の五要素や、ある程度の基礎知識はなきゃいけない。すでに基礎知識が備わっているからこそ、ドラムセットを即興でいじくりまわすことによってマジカルなものが生まれてくるんだ。そうやって、アイデアを紙に書き留める時もあるし、ピアノから始めてデジタルに記録する時もある。他に、サウンドを聴きながらひらめくケースもあって、このサウンドを聴くとこういうふうに即興で叩きたくなるとか、そういうところから曲を作っていくこともあるね。だから、思い付く限りのあらゆることを試していると言えるだろう。フルートもちょっと吹けるから、ひとりでフルートを録音して取っておくこともあるんだ。そうやって作った音を、何に使うかは決めずにとりあえず溜めておく。それらを曲作りのときに探して、フルートのパートを見つけ、合わせてやってみると魔法のようにいいものが生まれたりするんだよ。エディットすら必要なく、新しく作ったものを合わせただけで曲が出来上がるなんてこともある。常に実験している感じで、インプロビゼーションの精神と同じなんだ。そんな時助けになるのは、ストラヴィンスキーなんだ。20世紀の偉大な作曲家で、僕は最高だと思う。彼がよく言っていたのは、アクティブなディレクテーションによって作曲するということ。楽しみや喜びを見出すことによって曲を作るという意味で、つまり「自分が好きなものを楽しみながらやる」ってことなんだ。あれだけの巨匠が、楽しんでやっていたわけ。音の楽しみを追っていくと、どんどん次につながっていく。すごく直感的なプロセスで、言葉ではうまく説明できないけど、それを信用して従うことを学んだんだ。大事なのは自信を持つこと、そして自由であること。そして自己批判しないこと。「これは自分のためにやってるんだから、うまくいかなかったら誰にも見せなければいい」と思うくらいでいい。でも今のところ僕の場合は、作ったものを他人に聴かせたいと思うんだよね。大抵うまくいってると思えるからさ。

――近年もソロ作品を発表してきていますよね。今後のリリース計画は?

2015年に『コンポーザー・シリーズ』という4枚組の作品を出したし、もっと最近では、去年『Reality』っていうタイトルのソロ・プロジェクトもリリースした。1991年にひとりでやったドラムの音源があって、何十年も経ってから、ようやくリリースされたんだ。それも誇りに思ってる。ジェフ・ベックとやっていた時代からPolytownに進んで、自分のソロ・ドラミングを開発していく間の、作品を出していない時期にあたる、ミッシングリンクみたいな作品というか。それから、15曲くらい集めた新しい作品集を予定してる。こちらはクラシカルだったりテクノだったり、とてもユニークなアフリカン・ドラミングや、サンプルに乗せた面白い内容で、『Individuation』っていうタイトルなんだ。意味は「内側を見つめて、本当の自分を見つけ出す」ということ、それを表に出して人と分かち合うっていうことだ。そうすることで唯一無二の人間になれる。誰かの真似をしようとするんじゃなくて、自分の内面を深く探っていって、ユニークで美しいものを見つけようとするっていうね。そして見つけたものを、努力して形にして、人と分かち合えるものにしていくんだ。

――クラシック、ジャズ、ロック、ポップ……なんでも叩いてしまうあなたの「コアにある音楽」と呼べるものはなんでしょう?

それは説明するのが難しい。というのも、たとえば60年代後半から70年代初めのマイルス・デイヴィスや、その頃に出てきたウェザー・リポートとか、そういう人たちは即興演奏もしてたけど、クラシカルな訓練も受けていた驚異的なテクニシャンだった。そして経験を積んでいたから、自分のテクニックを見せびらかしたりしなかった。自然に出てくるものとして、音楽に引き上げられ、ものすごく速く弾けたりするんだ。そして彼らがイミテーションのバンドと違うのは、常に新しい、驚かせる音楽をやってのけていたこと。それこそが、僕がやりたい音楽だし、実際にやってきたと思う。ソロ・プロジェクト、ボジオ・レヴィン・スティーヴンス、Polytown、トニー・ハイマスとやったザ・ロンリー・ベアーズ、そういうバンドでは、自己表現ができて、自分で面白いと思えるものを作曲できた。中でも最高だったのは、トニー・レヴィンとアラン・ホールズワースとパット・マステロットと一緒にやった時で、あれはドリーム・バンドだったね。こうするべきだとか指示する人は誰もいないし、ただ一緒に即興演奏しただけで、それぞれが自分のやりたいようにできて、まさに夢のようなバンドだった。自由で、お互いの意見を尊重し合えるっていう意味でもね。僕にとって「いいバンド」の定義とは、メンバー全員のアイデアを無条件で受け入れ、そうやって素晴らしい音楽が生まれるようなバンドなんだ。

取材・文=鈴木喜之

通訳・翻訳=網田有紀子

撮影=Terunobu Ohata / ©︎terrybozzio.com

※インタビュー後編はこちらから→ http://spice.eplus.jp/articles/272572

書籍情報

『レジェンダリー・ドラマー 特集 テリー・ボジオ』
シンコーミュージック・エンタテイメント刊
発売日:2020年12月中旬(予定)
判型:A4版
総頁数:144頁(予定)
価格:¥2,500 + 税(予定)
1冊まるごとテリー・ボジオを特集。自身のキャリアを語り下ろした最新インタビューや使用機材紹介、奏法解説、ディスコグラフィなどをテリー本人の監修で掲載する決定版。
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