【特別コラム】マドンナのデビュー秘話と、彼女が作った「見せる音楽」の時代
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マドンナ
マドンナ来日に寄せて
たった1つのヒット曲が後に音楽業界を変える事になる。
1984年12月、マドンナの「ライク・ア・ヴァージン」がビルボード・シングル・チャートの1位を獲得した。今からおよそ30年少し前の出来事だ。
当時マドンナはサイアー・レコードに所属していた。サイアー・レコードはワーナー・ブラザーズ・レコードに買収されていたが、社長のセイモア・スタインは業界の有名人だった。サイアー・レコードはインディーズとしてスタートし、契約するアーティストはイギリスのアンダー・グラウンドなロック・アーティストやグループ。マドンナのような女性アーティストは全くいなかった。それ故、音楽業界関係者はセイモア・スタインがマドンナと契約した事を不思議に思った。セイモア・スタインが女性歌手を分かるわけがないという事で。
19歳のマイケル・ローゼンブラットがサイアー・レコードのメッセンジャー・ボーイとして雇われ、ロサンゼルスからニューヨークに移る。彼の本当にやりたい仕事は制作(A&R)マンだった。毎夜遅くまで、いい新人がいないかとニューヨークのクラブ回りをしていた。ある夜、知り合いのDJが出ているクラブ「ダンステリア」に行ったとき、そこのDJブースに若い女の子が入り込んだ。マイケルは彼女に声をかけた。彼女はデモ・テープを持っていて、レコード・デビューをしたがっていた。マイケルは、デモを持って知り合いのDJとサイアー・レコードのオフィスに翌月曜日の午後に来るようにと約束した。土曜日の深夜の事だった。
月曜日、彼女はやってきた。デモを聴いたが、たいしたものではなかった。しかしマイケル・ローゼンブラットは彼女の醸し出す雰囲気に魅了された。マイケルは彼女に2つの質問に答えて欲しいと頼んだ。そうしたらこの場で契約が出来ると。1つはマドンナが本名かどうか、そしてもう一つは入院中のボスであるセイモア・スタインと面談が出来るかという事だった。翌日マドンナはパスポートを持って来た。そこにはマドンナ・ルイーズ・ヴェロニカ・チッコーネと記されていた。父はイタリアからの移民だった。マイケルがマドンナと契約したいと言った時、ボスのセイモアはマドンナがどのくらいビッグになるのかとマイケルに尋ねた。マイケルは「オリビア・ニュートン・ジョンよりはビッグになります」と答えた。マドンナは入院中のセイモア・スタインと病院で会い、契約を祝福された。
1983年7月、マドンナのデビュー・アルバム「バーニング・アップ」が発売された。マドンナはミシガン大学でダンスを学んでおり、マドンナの夢は、自分で曲を書き、自分でプロデュースをし、ディスコでヒットして、バックバンドやダンサーを抱えてコンサート・ツアーに出る事だった。アルバムはビルボード・アルバム・チャートの最高位8位になったがシングル・ヒットは出なかった。
今までの女性アーティストには3つのパターンがあった。プロの作曲家が書いた歌をうたって、ヒットしたらレコードを売る為にTVの番組で歌うパターン。2つめは自分で曲を書いて歌うシンガー・ソングライター――キャロル・キングやジョニ・ミッチェルだ。間違ってもステージでは踊らない。そして3つめはロック・グループでリード・ボーカルを担当する。フリートウッド・マックのスティーヴィー・ニックスのように。しかしステージではリーダーのミック・フリートウッドの指示に従わなければならない。マドンナが目指したのは、レコードを作る事も、ステージで歌う事も、そして踊る舞台のステージを作る事も全部自分でやる事だった。
マドンナがデビュー・アルバムを発売した年の前年、1982年の暮れ、マイケル・ジャクソンが全世界で空前の大ヒットとなるアルバム「スリラー」を発売した。年が明けて関係者は驚いた。マイケル・ジャクソンがジャクソン5の時代から世話になったマネージャーのフレディー・デマンをクビにしたのだ。1983年はスリラーを大々的に売り出す年だった。この話を聞いて、プロデューサーのクインシー・ジョーンズはパニクった。マイケルの弁護士ジョン・ブランカに問い詰めるとジョン・ブランカは、これからフレディー・デマンの仕事はマイケル・ジャクソン本人がやる事になるとクインシー・ジョーンズに答えた。
前述のセイモア・スタインにレコードを制作する能力や経験は無かった。彼の仕事は、イギリスで生まれた大ヒットはしないが良質のロックを、アメリカに紹介する事だった。レコードで成功する為には優秀なスタッフのチーム編成が必要だ。アメリカでは歌い手の曲をレコード会社のA&Rマンが決める。日本でいう制作ディレクターはアメリカでA&R(Artist and Repertoire)と呼ばれる。アーティスト・アンド・レパートリーだが、業界人はフランス語読みで、普通アーティスト・アンド・レパトアという。役目はヒットしそうなアーティストを見つけ出し、そのアーティストにあったレパートリー(曲目)を、特にヒットになりそうな曲を探してくる事だ。大ヒットする新曲はそう簡単に出来るものではない。
作家を抱える音楽出版社はレコード会社に売り込む。逆にレコード会社は音楽出版社に、「いい曲」はないかと聞く。サイアー・レコードに制作能力が無いので、親会社のワーナー・ブラザーズ・レコードのマイケル・オースティンがA&Rになった。音楽出版社の紹介で、ビリー・スタインバーグとトム・ケリーという2人の男性作家が4~5曲のデモ・テープを持ってマイケルの自宅を訪れた。マイケルはその中から、「ライク・ア・ヴァージン」という曲が気に入った。すぐマドンナに聴かせるとマドンナは興奮した。しかしセカンド・アルバムに起用されたプロデューサーのナイル・ロジャースは、曲にインパクトのあるサビがないと難色を示した。
デビュー・アルバムのプロデューサーはジャズ畑出身のレジー・ルーカスで、良質のアルバムにはなったが、ヒット曲が生まれなかった。その為、ワーナー・ブラザース・レコードはセカンド・アルバムにナイル・ロジャースをプロデューサーに起用したのである。ナイル・ロジャースはマドンナが欲しがる「ディスコ・ヒット」を熟知していた。1978年の暮れ、ナイル・ロジャースがリーダーだったディスコ・ユニットのシックは、「おしゃれフリーク」でビルボード・シングル・チャートの1位になった。ユニットを解散後、プロデューサー業に専念する。そしてマドンナのデビュー・アルバム発売直前に、デヴィッド・ボウイの「レッツ・ダンス」をプロデースし、文字通りダンスを踊るディスコ・ソングとして空前の大ヒットとなる。そしてナイル・ロジャースはサビが足りない部分、「ライク・ア・ヴァージン」に仕掛けを作った。マイケル・ジャクソンで大ヒットした「ビリー・ジーン」のベース・ラインをいただく事だった。ヴァージン・ツアーのセット・リスト(演奏曲目)に「Like a Virgin(contains excerpts from “Billie Jean”)」と記されている。excerpt fromの意味は「引用」だ。
アルバム・ジャケットはファッション誌のカメラマンだったスティーヴン・マイゼルを起用した。胸を強調した下着姿のマドンナは、これからセックス・シンボルと呼ばれる事になる――マリリン・モンローのように。マドンナは、レディー・ガガや最近のマイリー・サイラスがやっている事を30年前にやっていた。マネージャーのフレディ・デマンはマイケル・ジャクソンでの経験をマドンナに適用する。歌って踊れて、派手なステージ、そしてマイケルには無い女の武器もある。
『ライク・ア・ヴァージン・ツアー』は今まで女性の誰もがなしえなかったステージを作った。その後のマライア・キャリー、ブリトニー・スピアーズ、クリスティーナ・アギレラ、最近ではケイティ・ペリー、レディー・ガガ、セレナ・ゴメスやマイリー・サイラスがマドンナを信奉している。レディー・ガガのデビュー・シングルで全米1位になった曲はそのものズバリの「ジャスト・ダンス」だった。そして彼女たちもまた過度なセックス・アピールのステージを作る。
「ライク・ア・ヴァージン」のヒットにはMTVの影響も大きかった。MTVは1981年の8月にスタートした音楽ビデオ専門チャンネルで、マイケル・ジャクソンのスリラーのビデオは多くの若者音楽ファンを魅了していた。時代背景としては、「見せる音楽」の台頭である。マドンナはまさしく見せる女性アーティストの先駆者となったのだ。
そしてマドンナの凄さは体力にもある。今57歳だが、セリーヌ・ディオンやマライア・キャリーのようなラスベガスでの長期公演は行わない。毎回全世界を飛び回る。
文=高橋裕二
2016年2月13日(土)さいたまスーパーアリーナ
開場 17:30 / 開演19:00
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SS席:¥50,000 ※限定グッズ付 / S席:¥20,000 / A席:¥15,000 / B席:¥9,000(全席指定・税込)
※未就学児入場不可/枚数制限4枚
【一般発売日】
10月10日(土)10:00
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