東日本大震災6年後の夢と現実──福島県立いわき総合高校『ありのまままーち』

2018.1.2
レポート
舞台

福島県立いわき総合高校『ありのまままーち』(いわき総合高校演劇部・齋藤夏菜子作) 撮影/大倉英揮(黒目写真館)


東日本大震災以後を見つめる

 福島県立いわき総合高校の舞台を見るようになって、約6年になろうとしている。

 きっかけは東日本大震災だった。2011年12月、アトリエヘリコプターと筑波大学附属駒場中・高等高校で上演された『Final Fantasy for Ⅺ.Ⅲ.MMⅪ(いわき総合高校演劇部原案、いしいみちこ構成・脚本、長瀬有紀子演出)が評判だったので、翌年の5月に文部科学省講堂で上演された舞台を見に行ったのが始まりである。

 観客席には鳩山元首相をはじめ、当時の政権与党だった民主党の大臣が数人見守るなか、いわき総合高校の生徒のひとりは「福島の復興なくして、日本の再生なし、なんちゃって」と発言した。そこに被災地の高校生たちの元気のよさと、その言葉の裏に込められたしらじらしさへの異議申し立てぶりに驚いた。なにより、自分たちが置かれている状況を舞台化することで、いまの福島を表現せずにはおられない、どうしようもない切実さを感じた。演劇という手段で現状をかたちにすることで、ようやくバランスを保っている現実が伝わってきた。

『ありのまままーち』における演劇の夢

 『ありのまままーち』は、準備運動の後、これから演劇部がどんな舞台に取り組むかについて、部員たちから希望を募るシーンから始まる。

 ある生徒は、あらすじだけで展開する高速版『ハムレット』を提案し、また、ある生徒は、歌舞伎と狂言を融合させた古典芸能、さらには、高校生活をミュージカル化することを提案する生徒まで現れる。ハイスクール・ミュージカルとして、じゃがりこで作られたツリーや、部員たちで表現した人間バースティ・ケーキで、仲間の誕生日を祝おうとするのを見るのは楽しい。

 だが、それらの演技を見ていた2年生の部員が、スマートフォンを持ったまま、観客席から舞台へ上がってくることをきっかけに、少し様子が変わってくる。舞台の外部から登場することに注意してほしい。彼女は舞台上で、スマホで写真を撮りつづけながら、自分が住んでいる街について紹介していく。

 その街には、大きなスポーツセンターがあり、その近くにはバス停、精米機の自動販売機、卵の自動販売機がある。それから自宅を紹介し、最後には自分の部屋の様子まで詳細に伝える。つまり、自分が暮らしている街と生活空間について、順を追って説明していくのだ。スポーツセンターやバス停だけでなく、自動販売機さえも、生徒たちが身体で表現するのは楽しい。それらは建物であり、無機物で作られた機械なのだが、人によって表現されることにより、まるで生きているもののようにも感じられた。

いわき総合高校における生徒たちの日常

 次に、高校生がおくる毎日の学校生活が紹介される。朝の掃除、世界史、英語、数学などの授業、放課後の部活動などである。

 そして、2年生の男子生徒の人間関係をめぐるエピソードがあり、3年生の就職活動の面接練習風景になる。観光業への就職を希望する女子生徒のために、演劇部の3年生全員が「3年間の高校生活で得たこと」を語り合うのだ。いささか優等生的であるものの、どれもが心に滲みるいい言葉だった。とてもよいので列記してみると、人を信頼する勇気、自分を愛するということ、自分から人に歩み寄る大切さ、自分を大切にしてほしいと思うなら自分から人を大切にすること、人のために成長することである。

 これらは3年間の高校生活でそれぞれの部員が得たものだろう。このように、演劇のなかに、実際の体験が部分的に挿入されていることも『ありのまままーち』の特色と言える。ここにはいわき総合高校演劇部の現在があるのだ。

6年前の出来事との再会

 雑談するうちに、ふとしたきっかけで「わたしのお父さん」について、演劇部員たちが語りはじめた。ある男子生徒は、サッカーのコーチをしていた父親の思い出を語った。だが、いまはその父親はいないという。単身赴任、別居など、さまざまな憶測が広がるなか、男子生徒の「6年前からいなくなった」という発言で、時間は一気に東日本大震災に引き戻される。遺影はあるので、顔は思い出せるが、どうしても声が思い出せないという。

 演劇部員たちは、全員で父親の声を思い出すために、無対象の演技でサッカーボールをパスしあったり、亡くなった父に向けて話しかけたりする。だが、その声は思い出すことができない。

 そうするうちに、先ほど、観客席から舞台にあがり、スマホで写真を撮りながら、自分が住んでいる街について話してくれた2年生の女子生徒が、舞台上手から、白い防護服を着て、再び登場する。

 福島第一原子力発電所の事故による放射線量の高いところは、避難指示区域になっており、国や自治体が15歳未満の立ち入りを原則禁止している。子供たちは15歳になると、自分でその区域に入るか、入らないかを決めることができる。先ほど、自分たちが住んでいる街を紹介してくれた高校2年の女子生徒は、避難指示区域に入ることを選択し、自分が住んでいた街、暮らしていた家がどうなっているかを見に行くことに決める。

 そして、白い防護服を着て、先ほど紹介してくれた大きなスポーツセンター、バス停、精米機と卵の自動販売機、自宅について、スマホで写真を撮りながら、6年間のうちに変わってしまった姿を見学し、記録していく。自宅の部屋は植物が繁って温室のようになっていた。そして、最後に自分の部屋へたどり着くが、そこはすでに屋根が落ちてしまっていて、外からの光が射している。床は腐食しており、いまにも抜け落ちてしまいそうだ。そんな現状を見た部員たちの「幻想的」という感想が聞こえる。だが、本人は落ち込む表情を見せることなく、淡々と現状を報告していく。6年前に自分たちが生活していた場所の現実を受けとめながら、それを物語の出来事のように語る姿が印象的だった。

 最後に、演劇部全員で「名前鬼」をするうちに暗転。暗闇のなかで、名前を呼び合い、はしゃぐ高校生たちの大声だけが劇場内に響きわたった。

福島県立いわき総合高校『ありのまままーち』(いわき総合高校演劇部・齋藤夏菜子作) 撮影/大倉英揮(黒目写真館)

『ありのまままーち』の現実

 終演後、高校生たちは観客席に向かって、丁寧にお辞儀をして、舞台から去っていく。 

 さっきまで舞台上で展開されていた出来事が、まるで夢のように消えてしまう。だが、舞台にはたくさんの脱ぎ捨てられたジャージの上着だけが残されている。1年生は赤、2年生は青、3年生は水色のジャージである。ジャージの上着だけが、そこで上演された舞台の証拠として、そこにある。これがわたしには、6年前に福島で営まれていた生活の跡と重なって見えた。

 演劇は目に見えないものを、想像力によって見せることができる。ここにあるのは等身大の福島に生きる高校生の姿である。そして避難指示区域で起きてしまった現実である。『ありのまままーち』は、ありのままの「まち」を紹介しつつ、それをマーチに合わせて行進するように前に向かっていく高校生たちの記録だった。

 高校はふつうの場合は3年で卒業だから、『Final Fantasy for Ⅺ.Ⅲ.MMⅪ』で福島の現在を見せてくれた高校生は、今回の『ありのまままーち』にはひとりもいないはずだ。だが、いわき総合演劇部には、現実を見つめて、さらに前進していくたくましい遺伝子が脈々と引き継がれていた。「福島の復興なくして、日本の再生なし、なんちゃって」という、「なんちゃって」の精神は、そこに息づいていた。福島がまだ復興途中であるということは、日本は再生途中であるということだ。まだまだこれからであり、現実を見つめることから始めるしかないのだ。

福島県立いわき総合高校『ありのまままーち』(いわき総合高校演劇部・齋藤夏菜子作) 撮影/大倉英揮(黒目写真館)

公演記録
〈高校演劇サミット2017〉福島県立いわき総合高校『ありのまままーち』
■原案:いわき総合高校演劇部
■構成・脚本:齋藤夏菜子
■日時:2017年12月28日(木)〜30日(土)
■会場:こまばアゴラ劇場
■出演:木下爽香、瀬戸智哉、青山千乃、鵜沼愛海、松本有生、岩本亜純、市村まどか、須藤颯太、今井楓、西村麻奈、蛭田真衣、吉田玲那、佐藤るな、富岡美羽、永山祐衣、松本ひな子、渡邊彩加、香西守、鈴木歩月、渡邊勇太、石山遥菜、齋藤永遠、水庭源八、遠藤未悠、片寄恵美、鈴木捺知、渡邉佑子