『CREATORS INTERVIEW vol.8 小倉しんこう』――お寺と作家活動の兼業はできる限り続けていきたい
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ソニー・ミュージックパブリッシング(通称:SMP)による作詞家・作曲家のロングインタビュー企画『CREATORS INTERVIEW』。第8回目は、JUJUやDISH//、Hey!Say!JUMP、西野カナなど、様々なアーティストの楽曲を手掛ける小倉しんこうが登場。音楽的ルーツやDTMとの出会い、「やさしさで溢れるように」にまつわるエピソード、そして家業であるお寺との兼業に対する思いなどをお聞きしました。
人生で後にも先にもないほどの衝撃を受けたDTMとの出会い
――お寺の息子として生まれた小倉さんがどんな音楽を聴いて育ったのかに興味があります。
うちの住職(父親)は若い頃にフォークギターをやっていて、群馬のフォークコンテストで優勝したりしていたんですけど、デビューの話を断って群馬に戻って来た人だったんです。だから、幼稚園の頃は父親が弾き語りで童謡を歌ってくれたりしていて、ギターのケースに入って遊んだり、開放弦の音だけが出るハーモニカみたいなものでチューニングを覚えたりしていました。あと、父は結婚式の伴奏のバイトもやっていたようで、ヤマハのでかいエレクトーンがあったんです。イコライザーとか音色切り替えのタブをいじって遊んでいたのが音楽の原体験ですね。
――音楽にあふれた家庭だったんですね。楽器を始めたのは?
小学生のときにちょっと変わった音楽の先生がいて、生徒を無視してちょっとぶっ飛んだアレンジでピアノを弾いていたんです。そこで、ピアノはこんなにかっこいいんだと思って、小学校5年生のときにピアノを習い始めました。そのあとがちょっと漫画みたいな話で、ピアノのレッスンは地下でやっていたんですけど、レッスンが終わって階段を登っていたら、そのピアノ教室の息子さんの部屋のドアが空いていて。最初は何をやっているのか分からなかったんですけど、MacとEOSでDTMをやっていたんですね。ドラムを入れて、ベースを入れて、キーボードを入れて、槇原敬之の「どんなときも。」の伴奏を作っていたんです。その音を重ねていく作業を見ているうちに、荷物を置きっ放しにして部屋に入って行っちゃって。「こんなに楽しい作業があるんだ」って、本当に人生で後にも先にもないくらいの衝撃を受けました。それが小学校6年生だったと思うんですけど、機材を買えるようなお金が溜まったら絶対にDTMを始めようって、決意した出来事でした。
――ご自身の音楽的ルーツというと?
小学生のときのファミコンですね。当時、「目が悪くなるから」って買ってもらえなくて、友達の家に行ってファミコンをやっていたんですけど、会話に混ざれないんですよ。でも、仲間外れになるのは嫌なので、友達の家に行って、マリオやクリボーをドット単位で覚えて絵で書けるようにして。ゲームを知らなくても、キャラクターを絵で書けると会話に混ざれるので、どうにか友達とのコミュニケーションを保っている感じが続きまして。それで、悲しいんですけど、とうとう自分で戦闘や町の絵をノートに書いて、コマンドを掘った鉛筆を転がしながら遊ぶようになって(笑)。そこにはBGMがないじゃないですか。だから、フィールドや戦闘の音をピアニカで真似事でつけながら遊んでいたら、自然と耳コピや作曲ができるようになりました。そのうち、友達の家でゲームをやっても、ゲームミュージックばっかり気になるようになっちゃって。
――ゲームじゃなく、ゲームミュージックに興味が向くようになったんですね。
そうなんです。戦闘のミュージックがかっこいいとか、だんだんそっちに視点が移動しちゃって。小学生のときは『ドラクエ』とか『FF』をコピーしていたんですけど、ゲームミュージック好きを決定的にしたのがプレステでした。当時、テクノを聴くよりも先に、『リッジレーサー』でデトロイトテクノを知っちゃったので、「こんなかっこいい曲あるんだ!」って感動したんです。だから、僕にとってのヒーローは、大久保博さん、植松伸夫さん、近藤浩治さんなんですよね。
――『リッジレーサー』、『FFシリーズ』、『スーパーマリオ』や『ゼルダシリーズ』の方々。
この三者が僕の音楽の礎になっています。
――ゲームミュージックとDTMに出会った小学生時代を終えて。
中学校では、DTMを始めたい熱をくすぶらせたまま、吹奏楽部でトロンボーンをやっていて、高校になって、やっとDTMのセットを手に入れました。PC-9821とローランドのSC-88Pro。これでやっと作れるって興奮して。理論は分からなかったんですけど、DTMをやっている友達と情報交換しながら、オリジナルのゲームミュージックを作ったりしていました。あと、当時、打ち込みが上手くなりたい熱がすごかったので、毎週TSUTAYAでCDを3枚借りて、全部耳コピしていました。当時、流行っていたユーロビートとかマハラジャナイトも借りて、ハイハットの位置とかもノートに書いて。そんなわけで、シーケンサーでの打ち込みは、高校時代の3年間、どうにか自力で勉強した感じです。
――ゲームミュージックを作る人になりたかった?
高校時代はそうでしたね。大久保さんの影響で、ビックビーツとかブレイクビーツが大好きになったので、いわゆるダンスミュージックというか、クラブミュージックがやりたかったんですよ。歌ものにはあまり興味がなかったので、ファットボーイ・スリムみたいなクラブミュージックをずっと作っていました。ただ、今でいう陰キャラで、一人で家で作っているのが基本で、クラスにいるバンドマンには混ざれずに、「俺はあいつらより音楽上手いんだ」と思っているだけっていう暗いキャラでした。
地元のクラブにDJとして出演したことが楽曲提供のきっかけに
――そして、大学進学と同時に上京します。
最初はお坊さんの寮にいて、楽器の持ち込みが禁止だったんです。裸足に下駄で、頭はツルツル。朝5時半起きっていう生活が2年続いて。3年目までいたら在学中にお坊さんの資格をもらえるんですけど、耐えられなくなって、3年目に寮を出ました。それからすぐに髪を伸ばせるだけ伸ばして金髪にして。当時、たまたま聴いたKemuriでスカコアが好きになっちゃって、人と音楽をやってみたいと思って、オリジナルのスカコアバンドを始めたら、3年目の後半には四ツ谷や下北でライブがやれるようになって。調子に乗って活動を広げて、今度は女性ボーカルのプロデュースを始めて、大学4年生のときに女の子とのユニットのデモソングを作ってレコード会社に送ったら、「作った人間に会いたい」って連絡をもらったんですね。でも、曲を量産する自信もなかったので、ビビって連絡できなかったんです。群馬に帰ってお寺を継がないといけないっていう思いもあったので、バンドもユニットも解散して、何とも言えない悶々とした気持ちのままで群馬に帰って……。
――そのまま音楽プロデューサーになるという選択肢はなかった?
声がかかったのは嬉しかったんですけど、そんな上手くいくわけもないし、都内に残れる感じもなかったんですよね。だから、プロからちょっと興味を持ってもらえただけでもいい思い出ができたなと思って、群馬に帰ったんですけど、当時、病気だった母親が亡くなったりして、メンタル的な打撃もあり、引きこもりのようになってしまったんです。でも、何かやらないと崩れちゃうので、毎日DTMで曲だけは作っていて。高校時代みたいにCDを借りてきてコピーして、自分の楽曲のクオリティを上げる作業を半年くらい続けていたら、父親に心配されて、「寺を継ぐ気があるのか、音楽をやりたいのかはっきりしろ」って言われて。それで、父親の知り合いで、クラブでオーガナイザーをやっているDJと会うことになったんです。
――外に出るきっかけを与えたかったんでしょうね。
そうですね。父親としては、誰かと話して悩みが解決すればっていう思いがあったと思います。そして、その人に自分の曲を聴かせたら、「クラブでやってみろ」って言われて。それまではクラブに行ったことがなかったんですけど、生まれて初めて、地元のクラブで15分のショーケースでDJをやることになり、パソコンを持って行って、クラブミュージックに合わせながらピアノを弾くっていうスタンスでやったら、お客さんが盛り上がってくれて、いろんなところから声をかけてもらうようになったんです。そのうちに、群馬のヒップホップ周辺の人たちと知り合いになって、ラップのトラックを作るようになりました。それが自分の楽曲を売り始めた最初。24か25歳の頃です。
――すごい人生ですね。ゲームミュージック、バンドマン、プロデューサーときて、この時点では群馬のラッパーに引っ張りだこのトラックメイカーになってます。
でも、お小遣いが溜まってきて機材が強化できていくと同時に、アレンジが行き詰まって来たんですよね。専門的なコードとか理論を学んだことがなかったので。そこで、子どもの頃から行っていた楽器屋さんのアレンジ教室に通い始めたんですけど、すげえいい歌詞と曲を書く人に出会ったんです。彼は自分のバンドを解散したばかりだったので、ユニットを組もうっていう話になりました。僕は消極的で自分からは動かない性格だったんですけど、彼はプロ志向で能動的なタイプで、作った曲をあちこちのオーディションに送ったり、ネットにアップしたりしていたんですよ。そのネット上にあげた音源を見つけて地元のライブを観にきてくれたのが、今の事務所の方だったんです。最初はユニットでデビューしないかっていう話で、二人で楽曲を作り溜めてアーティストデビューを目指す間、コンペに参加してみないかって誘ってもらって。二人で曲を作ったりしたんですけど、途中でその彼と上手くいかなくなってきちゃって、乱暴な形で解散になっちゃったんです。
――原因はなんだったんですか?
自分はプロになるっていう強い意志を持ってやっていたわけではないので、温度差が出ちゃったんですよね。でも、音楽は真剣にやっていたので、あまりにも自分を追い込みすぎて、音楽が嫌いになっちゃって。解散した後は楽器を見るのも嫌になっちゃって、部屋に閉じこもってずーっとゲームをやっていました。ずっと引きこもり人生みたいなんですけど(苦笑)。
――(笑)。二度目の引きこもりですね。その時間が大切な気もしますが、その間はどうしてたんですか?
音楽を辞めて1年くらいは、事務所の人とも連絡を取りませんでした。でも、そんな生活を送っていたら、好きなことを急にやめたので、だんだんと気持ち悪くなってきちゃって。精神的な傷も癒えてきたので、ちょっと音楽やろうかなって思い始めました。でも、どこから手をつけていいか分からなかったんですよね。それまでは自分が好きな曲を作っているだけで楽しかったんですけど、ライブを経験したことで、誰かに聴いてもらって喜んでもらわないと面白くなくなってしまったんです。だから、叶うかどうか分からないけど、音楽をやりたいっていう意思表示をして何かできることがあるか聞いてみようと思って、事務所に電話したら快く受け入れてくれて、コンペの仕事を紹介してくれました。それが2007年ですね。
半年間の修行後、お寺と作家活動の兼業を決意
ホールドがかかったのは、YANAGIMANさんがプロデュースしていたMissing Link「ココナッツBoy」ですね。配信限定で発売されたんですけど、決まったときはすごく喜びました。自分の曲はプロで通用するんだと思って。そんなこんなで、作家活動がスタートしました。
――その時点で音楽でやっていくっていう気持ちは固まってます?
「いつか寺を継がなきゃいけないんだろうな」っていうのがずっと頭には引っかかっていました。ちょっとズルかったんですよ。音楽でコケても仕事はあるし、音楽一本に絞る根性もない。お寺の仕事をたまに手伝いながら、夜は曲を作る。とにかく、今は楽しいからこれをやっているっていう感じで、最初の2~3年はやっていました。
――作家デビューから2年目でJUJU「やさしさで溢れるように」(2009年12月発売)がヒットしてます。
今、考えると早過ぎたんです。結構、毒だったんですよ。嬉しかったし、大事な曲であることには変わりはないんですけど、今、振り返ると、自分が対応できる前に評価が上がってしまった感じがあったんです。それまで、個人やユニットではアレンジしかやっていなかったので、一人で作詞と作曲までやるのは作家活動を始めてからなんですね。自分は何が作りたいのか、どういうものが作れるのかも見えない状態で始めたのに、自分のブログにリアクションがたくさんきたし、テレビのあちこちで歌われていて。今、考えると、浮かれてちょっと調子に乗ったんですよ。技術が追いついていないのに売れちゃったので、急にプロになった感じがして。そのあと、「同じような曲を書いてください」っていうリクエストの波がきて、「『やさしさ~』のような曲をもう1回、もう1回」って言われるようにもなって。変な気概もあったし、自分はプロだ、みたいなプライドも急に出ちゃったんです。それまでは自分がプロになるだなんて考えたことなかったのに……。しかも、自己コピーは嫌だっていうこだわりもあって、「あの曲を超えるもっといいものを、もっといいものを」ってなったら、苦しくなってきちゃって。今でこそ言えるんですけど、ヒット曲って、個人の力だけじゃなくいろんな要素が必要じゃないですか。でも、それをどうにか自分で頑張って再現しようとして、苦しい時期が続きました。2009年から2010年、いや2011年くらいまでかな……。あの曲の呪縛がありました。
――2016年にはFlowerのカバーも映画主題歌としてヒットしましたし。
ありがたくて、めちゃめちゃ嬉しい反面、今の自分にとって存在が大きすぎる楽曲でもあって。喜びもくれるし、支えてもくれるし、時には苦しめられもする。作家活動を続けていく中で、これからもいろんな形で自分を応援してくれるような、本当に大切な楽曲です。
――同年に西野カナ「Deat…」もヒットしてますし、2010年にはしまじろうの「ソラソラ☆あおぞら」(歌唱/とよさきあき)も保育園や幼稚園で歌われてますしね。
そうなんですよ。YouTubeで幼稚園生がお遊戯会で歌っているのを観たときは嬉しかったですね。売り上げ枚数は1つの指標ではあるし、機材にも投資できるからめちゃめちゃ大事なんですけど、しまじろうには音楽をやっている意味を再認識させられた気がしました。「売れる曲を」っていう変な自意識が強くなりすぎた時期があったので、我に返らせてくれたというか、「音楽ってこういうためにあるんだ」っていうのを思い出させてくれる仕事でもありましたね。
――一方、小倉さんは12年に半年間、作家活動を休止して、お坊さんの修行に入ってます。修行から戻ってきての転機というと?
やっぱりDISH//かな。コンペがきっかけだったんですけど、波長が合って、書き下ろしの案件もいただけるようになりました。
――2013年から毎シングルに楽曲が起用されてますね。ボーカル&ギターの北村匠海くんは、インタビューで「小倉さんは僕らにとって大事な人だ」と言ってました。
ありがたいですね。僕のほうも感謝があります。それまでは一組のアーティストに継続的に複数の曲を書くことがなかったですし、コンセプトにも絡ませてもらうなどプロデューサー的なことも覚えさせてもらって、同じアーティストに連続で曲を書く大変さも知ったし、どんどんアーティストに合ったコンセプトの曲やメンバーのキャラクターに合ったセリフも考えられるようになった。DISH//に勉強させてもらったとしか言いようがないですね。
――今はお寺と作家活動の二足のわらじをどう考えてます?
続けていこうと思っています。修行から戻ってからは兼業を決めたんです。お坊さんは、年中行事など忙しいときは忙しいけど、暇なときは結構時間が取れるもので、お寺と音楽が並んだときは、お檀家さんがいるのでお寺を優先しますけど、それ以外に音楽を優先できる時間もいっぱいあるので、そういうバランスでやっていこうと思っています。その覚悟もあって、今年、境内内にスタジオを建設予定で。いつかそのスタジオを拠点に、小さい頃にテレビで観た『タモリの音楽は世界だ』のような、音楽の面白さを紹介する番組を発信できたら楽しいな、なんて妄想しています。
――住職になっても作家は続けていくんだっていうことですね。
そうですね。作家自体は疑いようもなく好きなことだし、作家っていう職業は自分の性に合っているので、将来的にもできる限りやり続けたいと思っています。ちなみに今年の一文字は<作>で、筆で書いて額に入れて飾ってあるんです。兼業を決めたので、作品数を増やしていこうっていうのが今年の目標です。
――最後に改めてルーツに戻りたいんですが。
飲み会では、「インスト書きたい」とか「ゲームミュージック書きたい」って、よく言っていますね(笑)。あと、僕は企画がはっきりしていればしているほど、モチベーションが上がるんですよ。例えば、「誰かを愛するラブソングを書いてください」って言われると、ちょっとオロッとするけど、設定や心情があったり絵がついていたり、縛りが強ければ強いほど、モチベーションが上がる傾向があるんです。自分がフロントに立ったりアーティストとして活動したりするよりも、絵や映像や企画、何かに音楽をつけるのが大好きなんです。だから、音楽的にというよりも、絵に音楽をつけるっていう原体験が強く残っているのかなって思いますね。
取材・文=永堀アツオ
2009年、JUJU、西野カナに提供した楽曲が次々にヒット。「やさしさで溢れるように」は徳永英明をはじめ、多くのアーティストにカバーされている。優しく華やかなメロディーが特徴的で、様々なジャンルに対応。
[オフィシャルサイト] http://www.oshinko-studio.jp/
[所属事務所ページ] https://smpj.jp/songwriters/shinquoogura/