『CREATORS INTERVIEW vol.9 千葉”naotyu-”直樹』 ――日々いろんなことをやる作家になるという選択枝も楽しい
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ソニー・ミュージックパブリッシング(通称:SMP)による作詞家・作曲家のロングインタビュー企画『CREATORS INTERVIEW』。第9回目は、アンティック-珈琲店-のサウンドプロデュースや分島花音の編曲、そしてゲーム『バンドやろうぜ!』から『グランツーリスモ6』まで、アーティストに限らず様々なジャンルの楽曲制作を手掛ける千葉”naotyu-”直樹が登場。ビートマニアファンから作家になった経緯、多岐にわたるジャンルの制作エピソード、そして今後の目標などをお聞きしました。
ビートマニアをきっかけに始めたDTMから作家の道へ
――千葉さんはスタッフからは「ナオチュー」と呼ばれてますよね。現在の作家名は、千葉“naotyu-”直樹名義となってますが、この名前の由来は?
“naotyu-”は同人やネット音楽をやっていた頃に使っていた名前で、元々は小学生の一時期のあだ名なんですけど、前の作家事務所のときは千葉直樹でやっていました。SMPに所属するまでは、趣味の同人音楽をやっている自分と、仕事をしている自分をあんまり合体させたくなかったというか、棲み分けていたんです。でも、SMPに入るタイミングで、めんどうくさい区別をやめて統一して、趣味と仕事のどちらに対しても「ここに自分がいます!」と主張していいかなと思ったのが1つですかね。もう1つは、本名を入れておくと、じいちゃんやばあちゃんが分かってくれるから。ハンドルネームだけだと、何をやっているか分からないので、本名を入れたっていうのもありますね(笑)。
――(笑)。では、まず、ハンドルネームの“naotyu-”として音楽活動を始めた経緯から聞かせてください。
中学生のときにBMS(BM98)っていう、パソコンの音楽ゲームがあったんですけど、オタク系の友達に誘われて自分も遊ぶようになったんです。そのうちに、今でも仲の良い同級生の1人が、映像やグラフィックを自分で作ってインターネットに公開したりし始めたんですけど、自分がピアノやエレクトーンをやっているのを知っていたので、そいつに「作れるんじゃない?」って言われて、「じゃあ作ってみようかな」っていう感じで、DTMを始めたのが最初のきっかけです。
――中学生のときにDTMで音楽制作を始めて。まだボカロが出る前ですよね。
そうですね。のちにボカロ作家になった友達はいっぱいいるんですけど、もっともっと小さな島だった頃ですね。時代的にはまだIDSNの頃で、mixiもなくて、今よりもDTMの人口は少なかったんですけど、それでもインターネットに自分のホームページを作って公開したら、知り合いが増えたんです。北海道出身なんですけど、東京とか名古屋とか遠くの友達が増えていって、高校生になると、同人音楽のイベントとかに出るようになりました。
――当時、もう音楽で生きていこうと決めてました?
高校1年の夏休みにバイトをしてお金を貯めて、自分のデスクトップのパソコンを買ってしまった時点で、もうある意味、学校生活は終わってしまいましたね(笑)。夜中に家でひたすらDTMをやって、学校では寝ていました。ただ、その時点では作家になりたいとか、アーティストになりたいっていうのはなく、とにかく作るのが楽しかったという感じでした。でも、東京の友達がいっぱい増えていたので、高校卒業後は上京して、何らかの音楽を作りたいなとは思っていました。
――高校卒業後、東京の音楽の専門学校に進学してますよね。
そうですね。そこで何かをするっていうよりは、東京でいろんなことを見てみたいなっていう気持ちで出てきました。
――そこで、友達と同じようにボカロに行かなかったのは?
性格がひねくれているんですよね(笑)。いまいち流行りのほうに行かないというか。もちろんいじったことはあるんですけど、同じところに居続けるのが自分的に許せなかったというか、ちょっと違うところに行ってみたいっていう、あまのじゃくな心が常にあって。同人音楽が大きくなっていった時代……ボカロが始まる頃に、ちょっと違うほうに行ってみたいなという思いがあって、19歳くらいの頃にそっちをスパッとやめて、クラブミュージックをやり始めました。高校生のとき、時代的にはサイバートランスの頃なんですけど、なぜかトランスをやらずにハウスをやっていたので、東京に来てからハウスとかのDJをやったりしていました。その頃、クラブ系のインディーズ事務所に最初に声をかけてもらったんです。いわゆるアーティストの曲も作りましたが、ヴィレッジヴァンガードに置かれているようなハウスやラウンジアレンジのCDを作らせてもらいました。作家っぽい仕事はそこらへんから徐々に入り始めました。それも、作家になりたいと思って入ったというよりは、何となくふわっと始まったという感じですね。
――最初はハウス系のアレンジャーというスタートだったんですね。
そうですね。でも、時代的にはJハウスが落ち着いてきて、最初の事務所ともやりたいことがずれてきちゃっていて。よりラウンジ寄りというか、イージーリスニング寄りになってきていて、「やりたいことと違うな、どうしようかな」っていうときに、SD(ソニー・ミュージックエンタテインメントの新人開発・発掘セクション)の方に声をかけていただきました。結果的に、その時点では、自分も作家なのかアーティストなのかよく分かっていなかったので、SDでやりたいことが見つけられなくて。その流れで、J-POP系の別の作家事務所を紹介していただいて、作家活動を2~3年くらいやることになりました。その時点では、今の自分がやりたいことは作曲やアレンジというか……。日々、違うことをやれるのが楽しいなと思って、作家になっていったのかなと思います。
――その“違うこと”というのは?
打ち込みをただ好きで始めた中学生の頃から、トランスとかテクノとか1個のジャンルに特化して作るよりも、毎回毎回いろんなジャンルを作るのが好きだったんですよ。歌ものも作るし、インストも作るし、ハウスも変拍子も作る。それは性格でしかないと思うんですけど、アーティストの方はある程度特化している人が多いと思うんですね。でも、僕の場合は、今でもいろんなことをやれるのが楽しいと感じていて。オケを録る日もあれば、歌を録る日もあるし、バンドの楽器を録る日もある。毎日毎日いろんな人と会って、いろんなことをやれるのが楽しいという意味では、結果的にはこれが一番向いていたのかな、天職なのかなって思っていますね。いろんなものを作るのが好きだったっていうのが、今に繋がっているのかなって思っています。
バンドのサウンドプロデュースから劇伴までいろんなことに挑戦できる作家業
――naotyu-さんの作品リストを見ると、本当に幅が広いですよね。しかも、作家活動を始めた初期の段階からアーティストに深く関わっていて。例えば、SMP所属1年目に手掛けたアンティック-珈琲店-(アンカフェ)はアレンジだけでなく、サウンドプロデュースも担当してますよね。
アンカフェとはその前からアレンジではお世話になっていたんですけど、SMPに入った時期に、ちょうど彼らが再始動するタイミングで、一緒にやっていきましょうっていうことになりました。前の事務所ではそんなにスタジオワークの経験がなくて、どちらかというと家で作業をするタイプだったんですね。しかも、僕はバンド経験もなくて。それなのに、突然1人で放り込まれて(笑)。いきなりミニアルバムでもあったので、毎日のようにスタジオに行って、バンドのアレンジやオケ録りをする日々が始まった。当然ながら、不安もあったし大変だったんですけども、結果的に言うと、それが恵まれていたんですね。先輩のディレクターさんやエンジニアさんに勉強させてもらいながら、必死に吸収して。早い段階で外の世界に放り込んでくれたおかげで、アンカフェのメンバーを始め、いろんな人と話をしながら1つの作品を作っていく楽しさを知ることができた。あれがスタートのときになかったら、きっと自宅ワーク中心になっていたと思うんです。そういう意味では、最初にいい環境に放り込んでもらえたし、忘れられない大事な経験だったなと思います。
――同時期に三澤紗千香のデビューシングル「ユナイト」もやってますよね。
アニメ『アクセル・ワールド』の後期EDテーマで、作曲をアンカフェのtakuyaさん、作詞を分島花音さんがやっているんですが、全く違うものを突然同時に担当させてもらうことになって。一応、僕は編曲の担当だったんですけど、編曲だけお願いしますっていうよりは、「一緒に作りましょう」という感じで入らせてもらいました。本当に同じタイミングで作ったので大変ではあったんですけど、両方を経験できたのはいろんなジャンルという意味でもよかったと思いますし、アニメ『とある科学の超電磁砲S』のEDテーマに起用された三澤さんの次のシングル「リンクス」は自分にとっての代表曲の1つになっていますね。
――ビジュアル系ロックバンド、声優アーティストが歌うアニソンときて、同年に『グランツーリスモ6』のBGMやアニメ『ストライク・ザ・ブラッド』の劇伴も手掛けてます。
『グランツーリスモ6』のBGMは、SMPの方が「naotyu-は車好きなんだから挑戦させてあげなきゃダメですよ」って声をかけてくれたんです。僕は車やレースが好きだっていうことをネットで常々書いていたし、ゲームもやっていたので、『グランツーリスモ』に関われたのは嬉しかったし、友達も喜んでくれましたね。そうやって、いろんなジャンルの音楽の仕事をいただけるのは本当にありがたいことだし、強みだとも自覚しているので、どんどん活かしていきたいなって思っています。
――一方で、作詞作曲を自らやる分島花音さんの場合は、編曲のみという関わり方もしてます。
分島さんの曲って、一筋縄ではいかない、毎回挑戦しがいのある曲が多いんです。例えば、「killer killer JOKER」は、アニメ『selector infected WIXOSS』のOP主題歌で、わりとおどろおどろしい、かっこいいホラー系の勝負曲になっていて。普段の編曲はあまり絞り込まずに、最初は1日か2日で出すことが多いんですけど、この曲はイントロのフレーズだけで納得がいくまでに1週間くらいかかっちゃって。結果的には、すごく印象的な良いものが作れたんですけど、かなり考えましたし、このときに初めて大きなストリングスを録らせてもらって、緊張というかドキドキしましたし、とても大きな経験をさせてもらいました。こういう編曲オンリーができるのも自分の強みかなと思うし、編曲家として特に自信を持って出せる1曲です。
――スマホゲーム『バンドやろうぜ!』の場合はどんな関わり方というイメージですか?
ゲームがリリースされる1~2年くらい前からお話をいただいていたんですけど、このゲームが面白いのは1人の作家が1つのバンドを担当するっていうことなんですね。僕はCure2tron(キュアキュアトロン)っていうバンドについているんですが、ある意味とってもバカ真面目に作っているので(笑)、なんだったら1つのバンドをプロデュースしているような気持ちで見ています。1つのゲームという以上に、時間と愛情を持って作っていますし、「いろんなことをやってみたい、アーティストを俯瞰で見てみたい」っていう自分の思いに合致しているし、有り難いなというか、良い経験をさせてもらっていますね。
――『マギアレコード』もスマホゲームですが、これもゲームミュージックを作るというだけではないですよね。
人気がある原作の世界観を壊さないようにしつつも、「あわよくばちょっと爪痕を残してやろう」っていう思いがあったんですけど、この作品の場合は、変身ジングルの制作が特に面白くて。ガチャで魔法少女を引くときの変身シーンのジングルですね。作る段階で絵コンテの動画をいただいて、全キャラクターの映像に合わせて、30秒くらいのジングルを作って。映像を見ながら、例えば杖を振っているところに「キラン」って音を入れてみようかなっていうのは、ほとんど効果音を作っているような感じの気持ちでやっているんですけど、それもまた他ではなかなか経験できないことですね。そういう意味では、僕は大枠では作家ですが、毎日いろんなことをやっていて、それが本当に楽しいなっていう感じですね。
今後も自主制作からプロデュースワークまでいろんなことに挑戦していきたい
――naotyu-さんの多様性はよく理解できたんですが、事前アンケートの「尊敬している音楽家は?」という質問に、デヴィッド・フォスターと平田祥一郎さんの名前をあげてましたよね。まず、デヴィットフォスターというのはどうしてですか? ホイットニー・ヒューストンやマライア・キャリー、マドンナやマイケル・ジャクソンも手がけた世界的なプロデューサーです。
具体的にこの曲が好きというよりは、いろんな有名な方のプロデュースをしていますし、表に出てピアノを弾かれるのもかっこいいですし、オリンピックのテーマソングや映画の劇伴もされている。僕が一番衝撃を受けたのは、『インディ500』っていうアメリカの大きなレースの2011年の100周年大会です。彼はカナダ人なんですけど、開会式でアメリカの国歌斉唱でピアノを弾いていて。しかも、3拍子のアメリカ国家をポップスの4拍子にアレンジして持ってきた。そういうところで披露できちゃう姿勢もさることながら、そのアレンジがまた素敵で。生放送で見ていたんですけど、人生の中でも、かなり衝撃を受けた出来事の1つでした。改めて、何でもできるんだなっていうか、いろんなことができる人という意味で、憧れの人だなと思ったので。
――なるほど。デヴィッド・フォスターはプロデュースはもちろん、ピアニストとして世界ツアーを回ったりもしてますよね。naotyu-さんもライブを始めたと耳にしたんですが。
表に出ようっていうことでもないんですけど(苦笑)、最近になって、演奏するのも楽しいなと思い始めまして。バンド経験もないし、DJを除けばそんなに表に出たことはないんですけど、そっちの気持ちを知ることによってできることもあるなと思ったんです。この間も、ヴァイオリンの澤田昭子(AKI)さんとデュオで完全にオリジナルのインストのライブをやってみたりしました。まだ始めたばかりですけど、そこにゲストのヴォーカルがいても面白いかもしれないなと思っていて。また新しい空気に触れてみたいなって考え始めたところですね。また別のことを1つやってみたいなって。貪欲にしていかないとどうしてもこじんまりしていっちゃうので、視野を広げるという意味で始めようと思っていますし、自分がプロデュースするものを俯瞰で見られる経験を積んでみたいという意味でも、自主制作をもう一回やってみたいなって思っています。
――原点回帰という思いもあるんでしょうか。ちなみに、平田さんは音ゲー『Dance Dance Revolution』(DDR)や『ときメモ』などのゲームミュージックを手がける一方、モー娘。やCu-teなど、ハロプロワークスでも知られてますが、どっちから入りました?
結果的には両方なんですけど、かなり影響を受けていまして、きっかけはビートマニアとかDDRですね。当時はユーロビートとかトランスが流行っている時代だったんですけど、すごく渋い歌ものハウスを作られていて。偉くかっこいいなと思って、高校生くらいのときに打ち込みで真似したりしていたんですけど、平田祥一郎さんは、あるときから、つんく♂さんの曲のアレンジや、BoAやリア・ディゾンの仕事もし始めて。それもまた、「ビートマニア出身だけど、こんなことできるんだ」っていうことにビックリしました。そんなことは想像もつかなかったので。結果的に言うと、僕はビートマニアが好きな友達とネットで集まって公開していた身から作家になったので、真似をしたというわけではないんですけど、自分の人生の流れに非常に影響を受けた憧れの人の1人ですね。
――今後の目標としては、BMS出身でトップアイドルから国家の編曲までを手掛けるプロデューサーのようになると考えていいですか?
間違っていないと思います。ただ、「みんなこうやれよ」っていうわけではなくて、ボカロPやアーティストになっていった友達も素晴らしいなと思っています。本当に1つのジャンルを突き詰めている人、EDMのような最先端の音楽を極めている友達もいる。それは本当にかっこいいし、尊敬するし、自分にはできないことだなと思っています。一方で、日々いろんなことをやる作家になるという選択枝も楽しいんじゃないかなっていう気持ちもありますね。あと、今後のことで言うともう1つだけ。中学生のときに映像を作っていた友達がいるんですけど、そいつがTAIYO YAMAMOTO(flapper3所属)って言いまして。BOOM BOOM SATELLITESのMVとか、他にもたくさんの映像グラフィック分野で活動しているやつで。中学校の同級生で、中学1年くらいから映像を作り始めているんですけど。
――naotyu-さんに「作れるんじゃない?」って言った人ですか?
そうなんですよ。アンダーワールドとかトマトのことを教えてくれたり、ビートマニアやクラブ系の音楽もそいつが教えてくれた。そいつがいなければ始めていないくらいなので、そいつと何か一緒に作りたいですね!
取材・文=永堀アツオ
1988年4月13日生まれ、北海道出身。13歳でMIDIプログラミングを始め、オリジナル楽曲の制作をスタート。「naotyu-」名義で自主制作やゲーム音楽、ハウスミュージックなどのジャンルを経験した後、2012年、現事務所に所属のタイミングで「千葉"naotyu-"直樹」に名義を統一。J-POP、アニメ、ゲーム、劇伴などジャンルを問わず幅広く活動。無類のモータースポーツマニア、北海道好き。
[オフィシャルサイト] http://www.naotyu-studio7.com/
[所属事務所ページ] https://smpj.jp/songwriters/naokinaotyuchiba/