GREENS・力竹総明が語る20周年の『RUSH BALL』に至るまでの歴史と、残る悔しさとは ー20年のストーリーとマインドに迫る
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GREENS 力竹総明
1999年の初開催から20回目の節目を迎えた、夏の野外イベント『RUSH BALL』。例年通り泉大津フェニックスを会場に、今年は8月25日(土)、26日(日)、9月1日(土)と3日間にもわたって開催された。さらに、恒例のプレイベント『RUSH BALL☆R』に加え、初めて海を渡り、台湾で『RUSH BALL IN 台湾』も開催。筆者はいずれもライブレポートで参加することができたが、どの日をとってもアーティストと観客の熱い想い、そして20周年を祝う一体感がスパークして、今までとはひと味違う特別な盛り上がりをみせていた。20周年のアニバーサリーイヤーは、10月30日(火)に、なんばHatchで行われた『SPECIAL AFTER & HALLOWEEN PARTY』をもって終幕。そこで、長年『RUSH BALL』を率いてきた主催コンサートプロモーター・GREENSの力竹総明氏に今の心境をインタビューした。てっきり、みんなと同じように興奮の余韻に浸っているのかと思いきや、決してそうではない様子。同じ泉大津の地で、開催してきた清水音泉の野外イベント『OTODAMA~音泉魂~』への切実な想いを交えながら、行きつけの居酒屋で、約5時間にも渡って包み隠さず話してくれた。次をもっとよくするためには何ができるか。もっとこんなことができるんじゃないか。そうやって常にアップデートして来たからこそ、今の『RUSH BALL』がある……。最後は酔っぱらってダウンするまで真摯に語られた、20年のストーリーとマインドが何たるかを、ぜひ感じてほしい。きっと来年の『RUSH BALL』に足を運んで、20年間、アーティストと観客の想いのバトンを繋ぎたくなるはずだから。
■ゴールなんてない、成功したから終わりではない■
昨日、一人で焼肉に行ってたら少しおセンチになって。帰り際に歩きながらいろいろ考えていたんですよ。
――それは、20周年の『RUSH BALL』を終えた喪失感みたいな感じですか?
ではなく、終わってから時間も少し経って、やっとイベントを日常のことと切り離して整理しながら考えられるようになったからですかね。それに、来年のことも考え始めないといけないなというのもあり。
――今だからこそ冷静に20周年という節目を考えられるようになったと。
やっぱり20年目って、集大成としてお客さんの中でも想いが強くあったと思うんですよね。「あのアーティストが出るんじゃないかな?」とかって想像も、いつも以上に膨らませてみたり。そういうプレッシャーも感じながら、この20年目は今までと違うブッキングでやってみたけれど、そもそも「20周年」と謳ってやって良かったのかなと考えてたんですよ。もちろん、いろいろなアーティストに出てもらえて嬉しかったし楽しかったし、土曜日は売り切れになったぐらい盛り上がったので、すごく感謝しています。だけど、もしかすると、いつも通りにやっていたら、もっと楽しかったのではないかなとか。今となってはタラレバですけど、自分で勝手に20周年とカテゴライズして意識しすぎたばっかりに、本当はもっとやれたことがあったんじゃないかなと思ったりして。だから、みんなのおかげもあってちゃんと成功はしたけれど、自分の中ではどこかやりきれない部分があるんです。なので考え方を変えて、「よく20年続いたな」というふうにも捉えるのが良いんじゃないかな……、と。というか、「19年目までそう思ってやってきたやん」って、気づいたんですよね。
――今年も『RUSH BALL☆R』に始まり、海を渡って初めての台湾公演、それに泉大津では3日間開催と、どれも参加させていただきましたが凄く盛り上がっていて。その余韻とか高揚感が僕としてはまだあったので、力竹さんの中でもランナーズハイのように続いているのかなと勝手に思っていたので、そのおセンチな感じというのはすごく意外でした。
もちろん20周年を終えてどうだったかというと、「大成功でした!」と言えるもんやったと思ってます。だけどまぁ、ゴールなんてないですからね。成功したから終わりってことではなく、どうしてもすぐにでも来年のことを、次のことを考えていかないといけないですから。
――僕たちが知らないだけで、毎年そうやって夏が終わったらすぐに1年を振り返って、次の1年のために動き出していたのですね……。個人的にはやはり、今年はお客さんとアーティストそれぞれが「20周年」という節目を祝う想いがそれぞれあったからこそ、ものすごい一体感となって特別な盛り上がりがあったように思います。そこには20年もの間、受け繋がれて来たドラマというか、『RUSH BALL』ならではのロックのバトンがやっぱりあるんだなと。
やっぱり『RUSH BALL』には、そのバトンがありますよね。それは1日の流れという意味でのバトンでもあり、年を重ねるごとに繋いできたバトンでもある。Dragon Ashとかストレイテナーがライブで言ってることだったり、BRAHMANとか細美武士が思っている感じがそう。
――『RUSH BALL』開催初期からイベントを支えて来た面々ですね。
よくみんなが言ってくれるそのバトンって、別に俺らが意図して作ったり繋いできたものでは決してないんですよね。ミュージシャンたちが、自然と繋いできてくれたものなんです。俺はこうなったら面白いやろうなってブッキングして、出演順を組んでいるだけですから。
――アーティストやお客さんの想いが、バトンを20年も繋げてきたわけですね。
そもそも20年もずっと何かをやったことってあります?
――……ひとつもないです……。
僕もです。物心がついた頃から、3日坊主だし彼女も1年続かないとか(笑)。最長で、大学生の時に4年間ずっと同じ居酒屋でバイトしていたことぐらいですよ。それ以外、本当に続いたことがない。
――だけど、この仕事は続いて来たと。
大学を卒業する時にこの会社に入ったんですけど、その時もこんなに続くなんて思ってはいなかったですよ……。いや、思ったかな? 最初に現場に入ったライブがソウル・フラワー・ユニオンで、ほんとむちゃくちゃで、すごいライブだったんですよ。その時に感じた、うまく言えない「うわーーーーっ!」てのがすごく楽しかったから、その時にはずっと続けたいと思ったかも。それがあったから、今でも続いているのかもしれないですね。
――今でもその時の感覚が忘れられずに、追い求めてらっしゃる?
そうかもしれないですね。
――3日坊主だった青年がライブに衝撃を受けて、ライブに携わる仕事を続けてきた中で、いつしか『RUSH BALL』も20年になっていた。
その時は、まだ現場に入ったばかりのぺーぺーで、何も分かってなかったですけどね。『RUSH BALL』もまだなかったですし。
■非日常な世界で音楽を楽しむ、その環境に関してはとことん作る意識■
――『RUSH BALL』が開催された99年の初年度ってどんな感じだったのですか?
『RUSH BALL』は僕ではなく創始者がいて、その時、僕は現場に入っているスタッフでした。その頃はまだ野外イベントが今みたいに当たり前でなかったですから、開催するにしても右も左も分からない。情報としてあるのは、新潟の『FUJI ROCK FESTIVAL』だけ。野外イベントってどんなものなのかと、そこから学んで作って行くところから始まりました。俺たちの中では、大阪での『FM802 MEET THE WORLD BEAT』が野外イベントの運営のベースにあるのはあるんですけど、それはラジオ局が主催する無料の招待イベントだから、お金をいただいてあれだけの規模のことをやったことがなかったんです。いただいた分のお金をしっかりかけて、設営したり環境を作らないといけないんだけど、どんなインフラが必要なのかすら分かりませんでした。
――『FUJI ROCK FESTIVAL』を参考にしながら手探りで。
そう。舞洲スポーツアイランドで開催した初年度は、ジャマイカからアーティストを呼ぶレゲエのイベントの翌日に、そのステージを借りて開催しました。何も分からへんから、テントをバーって並べて、別でアーティストの楽屋用にバスを借りてきて使ってもらったり(笑)。
――すごいですね(笑)。
夏だし、「暑いからバスに乗ってください!」と言っても、「夏なんだから、テントで暑くて別にいいでしょ」と誰も入ってくれなくて(笑)。でも、ある程度時間が経つと、本当に暑いから今度はみんなバスに乗って出てこなかったり(笑)。今でこそ楽屋がコンテナを借りて使ってもらうとか当たり前のようになってますけど、当時はそんなことも知らないままでした。
――それから開催を重ねていくごとに、徐々に環境を整えていったと。『FUJI ROCK FESTIVAL』を参考にというのは、実際に何度も行って見聞きして情報を集めるといった感じで?
行くたびに、客席の表現の仕方とか配置とかルートを見てますね。ここをこう改良して、ここは変えずなんだとか。例えば、お客さんから移動のルートとかで色々不満が出ていても、次の年に変えてなかったりするんです。それは、「これがいいからだ」ってイベント側の考えがあるから曲げていなかったりする。そういうところとかも見て考えさせられたり。
――『RUSH BALL』でいうと、こういうマイナーチェンジをしたとかってありますか?
例えば、トイレを増やしたりとかですかね。1日に2万人の来場にまでなると、トイレは200台が理想なんですって。だけど、それだと十分に足りてるってことになるから、180台ぐらいにして、その浮いた20台分の費用を他の設備面で使わせていただくとか。それのせいで、ちょっとだけ並ばないといけなくなるんですけど、それは並ぼうよって。自分が『FUJI ROCK FESTIVAL』とか野外イベントに行くのもそうですけど、やっぱり非日常に行きたいですから。あまりに快適だったり、充実しすぎているのは普段の日常となんら変わらないから、それは違うんじゃないかなって思ってます
――不便さとか、そういう非日常な一面も野外イベントの醍醐味だったりしますよね。
夏祭りだって、恋い焦がれた人を誘って、人混みだらけで暑くて汗ベタベタになるけど、そういう非日常な環境やからテンション高まったり、いつもと違う自分になれるから告白できたりするじゃないですか。日常では発散できないからこそ、そういう場所にわざわざ出かけたくなるもんやと思うんです。『RUSH BALL』も野外だから雨が降ったり、泥だらけになったり過酷なことはあるけど、非日常な世界で音楽を楽しむ、その環境に関してはとことん作る意識を持ってやってきました。雷とか、危険なことにはさらしたくないからみんなのことを守るけど、遊びに来るなら覚悟を決めて来てねと。『FUJI ROCK FESTIVAL』も山奥だからこそ不便なことは絶対にあって、だから「無いなら我慢をする。欲しいなら用意をする」というマインドがある。そういうところも大先輩に倣ってきているところですかね。非日常まで行っちゃうと、タクシーが目の前まで来てくれないしすぐには帰れない。「またね」って書かれた出口のゲートをくぐって帰るまでが非日常で、快適なことは外に出てからの満喫したら良いんですよ。あとは、非日常で感じてもらった楽しさとか面白さを、日常生活にどれだけ関係づけられるか。『RUSH BALL』に行ったら楽しかったことを、帰って来てからも楽しいと思ってもらえるようなことを、どれだけ現場でできるかが大事やなと思っています。非日常と日常、どっちも楽しくなるような、非現実的な世界と環境を作るのが仕事だと思ってます。
――なるほど。
実は、会社でも色々と意見が出るんですよね。「あれがあった方がいい」とか、「あれも欲しい」とか、「女子的には……」って意見も。「楽屋をもっと可愛くした方がいいです」とか、「可愛さいる?」って思ったり(笑)。そういう女子目線で分かることがあるから、意見は大事にしているけど、日常になりすぎないように変えないようにしているところもあります。キッズスペースを作ったりはしても、パウダールームはいらんやろとか(笑)。楽屋に関しては、じゃあ色々買って来てもらって自分で装飾してもらったり。装飾したのが結局雨でグシャグシャなったりしたなら、じゃあ次はどうしようかって考えていけばいいですから。それは細かいところですけど、全体的にそうやってアップデートはしてきたつもりです。自分は2005年に『RUSH BALL』を創始者から引き継いだんですけど、スタートから思い描いてきた2000年代の想いや「フジロック精神」をしっかりと引き継ぎながら、変わらざるをえないところはその時々に合わせて変えながらの20年だったと思います。
■過去を語るよりも、これからのために挑戦していくことの方が大事■
――アップデートの話でいうと、去年の暮れに「続けることは大事なのはわかってる。でも変わらんと、次のやっていく人たちに受け継がんよね」とツイートされていましたよね。20年という節目を意識されてのことだったと思うのですが、バトンを繋いでいくためにアップデートしないといけないというのは、20年とか関係なくずっと大切にされてきたことなんですね。
こういう取材で言うのもなんですけど、20年を語りすぎるとそこで終わってしまう気がしているんですよね。2012年にサカナクションがトリを務めた時でいうと、まだまだ彼らのことを知ってる人と知らない人が半々ぐらいの頃で、「もうトリ!?」とマネージャーに言われたことがあって。でも、「やりましょう」と言って実現に至ったんです。過去を語るよりも、これからのために挑戦していくことの方が大事やと思っています。挑戦していい経験ができたなら、来年もそんな経験がしたいと思えるし、それならどうやってアップデートするのかってことを考えていける。そういう感覚がなくなって、過去を見てばかりなのは嫌だなと。自分がアップデートしない限りは何も面白くないし、日常をこなすのなんて一番嫌。どんな仕事の人もきっとそうなんじゃないかなと。だから、20年を振り返るというよりは、次をどうするかの方がやっぱり大事やなと。
――その振り返ったり、節目を意識するのはどうなのかなって感覚は、15周年とか、10周年の時にはあんまりなかったのですか?
そうですね……。20年って、やっぱり歳を取りすぎたと思うんですよね(笑)。俺ぐらいの歳になってくると、無謀なアイディアとかを出しても、「何か考えがあるやろから」って誰かに反対されることも少なくなってきますし、話がすんなり進んでしまうことが多いんですよ。そうなってくると、やっぱり年上に歯向いながらやれる、30代とかもっと若手がいいなって。これからはそういう世代に引き継いで、もっといろいろチャレンジして行ってほしい。若手のロックのバンドが、チクショーって言いながら、『RUSH BALL』に出続けてくれている中堅どころとか大御所を打破していくことに、加勢していきたいのと同じですね。前まではオープニングアクトだったのに、トリを取るっていうみんなの夢を、短い数十分のステージで叶えて行くようなね。台湾の挑戦もすごく大変やって、だけど挑戦したからこその経験を次の世代に伝えられるし、リスクを冒してでもそれを超える表現をしたり工面さえすれば、上の世代の人たちは理解してくれるからって、ようやく言えるようになったからだと思います。もうひとつ、20周年としてやりきれない思いがあるのは、翌週に開催予定だった清水音泉の野外イベント『OTODAMA~音泉魂~』が、台風で中止になったという悔しさもあるんですよね…。
■泉大津フェニックスでステージを共有してきた『RUSH BALL』と『OTODAMA~音泉魂~』■
――なるほど……。毎年、同じ泉大津フェニックスでステージを共有して開催してきた関係性があるからこそ。
今年の『音泉魂』は、Suchmosとか今の時代の首謀者がいて、それを中心に一個の渦を作るような、イベントやったと思うんです。地方の人とかはそのバンドを実際に見たことがなかったとしても、情報でそれを知って行ってみようと思う、そういう渦を間違いなく作ろうとしていたんですよね。もしそんな『音泉魂』ができたら、今年はオールクリアやったと思うんです。
――今年は、例年『音泉魂』に出演しているバンドが『RUSH BALL』にバンドも出演していたり。例えば、学生時代に『RUSH BALL』に遊びに来ていたキュウソネコカミも、『音泉魂』でトリを務めたり普段からお世話になっている清水音泉への想いがあるからこそ、登場するや否や「『音泉魂』から来ました、キュウソネコカミじゃ!』ってライブを始めたり。
キュウソ言ってたね!
――他にも『RUSH BALL』が終わるとツイッターの公式アカウントで、『音泉魂』にエールを送ったり。『RUSH BALL』と『音泉魂』には、会場を共有するだけじゃない、共闘している関係性がありますよね。そのお客さんも知った上で、それぞれを楽しんでるのがすごくいいなと。
そういう一緒に作っている気持ちでやってきたからこそ、今年出来なかったのはすごく辛いんです。『RUSH BALL』は無骨にやってきて、本当は遊びの要素をめっちゃ入れたいんだけど、僕にはそのセンスがないからウケないのもわかる。だから遊びの要素がウケけすぎる清水音泉の『音泉魂』を見てすごい悔しくて……。ロックの野外イベントやのにプロレスをテーマにするとか、ガリガリガリクソンが会場を走るとか。ブレブレのようで、それをど真ん中としてやってきてるのがすごいなって。でもそれは、『音泉魂』。『RUSH BALL』はこれだけ無骨にやりました、『音泉魂』はどれだけネタをやるのかというのが、自分の中で裏テーマとしてあって、毎回楽しみなんです。それが今年の『音泉魂』は今までと違って、シュッとキメるっていうからびっくりして! 勝ち負けじゃないけど、「これは負けるな」と思ったぐらい、俺らが表現できない、『音泉魂』にしかできない芯を持った無骨な部分がすごく出てた……。晴れて今年、お互いソールドしたりもあっただけに切ないですね。20周年をアッパーでいけない切なさは、そういうこともあるんです。
――ようやく力竹さんの中にある、切なさが腑に落ちました。
2005年に『RUSH BALL』を引き継いで、泉大津に場所を移した時から、清水さんとは一緒にやってきてますし、お互い面白いことをやりたいとか、ミュージシャンのためにやりたいってことは一緒ですからね。だけど、この感情は初めてなんです。
――というと?
2011年の時にも、『音泉魂』は台風で中止になったじゃないですか。あの年は東日本大震災があって、仙台の『ARABAKI ROCK FEST』が時期をずらしてでも夏に動くと聞いて、電話で「動くって聞いたんですけど、水臭いじゃないですか! 僕らも協力できることあったらするので」と仙台のブッキングの人に伝えたんです。それで、『RUSH BALL』と日が重なるから予定していた開催日を翌週にずらすことにして、清水さんにもそう話したら「いいよ」って話をのんでくれて。で、蓋をあけてみたら台風で『音泉魂』が中止。でも、翌日には晴れて『RUSH BALL』は開催できたから、自分はその喜びでいっぱいやったんです。前日に中止してる人がいて、ここまでの環境を作って提供してくれた清水さんがいるのに、全く無視して「2011年やりきったぜ!」って言ってた自分がいたんですよ。自分のことばっかりの自分に、今なら「ほんまにアホか!」と思えます。だから『RUSH BALL』20年という歴史よりは、『音泉魂』も含めて同じ泉大津フェニックスという場所を共有するチームとして、ずっとやってきた思いもあるからこそ、一口には語れないところがあるんです。一緒にやってきている感があるから、『RUSH BALL』だけでやってる感覚はないんです。 もちろん『RUSH BALL』に来ているお客さんには、『音泉魂』を微塵も感じさせないぐらいのイベントにしてやると思ってやってますけど、でも一緒の場所で一緒に作ってきた、そういう変遷は間違いなくある。だから、『音泉魂』が20周年の時に、一緒にできたら、ハッピーになってぶっ壊れてると思いますね。まだ先だけど……、そう思うとほんとゴールがないよなぁって。
■日本と台湾をつなぐ『RUSH BALL』■
――「20周年」とはいえやりきれなさが残った意味が、ようやく分かった気がします。それでも、20年目だからこそ踏み切られた挑戦もあるわけですよね。3日間開催もそうですけど、初の海外公演の『RUSH BALL in 台湾』はイベントの歴史にとっても大きな挑戦だったのではないかなと。
ほんと、大変でしたね。
――これは、いつ頃から構想されてたんですか?
一昨年の末ぐらいですかね。例えば、数年前からストレイテナーのライブに片言の日本語でスタッフに問い合わせているお客さんがいて、どこから来たのか聞くと台湾からだと。それから、ちょくちょく台湾から来るお客さんが増えているのを知っていたので、それもキッカケとしてあって。で、実際にやるからには、日本の音楽イベントを海外でやりたいということに加えて、よくある台湾のアーティストと日本のアーティストでイベントをするのではなく、日本でやっているイベントをまんまで持っていきたいなと。「これが日本です!」というのをやらないとけいないかなって。それだけじゃなく、海外でも知られているきゃりーぱみゅぱみゅとかPerfumeみたいなアーティストが出ている音楽イベントだけじゃなく、こういうゴリゴリのロックイベントがあるんだというのも知ってもらえたらなという想いもあって、思い切って台湾公演をしようと。それも、『RUSH BALL』は関空から会場もすぐ近くですから、台湾公演に来てもらって楽しかったら、日本にも来てほしいなと。逆に、日本から台湾まで、たくさんの人が来てくれていたり。
――台湾公演の空き時間に、お客さんにインタビューさせていただいたんですけど、確かに日本からの人もたくさんいらっしゃいましたね。台湾の方で、日本までライブを観に行ったことがあるという人も多くて驚きました。とはいえ、やっぱりネットでしか曲を聴いたことがなくてライブは初めてだとか、『RUSH BALL』のことは知らなかったけど好きなバンドが出ているから来てみたとかという人もやっぱり多くて。だからこそ、そういう人たちにとっても、台湾公演は台湾と日本を、バンドの想いを海を越えて繋ぐ、すごく重要なきっかけになっているなと現場でヒシヒシと感じていました。それだけ大きなことだからこそ、想像もつかないほど大変だったのだろうなと。
事前に進めないといけない準備が国内に比べて前倒し前倒しなので、半年前ぐらいから動き出してもカツカツなんですよね。何より、お金の問題もありますよね。単純に日本からスタッフの移動だとか機材を運ぶだけで、すごくお金がかかりますし。向こうで手配するのもお金がかかるので大変なんです。そういう面では大変でしたけど、アーティストのブッキングに関しては、みんな凄く面白がってくれたので返事が早かったので嬉しかったです。go!go!vanillasとかは、マネージャーに電話して声かけたら「何言ってるんですか!?めっちゃ面白いじゃないですか!すぐにメンバーに確認します!」と言われて、電話を切って15分後ぐらいには、「行きます!」って応えてくれたり。このDragon Ashとかは全体のミーティングで、「リッキー(力竹)から誘いがあります。台湾です」って話が出た途端、みんな「イエーイ!!!!バカじゃねえの!?」って、すごい盛り上がったらしいです(笑)。
――すごく目に浮かびますね、その大盛り上がりのミーティング(笑)。ライブ自体も、日本とはまた違う盛り上がりがあって、だけど雰囲気はしっかりと泉大津の『RUSH BALL』で。会場は大学の体育館ですけど、ライブハウスそのものでしたし。
ステージは音楽だけを見せるようシンプルに、ミュージシャンのためのステージを作りたいというのは変わらず作ったので、大阪でやってるのと変わらない形を作れたんじゃないかなと思いますね。今年のことだから、まだきっちり整理できていないんだけど、しっかり形作ることができたら来年も行ってみたいと思っています!
――それは楽しみですね! そう考えると、力竹さんが仰るように「20周年」という集大成やひとつのゴールというより、新たなスタートとしての節目になっていたわけですね。それも台湾公演だけで見るとすごく大きな一歩に思えますが、この20年続けてきたアップデートの続きであったことも今日お話を聞いて知ることができました。
20年も続けてきたことがないからこそ、それを話すのってすごく難しいし分からないことばっかりなんですよね。今もずっと何かに気づきたくて、常に答えが欲しくて探してるんです。だからゴールがない。それでも、20年間続けてきた誇りみたいなものはあります。その経験からわかっていることは、今やるべきことっていうのは、ツアーだったりワンマンライブとかミュージシャンが必死にやってることを一生懸命サポートすること。それが結果的に夏に繋がるということだけは、はっきりしていて、今までもそうしてきたから20年続いてきたんだと思います。なので21年目も22年目も、これまで通り、その年の首謀者となるミュージシャンの想いを汲み取ってブッキングして行くしかないんですそれの繰り返しですから。
――僕たちは、その時々に泉大津で現ライブの空気やドラマも体感して、想いを膨らませていくことが自然とバトンになり未来へと繋がっていくと。
今遊びに来ている人たちも親になっていくわけで、その子供達が親の影響で音楽を好きになったりしてくれたら嬉しいです。「こういうミュージシャンがいるよ」って、一緒に『RUSH BALL』に行ったりテレビで特番を見て、子供達が楽しんでくれて、この先の何かに繋がればと、そう思います。
取材・文=大西健斗 撮影=渡邉一生
取材場所=天六 マッシュアップ
〒530-0041 大阪府大阪市北区天神橋6丁目3−26
http://kaijuo.com/tenroku-mush-up/