<フランス革命ものエンタメ作品>を楽しむための人物ガイド-[王妃マリー・アントワネット④]~18世紀フランス音楽事情

2019.4.12
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マリー・アントワネット(1755-1793)生誕250年にあたる2006年、宝塚歌劇で『ベルサイユのばら』が再演された際、アントワネット本人の作曲した音楽が劇中で使用され話題になった(前回参照)。彼女自身の音楽的才能が実際のところどれほどのものであったかは知る由もないが、彼女が音楽をこよなく愛し、一定の音楽的素養を備えていたことは各種記録によって明らかにされている。それゆえに、ちょっとした作曲を手掛けることができたとしても意外なことではない。

オーストリア・ハプスブルク家の王女だった彼女は、幼少期より王家のたしなみとして歌唱や楽器演奏、舞踊のレッスンなどを受け、それらを人前で発表することもあった。彼女を指導した教師陣もトップクラスの専門家ばかり。たとえばクラブサン(チェンバロ)を教えていたのは、当時ウィーンの宮廷楽長を務め、著名なオペラ作曲家でもあったクリストフ・ヴィリバルト・グルック(1714-1787)だった。またアントワネットは、一流演奏家の実演に接する機会も多かった。彼女が7歳の頃には、まだ6歳だった天才少年ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)の演奏をウィーンのシェーンブルン宮殿で聴いたこともある。アントワネットの母にして、オーストリアの実質的な女帝だったマリア・テレジア(1717-1780)の御前演奏会においてだ。そこでモーツァルトがアントワネットに「将来、結婚してあげる」と言ったとか言わなかったとか……。

ともあれ、かような贅沢極まる環境の中で育てられれば、勉強や習い事が嫌いで怠け癖が目立ったといわれるアントワネットといえども音楽的感性が発達することは必然だ。それゆえにであろうか、彼女には音楽や舞踊にまつわる逸話も決して少なくない。そこで、今回は彼女を通して、当時の音楽というものが、一体どのような様子であったかを見ていこう。

■グルック先生、オペラ改革を起こす

私たちのよく知るクラシック音楽史において、初期の重要なカテゴリーとして、バッハ(1685-1750)やヘンデル(1685-1759)らに代表される「バロック」の音楽がある。両者ともドイツ生まれで主に18世紀の前半に活躍した。そして、続く同世紀の後半には、ハイドン(1732-1809)、モーツァルト、ベートーヴェン(1770-1827)ら「古典派」が台頭し、音楽の都ウィーンを中心に名作を数多く産み出していく。その「バロック」から「古典派」への移行期(「前古典派」とも呼ばれる)に現れた作曲家のうち最重要人物が、アントワネットにクラブサンを教えていたグルックだった。現代の私たちにはあまり聞き馴染みのない名前だが、なぜ重要なのか。それは彼がオペラの改革者だったからだ。

18世紀中頃のウィーンでオペラといえば、イタリア産のものが主流だった。しかしそれらは台本が支離滅裂、カストラート(去勢された男性高音歌手)をはじめとする人気歌手が声と技巧をひけらかし、歌唱の曲芸のようなところがあった。これを改革しなければならない、と宣言したのがグルックだった。彼は何よりドラマ性を重視した。劇の内容に即して旋律をつけ、オーケストラや合唱も劇的効果を高めるように工夫してスコアが作られた。そんな「改革オペラ」の第一弾が、1762年にウィーン宮廷劇場で初演された『オルフェオとエウリディーチェ』だった。ギリシア神話の「変身物語」における「オルフェウスの冥界くだり」を題材にした作品で、グルックの代表作として現代でも上演・演奏される機会が多い。

グルック「オルフェオとエウリディーチェ」ピナ・バウシュ振付のダンスオペラ版

1762年といえば、6歳のモーツァルトがウィーンの宮殿で演奏をしていた頃。6歳とはいえ神童だったモーツァルトだけに『オルフェオと…』のことは当然知り得たことだろう。後にパリ上演(1774)の際にグルックが追加した「復讐の女神の踊り」(グルックのバレエ音楽『ドン・ファン』から転用された)の旋律は、モーツァルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』に少なからず影響を与えた、とも言われる。……しかし、である。次に示すのはあくまで創作上での台詞だが、ピーター・シェーファー(1926-2016)の有名な戯曲『アマデウス』(1979)の中には、アントニオ・サリエリ(1750-1825)とモーツァルトが交わす次のような会話がある。

サリエリ「私を教えてくださったグルック先生はよくおっしゃってましたーー音楽の臭いがするような音楽は絶対避けるべきだ」(中略)
モーツァルト「グルックは馬鹿だ」
サリエリ「なんですって?」
モーツァルト「オペラを新しいものにしよう、しようって一生言ってたらしいけど、題材が高尚すぎて人間離れしてるんだ。出てくる登場人物みんな偉大な巨人ばかり。だからその音楽ときたら巨人が大理石のうえでうんこしてるような音がするんです」(訳:江守徹)

「大理石のうえでうんこ」云々の台詞、映画版の『アマデウス』では違う箇所で語られているが、言い得て妙ではある。グルックのオペラはたしかに改革であり、芸術性を大いに高めたが、神話を題材にするなど、重厚で気難しい雰囲気があった。『アマデウス』で描かれるモーツァルトは遊戯性を重視する人物だったから、グルックの音楽に心情的に反発していた可能性はある。しかし(ここからは史実の話に戻るが)、1765年にオーストリアの帝位に就いたヨーゼフ二世(1741-1790。マリア・テレジアの息子であり、アントワネットの兄)は、啓蒙思想の影響を受ける進歩派でありながらも道徳や秩序を重んじる性格でもあったので、グルックや、その流れをくむサリエリ(後にグルックと同じように宮廷楽長となる)を重用した。そして素行の悪いモーツァルトとは距離を置いたのであった。

1770年、ハプスブルグの王女アントワネットは政略により、フランス・ブルボン王朝の第5代国王ルイ16世となるルイ・オーギュスト(1754-1793)の許へと輿入れさせられる。この先もグルック、モーツァルト、サリエリのエピソードはアントワネット周辺に浮遊することとなる。が、ここはひとまず、アントワネットの嫁ぎ先であるフランスの音楽シーンとは当時どのようであったか、時を少し遡りつつ、その変遷をおさらいしてみたい。

『アマデウス』 ディレクターズカット版

NTLive2018『アマデウス』劇場予告編

 

■フランスバロックとオペラ論争

フランスでは17世紀後半から18世紀にかけてのルイ14世(1638-1715)の時代において絶対王政が全盛期を迎えた。そのルイ14世が最初に重用した音楽家は、バレエダンサー出身のジャン=バティスト・リュリ(1632-1687)だった。ルイ14世もまたバレエを踊る国王だった(太陽の恰好で踊ったことから「太陽王」と呼ばれるようになった)。国王はリュリとの舞台共演をきっかけとして、リュリに目をかけた。リュリは一躍、宮廷における音楽面での権力を独占する。1682年にヴェルサイユ宮殿が建設され、宮廷文化が一気に花開くと、リュリはスペクタクル性みなぎるオペラやバレエを多数作った。しかし、ルイ14世が病気になると、派手な音楽(および素行の悪いリュリ)が遠ざけられるようになり、反対に、心癒されるクラブサン音楽を多数書いたフランソワ・クープラン(1668-1733)が重用されるようになった。

ルイ14世没後、ルイ15世(1710-1774)の治世で権勢を振るったのは、国王の公妾だったポンパドゥール夫人(1721-1764)である。才色兼備の彼女は宮廷で優雅なロココ様式の文化を発達させた。その頃に宮廷で頭角を現してきた音楽家が、ジャン=フィリップ・ラモー(1683-1764)だった。「王室作曲家」にまで上り詰めた彼は和声理論を確立し、これに基づくフランス宮廷オペラを多数書いた。代表作としてはオペラ=バレ『優雅なインドの国々』、抒情喜劇『プラテー』、アクト・ド・バレ『ピグマリオン』等々。なお、リュリ、クープラン、そしてラモーらは、音楽史的にはフランスにおけるバロック音楽として位置づけられることとなる。

ラモー: 歌劇『プラテー』[Blu-ray]

同じ頃、ポンパドゥール夫人のサロンにはヴォルテールやディドロら啓蒙思想家が集まるようになった。ディドロの友人の一人だったのが、ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778)。彼の自由・平等の思想は、やがてフランス革命の指導者たちに決定的な影響を与えることになるが、それ以前に彼は作曲家であった。彼が最初に書いたオペラ『優雅な詩の女神たち』(1745)は世間からは概ね好評をもって迎え入れられるも、フランス音楽界の最高権威であったラモーからは酷評された。写譜師でもあったルソーは「数字記譜法」なるアイデアを考案したが、これもラモーから貶された。しかしルソーが反撃を開始するのはこのあとだ。

1752年、イタリアの作曲家ジョヴァンニ・バティスタ・ペルゴレージ(1710-1736)によるオペラ・ブッファ(道化的なオペラ)『奥様女中』をイタリアオペラ団がパリで上演すると、フランスの知識人たちの間で「イタリアオペラか、フランスオペラか」という論争が巻き起こった。この時ルソーは、庶民的自由感覚(と旋律)が大事だとしてイタリアオペラを擁護しつつ、宮廷の伝統(と和声)を重んじるフランスオペラ派のラモー陣営を攻撃した。この間に繰り広げられた大論争が「ブフォン(道化)論争」と呼ばれた。翌年の1753年にはルソーがイタリアオペラ寄りの作品『村の占い師』を発表。おなじみ「むすんでひらいて」の原曲らしきフレーズが入っているこのオペラは、好評を博し、フランスにおけるオペラ受容の潮目を変えるきっかけとなった。

ルソー:歌劇『村の占い師』全曲 CD

さて、これまで述べてきた18世紀の音楽をリアルタイムで奏でていたのは、現代のクラシック音楽の楽器とは異なる、古楽器(ピリオド楽器、オリジナル楽器ともいわれる)である。これらが現代のモダン楽器に改良されたのは概ね19世紀以降である。鍵盤楽器も当時はまだ、音量の小さなクラブサン(チェンバロ、ハープシコード)が主流だった。大音量が出せるピアノは18世紀の後半以降に登場してくる。楽器が違えば当然音の響きも奏法も違う。それどころか、フランスでは調律さえも現代のそれとは異なっていた。現代の調律はA(ラの音)=440Hzが基準だが、18世紀のフランス宮廷では「ヴェルサイユ・ピッチ」といって、Aを低めの392Hzに合わせることが基準だった。

だから当時のフランス宮廷音楽を現代において演奏するにあたっては、特別に「ヴェルサイユ・ピッチ」で調律されることが本来正しい。そして、そのように(オリジナル通りに)バロックや古典の音楽を再現しようという運動が、20世紀後半に、アーノンクール、レオンハルト、ブリュッヘン、ビルスマらによって巻き起こった。その流れにおいて、特にラモーなどのフランスのバロックオペラを現代に復活させることに大きく貢献したのが、古楽器オーケストラのレ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルを率いる指揮者のマルク・ミンコフスキ(1962-)である。悦ばしいことに、ミンコフスキは2018年9月より、私たちの国日本で「オーケストラ・アンサンブル金沢」の芸術監督に就任している。

オーケストラ・アンサンブル金沢 ミンコフスキ芸術監督就任記念公演チラシ

■遊びをせんとや生まれけむ

アントワネットが結婚のためにフランスに来た頃は、ヴェルサイユ宮殿内外では連夜の舞踏会が行われ、貴族たちが豪奢な衣装を身にまとい、優雅な音楽に合わせて踊りを楽しんでいた。若きアントワネットも、宮廷での舞踏会だけでは飽き足らず、わざわざお忍びでパリの街にでかけ仮面舞踏会にも参加した。かのフェルゼン伯爵とのロマンスもそこで生まれた。

当時、舞踏会でよく使われていた音楽は主にメヌエットとワルツだった。どちらも三拍子ながら、両者は別種類の舞曲である。メヌエットは、主に17世紀から18世紀にかけてフランスでの舞踏会で使用されていたダンス及びその舞曲である。起源はフランスの民族舞踊。フランス語で「小さい」という意味の「menu(ムニュ)」が語源で、文字通り「小幅」のステップで一組のペア・ダンスとして舞踏会の中で踊られる。最もポピュラーな踊り方は、男女のペアがフロアにS字形やZ字形を描くもの。また、その舞曲は、舞踏会のみならず、バレエやオペラ、鍵盤楽器や室内楽にも多く取り上げられていた。

一方、ワルツの起源は13世紀のハプスブルク帝国、農民が踊っていたダンスから生まれた。ドイツ語で「転がす」という意味のwaltzenが語源。複数のペアが同じ方向に一斉に回転しながら踊る。男女が体をくっつけて踊る姿が下品と見なされ教会から禁止された時期もあったが、あまりに人気が高く、問題部分を改変して生き永らえた。18世紀には、ウィーンのハプスブルク宮廷でも正式に認められるようになり、そこから周辺諸国やフランス王宮へも流れていったが、当初は大流行とまではいかなかったようだ。世界中で爆発的な人気が出たのはずっと後、ナポレオン戦争終結後の1814年のウィーン会議でウィンナーワルツとして広まったのがきっかけだ(「会議は踊る」!)。そして、その音楽を高度の完成度へと到達させた中心人物こそ、有名なヨハン・シュトラウス二世(1825-1899)だった。

ときに、遊び好きで勉強嫌いのアントワネット、踊りのほかに好きだったのが、やはり音楽だ。「アントワネット様は音楽にばかりうつつを抜かしている」と嘆く記述が、当時のお付きの人間たちの手紙に散見されるほど。とりわけ彼女が好んだのはハープ演奏だったようだ。彼女はウィーンから1台のハープを携えてフランスに嫁いできた。しかしヴェルサイユでは既にルイ15世の娘たちもハープを弾いていた。というのも、18世紀の中頃から、パリでハープが流行り始めていたからだ。アントワネットも、フィリップ・ヨーゼフ・ヒンナー (1754-1805)やクリスティアン・ホッホブルッカー (1733-1800)といった一流のハープ奏者を教師として、さらなるハープの練習に励み、演奏会も頻繁に開催していた。なおハープはこの時代にどんどん改良が進められ、外見もロココ調の華麗で優雅な装飾が施された。アントワネット専任のハープ製作者ジャン=アンリ・ナーデルマン(1734–1799)が作った最高の名器は現在、パリ音楽院の博物館に展示されている。

1774年、ルイ15世死去によりルイ16世が即位し、アントワネットも王妃になると、離宮プチ・トリアノンを国王より贈られる。そこは彼女にとって玩具のような場所だった。彼女はここに籠もり、親しい友人たちと音楽を楽しんだり、果ては離宮内に小劇場を作り、自分の劇団「貴族一座」まで結成して自ら女優として舞台に立つなど、趣味に没頭する日々を送った。

「LA HARPE REINE~王妃のハープ ~マリー・アントワネットの宮廷の音楽」CD

■生き残ったのは誰

ルイ15世が死去する少し前の1774年、グルックの悲歌劇『オーリードのイフィジェニー』がパリで初演される。グルックは、彼の元教え子アントワネットの勧めにより、パリへ勝負しにやってきたのだ。上演に際してはパリの楽壇から抵抗されるなど色々な支障も生じたが、アントワネットが後ろ盾となって無理を通した。初日には王太子夫妻も列席し、「改革オペラ」は一定の成功を収める。だが、この動きを面白く思わなかった勢力がグルックへの対抗として、イタリアから人気作曲家ニコロ・ピッチンニ(1728-1800)のオペラを呼び、「グルックかピッチンニか」というオペラ論争を音楽界に再燃させた。文字通り「グルック・ピッチンニ論争」(または「第二次ブフォン論争」)という。両作曲家に同一の題材でオペラを競作させる企画もあった。しかし当の作曲家同士は尊敬しあっていたし、争点も少々曖昧だったので、この論戦はほどなくして鎮火した。

ひとつ興味深いのは、前回イタリア擁護派だったルソーが、この時はグルックの応援にまわったことだ。グルックがルソーの愛読者だったということもあろう。が、それ以上にグルックの改革オペラは、当時のドイツやオーストリアを席巻していた「シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤運動)」の影響も受けつつ、やがてベルリオーズやワーグナーへと流れが継承されていく、すなわち19世紀ロマン主義を胚胎するものだった。そのエモーションはやがて勃発する革命のパッションとも通底する。その革命の原点となる思想を準備したルソーにとって、グルックの音楽が内在する可能性には心情的に共感できるところが大きかったのではないだろうか。もはや時代の文化潮流は確実に、宮廷依存の古典主義から、民衆の革命エネルギーを孕んだロマン主義へと徐々にシフトしつつあったのだ。

己の身にもふりかかることになる危険な近未来のことなど全く想像だにしないアントワネットは、その後もグルックのエモーショナルなオペラを後押しし続ける。1784年には、グルック門下生で、ウィーンの宮廷楽長になっていたサリエリもパリに進出し、フランスオペラとグルックの改革オペラを融合させたような悲歌劇『ダナオスの娘たち』を初演し、これもアントワネットがバックアップし、王妃臨席のもと成功を収めた。

王妃はグルックやサリエリをプチ・トリアノンに招くこともあった。一緒に音楽演奏を楽しんだのかもしれない。一方、プチ・トリアノンで上演し、王妃自らも出演したオペラとして記録に残っているのは、ルソーの『村の占い師』やモーツァルトの『フィガロの結婚』である。先ほど述べたようにルソーはフランス革命の思想的原動力となった哲学者。そして『フィガロの結婚』は、作者ボーマルシェの書いた原作が貴族社会を侮るものとして王室から危険視されていた作品。そもそもプチ・トリアノンも、ルソーの「自然に帰れ」の標語を表層的に受け止めて造営した人工の自然楽園だった。しかし、もちろん、そこには驚くほど多額の血税が投入されていた。大部分の国民が生活苦にあえいでいた時分に、ヴェルサイユの鈍感というか無頓着というか……そして相も変わらぬ贅沢三昧。国民の鬱憤はどんどん膨らんでいき、1789年7月14日、ついにそれは爆発する。新しい思想と激情を携えた市民たちによって革命の狼煙が上げられたのである。

フランス革命勃発から2年を経た1791年9月、ウィーン郊外のヴィーデン劇場ではモーツァルトの新作オペラ『魔笛』が発表された。この中に登場する夜の女王はマリア・テレジアがモデルで、その娘パミーナはアントワネットがモデルだ、という説がある。この初演に先立つこと3か月前にルイ16世一家は幽閉されていたパリから王妃の母国オーストリアに逃亡しようとして未遂に終わる事件を起こした。フランス国民は国王や王妃に失望し彼らを責め立てた。モーツァルトは『魔笛』を作りながら、子供の頃に求婚した相手が悲惨な境遇にあることにどのような思いを巡らせていたのだろう。しかし、この年の暮れには、彼のほうが先に死んでしまった。そしてまた、他の登場人物たちもどんどん舞台から退場していく。

ルソー 1778年没 享年66。
マリア・テレジア 1780年没 享年63。
グルック 1787年没 享年73。
ヨーゼフ二世 1790年没 享年48。
モーツァルト 1791年没 享年35。
ルイ16世 1793年没(刑死) 享年38。
マリー・アントワネット 1793年没(刑死) 享年37。

アントワネットの死後に、まだ生き残っていたのは、サリエリだ。彼は1825年まで生き延びた(享年75)。門下生だったシューベルトやリストらを育て上げ、ウィーン音楽界の最高実力者となったが、晩年になってモーツァルト毒殺疑惑というありえない汚名を思いがけず着せられることとなる。しかも20世紀後半には、舞台と映画の『アマデウス』により、その噂が再燃する形に。「いくらなんでも、それはあんまりだろう」ということで、学術的な音楽研究の世界では最近ようやくサリエリの作品について再評価も進み始めているが、にもかかわらず意外な場所で奇妙な形でプチブレイクを果たすはめに。アントワネットやモーツァルトも登場する大人気ゲーム「Fate/Grand Order」のキャラとして注目を浴び始めたのだ。そのおかげで、絶版となっていた学術書「サリエーリ 生涯と作品」(水谷彰良・著)までが、なんと復刊されるに至った。同著はこの文章の執筆にあたっても大いに参考とさせていただいた。

アントワネットで始めた話が、サリエリの話でゴールを迎えることになるとは、なんとも想定外で、18世紀の迷走ぶりを実によく象徴している。

「サリエーリ 生涯と作品 モーツァルトに消された宮廷楽長」水谷彰良・著

文=清川永里子



<フランス革命ものエンタメ作品>を楽しむための人物ガイド
https://spice.eplus.jp/featured/0000126682/articles


[主要参考文献]
「ベルサイユのばら」池田理代子 集英社
「マリー・アントワネット」惣領冬実 講談社
「王妃マリー・アントワネット」遠藤周作 新潮社
「王妃マリー・アントワネット」エヴリーム・ルヴェ 創元社
「マリー・アントワネット」シュテファン・ツヴァイク/翻訳・中野京子 角川文庫
「物語マリー・アントワネット」窪田般彌 白水社
「別冊歴史読本/マリー・アントワネットとヴェルサイユ」新人物往来社(特に古山和男氏の文章)
「マリー・アントワネット フランス革命と対決した王妃」安達正勝 中央公論社
「フランス革命の肖像 」<ヴィジュアル版> 佐藤賢一 集英社
「サリエーリ 生涯と作品」水谷彰良 復刊ドットコム
「クラシックコレクション94/グルック」ディアゴスティーニ
「ジャン=ジャック・ルソーと音楽」海老澤敏 ぺりかん社
「オペラ魔笛のことが語れる本」金子一也 明日香出版社
「アマデウス」ピーター・シェーファー/江守徹・訳 劇書房
「わたしたちの音楽史」フリードリヒ・ヘルツフェルト/渡辺護・訳
「クラシックがわかる世界史」西原稔 アルテスパブリッシング
「西洋音楽史」門馬直美 春秋社
「詳説総合音楽史年表―音楽を世界の歴史からグローバルにとらえる」皆川達夫/倉田喜弘 教育芸術社
「図解音楽辞典」角倉一郎 白水社
「西洋史の諸問題」兼岩正夫 東海大学出版会
「音楽史」真篠将 全音楽譜出版
「新音楽史」H・M・ミラー 東海大学出版会
「西洋音楽の歴史」高橋浩子 中村孝義 本岡浩子 綱干毅/編著
「ものがたり西洋音楽史」 近藤 譲 岩波書店
「グルック=ピッチンニ論争について」今井民子 CiNii論文
ほか、インターネット上のウィキペディア等、多数。