東京デスロック主宰・多田淳之介に聞く──場づくりの演劇『Anti Human Education』
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東京デスロックを主宰する多田淳之介。構成・演出を担当する。
「人はいかに作られるのか」について、東京デスロックの多田淳之介が、みんなで考えるための場所を設定する。人が人になるためには教育が不可欠だが、現在、教育はどのように変わりつつあるのか。子育てや教育の現場を取材し、最前線で活躍するゲストにも日替わりで参加していただき、教育の理想と現実について考える。
タイトルの意味について
──まず、『Anti Human Education』というタイトルですが、Human Educationは「人間教育」という意味でいいですか。それとも、Anti Humanでいったん切れて、それからEducationとなるんでしょうか。
そうですね。まず、Anti Humanでセットかなと。
──とすると、反人間、反人類……。
Anti Humanは「反人間」「人間ではない」という意味と、医学的な抗体の意味「抗ヒト」という両方の意味合いがあります。
──「抗ヒト」というのは「人に対して用いる」という意味ですか?
そうですね。「人に使う」「人を治すための」という場合にも使います。
──ということは、Anti Human Educationは、直訳すると「人を治すための教育」という意味になりますね。今回はタイトルにEducationが入っているので、教育をテーマにしたお芝居があり、さらに多彩なゲストを招きつつ、構成される感じを予想しているんですが、ゲストとして登場される方々は、終演後のアフタートークに出られるわけではないんですよね。
そうですね。作品のなかでご出演いただきます。
──すると、ある何かの設定に沿って質問していく感じになるんでしょうか。
たぶん、ゲストによっても、出てもらいかたは変わるとは思っています。
──それはある程度、舞台が進んだ後ですか?
ドあたまじゃないとは思うんですけど……(笑)。
東京デスロック公演『Anti Human Education』のチラシ。
ルソーの『エミール』を出発点に
──わたしも教員免許を取得するさい、教育学概論の授業で、課題図書としてルソーの『エミール』を読みました。『エミール』は1762年に発表された小説で、『社会契約論』を書いたジャン・ジャック・ルソーの作品です。
『エミール』といまの教育はつながっているところがあるので、まず、考え方のスタートとして『エミール』から始めています。もちろん『エミール』に書かれていることは、貴族の子供をどう育てるかみたいなことなので、いまの日本で実現するのは絶対無理なことだったりしますが、ある種の理想ではあると思うので、ひとつの軸と考えたいとは思っているんですけど。
──当時の教育観は、たとえば、モーツァルトやゲーテの幼少期のように、大人みたいな子供、早熟な神童がよいとされ、ものすごく暗唱できたり、計算能力が高かったり、なんでもできる子供が模範とされていたんですが、ルソーの『エミール』を機に、子供は子供であるがゆえに価値があるという考えかたに変わっていきます。
いつまで子供なのかということ……いま、いくつになっても子供という大人たちがいたり。これは本人がというよりも、家族とか親との関係が影響してますけど……。
──依存する部分が多くて、なかなか独立できないところがあるかもしれない。
そのへんも要素としては入ってくるだろうと思いますね。今回はいわゆる物語がある演劇ではない。ちょっと演劇を使ってレクチャー的なシーンをしたり、ゲストを交えてお話を聴くシーンがあったり、いろいろなシーンで構成しようかなと思っているところです。
ゲストも中学校や高校の先生だったり、保育園の園長さんだったり、それぞれ教育の対象となる子供の年齢がちがったり、学校も公立、国立、私立とバラエティには富んでいるので、いろんな角度から子供と教育のことを見られればいいかなとは思っています。
当事者ではない人たちと教育をどうつなげるか
ぼくの子供が4歳で、子育てをしている最中なので、もちろん教育には興味があります。それから、演劇をやっていると、学校にワークショップで行くので、教育とは無関係ではない。
──以前に比べると、そういう機会も増えてきましたね。
でも、ぼくたちの演劇を見にくるお客さんのなかには、子育ての当事者じゃない人がけっこういると思うんです。特に、平日の夜公演を見に来られる人とか。お子さんがいない人もけっこう多いし、教育は当事者のなかでは問題意識もあるし、興味もあったりして、なんとかしようという動きはあるんですが、その一方で、当事者じゃない人たちにとってはわかりにくいものだったりする。
実際に自分に関係がないと興味も持てなかったりするんですけど、そういうところも個人的にはなんとかできないかなという思いがあります。教育のことを教育の当事者じゃない人たちにどう接続できるのか、それができたらいいなと思っています。今回、出演するメンバーは、全員子供がいないんですね。
──5人とも?
出演者は全員。それで彼らの話を聞きながら、子供がいない場合はどうなのかを考えたりしています。
それから、ゲストに来てくれる人たちの学校とか職場にお邪魔して話を聞いたり、インタビューをさせてもらったり。ぼくが教育について気になるところと、子供のいない人たちとでは、そこから受け取るものもちがうので、そこは面白いなと思っています。日本の教育のどこに問題があるのかも、それぞれメンバーによって着眼点が違ったりしています。
──髪の色についての理不尽な校則とかも、ありますよね。
そこをいま寄せ集めて、いろいろ見てる途中です。教育基本法では「教育の目的」を「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」(第1章第1条)としていて、それは当然そうなんですけど、公教育がそれを実現できているかというと、実際ぜんぜんできていないんじゃないかと。
家庭教育と学校教育
家庭教育と学校教育とが、幼少期の二大教育なので、このふたつはちゃんと扱おうと思っています。いわゆる凶悪犯罪をおかした人たちの生い立ちを調べると、学校でも家庭でも本人は気づかなくても問題を抱えてしまっているパターンが多い。もちろん、家でも学校でもうまくいかなくても、ちゃんとした大人になってる人もいっぱいいますが、社会的にドロップアウトしてしまい、家庭にも居場所がないと、社会への不満や恨みが犯罪として出てきてしまうことがほとんどです。いじめの問題とかも、ずいぶん昔からあるのに、まだ全く対処しきれていないですよね。
──セーフティネットも、どこまで機能しているかわからない。
そこでどうするかみたいなことを、今回は考えてみたい。まあ、正解があれば、もうだれかがやっているので、正解を探したいわけではないですが。
──そういった問題を、演劇を通して考えるんですね。一例として、先日、早稲田小劇場どらま館で聞かせてもらった、いしいさんのお話を中心にして考えてみます。いしいさんは、教育は基本的に言葉を通しておこなうものだけれど、体を鍛えると、頭もはっきりし、心も変わって、自分の意見を持てるようになるとおっしゃっていました。
演劇の場合、ぼくもよくワークショップをしに行きますが、教育といったとき、技術だったら教えればいいんですけど、育てるとなるとまた違ったアプローチが必要です。いしい先生がやっているのは、生徒たちが筋トレすることで気づくというところ……そうすると、彼らは育っていく。
──「筋肉は裏切らない」と、常におっしゃってますよね。
だから、いしい先生は、子供たちを信じて、彼らが自立することを願い信じている。演劇のワークショップもそういうものだと思います。ぼくらは技術を教えにいくのではなく、それは「人間とは何か」を考えるためのワークショップだったりする。相手の気持ちを想像するにはどうしたらいいだろう、コミュニケーションって難しいよね、でも、できるようになったらうれしいよね、できない自分を否定するのではなくて、悩むのは当たり前だから健全に悩もうねということを伝えにいくみたいな……。
──なるほど。できるようになるための素地みたいなものを整えにいく。
そうですね。
──そうすると、それは育てるというより、育(はぐく)む感じですね。
子供の環境がすごく偏っているといるとき、本来は家庭のなかで、その子がどうあっても受け入れてくれるのがいちばんいいんですけど、そうじゃなかったりもする。生きているだけで肯定されるみたいな場所があるのは、アートのいいところだと思います。
ワークショップは多様な価値観と接することができる時間
──もうひとつ、いしいさんのお話で面白かったのは、ゲストにプロの演劇人を呼ぶということ。自分たちとはちがう価値観を持ったプロが、ちがう視点から見ることで、生徒の長所を見つけてくれるとおっしゃってました。
メンバーの受けてきた生い立ちや教育の話を聞くと、自分に影響を与えたのは、先生もそうですけど、それよりも知りあった大人の存在が大きかったという話が出てきて、ぼくも実際、そう思います。ぼくらが学校へ行くときは、先生じゃないし、演劇を仕事にしてる謎の大人たちで、そのまま思ったことをしゃべるようにはしています。
それから、本当に価値観が多様性を失いつづけているのも問題ですよね。勉強できないとだめ、お金がないとだめ。本当に数字だけで判断すると、お金がないと高学歴になりにくいという結果は完全に出ているわけで、低学歴の人が社会をドロップアウトしていく数は大きい。学歴で社会にコミットできるかどうかが決まるなんて本来はおかしい。たとえば、お金がなくて大学行かなくても幸せな人生はおくれる、実際おくっている人もいるわけですが……。
──でも、全体から見ると、多数ではない。
少数ですね。結局、一般的には、お金を稼げるようにならなきゃいけない、さらに成功しないといけないみたいな……。
──勉強ができないと、収入が高い職業に就きにくくなる。そういう成功経験のある親は、そのためのノウハウを知ってるので、有利に働く。そういった環境面も大きいと思います。本当は勉強が苦手な人にもがんばってもらって、社会的な弱者とはどんな存在であるかを知っている人ほど、みんなのことを考える仕事に携わってもらいたいと思うんですけど、なかなかそうはいかないですね。
そうですね。公の仕事をする人たち、いわゆるエリート層が多様な人間に会って育っていないという……。
──いまはフリースクールも増えましたし、2016年12月に教育機会確保法が制定されて、休養の必要性とか、学校以外の場の重要性が認められるようになりました。
今回、来ていただく人たちの現場も、ちゃんと社会の問題に応えていることをしていて、「はじめ塾」は寄宿型の私塾なのでフリースクールなんですが、ちょっと教育が面白すぎる。もちろん、学校に行ってない子供たちも通ってきているんですけど、ふつうの子供もエリートの子供も通っていて、ぼくはいろんな子供たちとワークショップをしましたが、いちばん優秀だったのは「はじめ塾」の子供たちでした。いちばん他人(ひと)のことを考えられて……。
──それは立派ですね。
それがふつうの学校の子供たちじゃなくて、フリースクールの子たちだったというのが、なんだか皮肉ですよね。
このまえも夏合宿をしていて、だいたい40~50人が1カ月ぐらい共同生活をするんですけど、変なグループがいっさいなく、全員が全員と仲良くできる。小学生から高校生までいるんですけど。
教育は未来へとつながる
──以前『シンポジウム』というタイトルで、プラトンの『饗宴』を元にした観客参加型の対話劇を上演されましたが、あんな感じの舞台になるんでしょうか。
そうですね。あれは近いかもしれないです。
──視覚的にも、スクリーンや壁に発言者の映像が投影されるなか、参加者がみんなで教育について考える。
教育について考えることが、結局、人間とは何かにつながってくるので、そこが面白いなと思っています。たとえば、教育の当事者でない人も、自分が受けた教育について考えることや、いま最先端でおこなわれている教育について考えることは、自分自身のことを考えるきっかけにもなったりすると思います。
先日、いしい先生に、当事者じゃない人たちにどうやって教育に興味を持ってもらえばいいかを質問したところ、それは自分が要介護になったときに、どんな介護士さんに来てほしいかを考えたら、絶対に興味が出るはずだ。自分に介護が必要になったとき、介護してくれる介護士さんは、いまの赤ちゃん、あるいはまだ生まれていない子供の世代になるけれど、その子たちが他人(ひと)の気持ちのわからない人でもいいのかという問題にもつながると。
──どんな価値観の持った人が介護に来てくれるかで、未来の自分が置かれる状況がものすごく変わってきますね。
いま、他人(ひと)の気持ちが想像できない子供が、どんどん育っているわけですよね。ちゃんと他人(ひと)の気持ちが想像できるための教育体制が、全般的には敷かれていない。結局、競争して、排除、脱落だけが進んでいく。このままだと、そういう人たちが介護しに来ちゃいますよという……。
──まわりまわって自分に戻ってくることでもあるし、自分も社会の一員なので、よりよい街や社会を作るためには、どうしても教育が大切である気がします。ところで、『Anti Human Education』は演劇なのか、それとも、シンポジウムなんでしょうか。
東京デスロックが物語や戯曲を上演するときもありますけど、戯曲を使わない今回みたいなことは「場づくり」なんです。演劇を使って、お客さんたちにどういう場を作るか。
その都度、見に来られる人たちとどういう場を作れるかを考えながらやっているので、いま、われわれが考えていることとか、日本で暮らしている生きづらさとか、そういったことに有益な時間になればいいですね。教育に興味ない人も、ちょっと覗きに来てもらえると、いろいろな発見があったりするんじゃないかな。このゲストの人たちは、どの方もかなり面白いので、何回来てもらってもいいと思います。
取材・文/野中広樹
公演情報
■構成・演出:多田淳之介
■出演:夏目慎也、佐山和泉、伊東歌織、原田つむぎ、松崎義邦
■公式サイト:http://deathlock.specters.net/