中西学、引退!新日本プロレスの歴史を繋いだ野人

2020.2.25
コラム
スポーツ

photograph by Yasutaka Nakamizo

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地球上最後のネアンデルタール人、リアル猿の惑星、リアルドンキーコング、野人……これほど多くの呼び名で愛されたプロレスラーが過去にいただろうか。

2月22日、後楽園ホールで新日本プロレスは「中西学引退記念大会」を開催した。指定席はファンクラブ先行販売のみで完売。なお新型コロナウィルス感染症の流行懸念から、事前申込制のTeam NJPW会員撮影会は抽選当選者にも数日前に中止のメールが届いていた。当日の客席も多くはマスク姿だ。今後、世の中がどうなるかは誰にも分からない。毎日スポーツ新聞を買いにコンビニへ行ったついでに、マスク入荷してねぇかな……なんて思ってしまうセコい自分が嫌になっちまう。ただ、いつの時代も憂鬱なニュースが多い時ほど、人は日常と非日常の境界線に存在するプロレスを見たくなる。

現在53歳の中西学は1992年バルセロナ五輪フリースタイル100kg級日本代表という輝かしい経歴を持ち、新日本プロレス入団後の同年10月に藤波辰爾のタッグパートナーとしてデビュー(コスチュームはレスリングタイツにヘッドギア)。身長186センチ、体重120キロの日本人離れした体格を誇るヘビー級レスラーとして将来を嘱望された。

99年のG1決勝戦で武藤敬司をアルゼンチン・バックブリーカーで破った初優勝、09年に棚橋弘至に勝利して掴んだプロ17年目の初のIWGPヘビー級王座、12年10月に両国国技館で中心性脊髄損傷の大ケガからの復帰戦、巡業中にTwitterでアップされるクレイジーな量の朝食バイキング写真モンスターモーニング、なんだかよく分からない中西ランド……と思い出のシーンは数多いが、個人的に印象深いのは2000年代前半の中西の姿だ。

伝統の“ストロング・スタイル”を託された男

2002年10月4日、東京ドームで新日本と外敵軍シングル七番勝負でのボブ・サップ戦、ぎこちなく危険な野獣サップの荒いビーストボムやドロップキックを受け、リングアウト負けを喫する野人・中西。

格闘技ブーム真っ只中2003年6月29日、K-1 BEAST IIでは「K-1行って来い!」なんつって猪木から闘魂ビンタを食らい、お前はそれでいいや的に雑に送り出されると、元世界アマチュア相撲準優勝者のTOAに滅多打ちにされ前のめりに崩れ落ちる壮絶なKO負け。現地で試合を見つめる蝶野正洋や永田裕志の「なんでこんなことやらせるんすか……」という表情が印象的だった。

そして2005年1月4日、東京ドームの第7試合「アルティメットロワイヤル 8選手参加U・Cルールバトルロイヤル」。通常のリング上で2試合同時に総合格闘技の試合を進め、8人トーナメントで優勝者を決める特別ルール。いまだに暗黒期の象徴と語られるズンドコ大会だが、あれはロン・ウォーターマンvs成瀬昌由と中西学vs矢野通から始まっている。

アーミーパンツ姿のソルジャー中西に対し、矢野はレスリングベースの堅ぇ動きで淡々と戦い敗北。場内が唖然としていると次の試合の4人が入れ替わりでリングに上がる。誰だってこんなことをしていたら明るい未来が見えないことに気付くだろう。

その後、中西はフロントチョークであっさりロン・ウォーターマンに負けて、永田は朝青龍の兄ドルゴルスレン・スミヤバザルやブルー・ウルフと戦う。今、こう書いていても救いようのないカオスだが、このどうしようもない混乱期に新日を支えたのが永田や中西である。古き良きデカくて強くて信じられないくらい食べて少し天然のプロレスラー。

ある意味、“昭和のストロング・スタイル”を平成で託されたのが中西学だったわけだ。そして、時代は令和に突入し、その役割を終えた。

 

2月9日にはプロデビューの地、大阪城ホールの花道を歩いた

中西は愚直なザ・プロレスラーだった

正直、中西がプロレスと格闘技の狭間で苦悩していた頃、当時20代のファンからしたら野人は中邑真輔や柴田勝頼と比べるとどうしても古く野暮ったく見えてしまった。PRIDEやK-1が隆盛を極めた時代の波に飲み込まれた不器用なベテランに思えたのも事実だ。でもあの09年にIWGPヘビー級ベルトを獲った時、中西は42歳でセコンドに付いていた永田は41歳だったが、気が付けば2020年の今の棚橋が43歳である。

もちろん、リング上のレスラーたちだけでなく、自分も思いっきり中年男になっちまった。で、真夜中に柿ピーと缶チューハイ片手に新日本プロレスワールドで、2000年代の中西の試合を見るとまた当時とは違った感想を抱く。

会社の都合に振り回され、それでも男は黙ってリングに立ち、文字通り身体を張り激しい批判も浴び、ボロボロになりながら次の世代に継承した。それってめちゃくちゃ格好いい生き様ではないだろうか。今、あの頃の中西の年齢になって、己の青さが身に沁みる。ガキの俺は何も分かっちゃいなかった。とてもじゃないが傾きかけた組織の中でそんなハードな役割をこなす自信はない。で、思うわけだ。中西学の愚直すぎる27年間のプロレス人生の濃さを。

ゴメン野人、ありがとう上からドン。だから、様々な感情を乗せ中西の引退試合は特別リングサイドのを買った。メインイベントは中西を中心に永田、天山広吉、小島聡ら第三世代の4人が集結し、8人タッグマッチでオカダ・カズチカ、棚橋弘至、飯伏幸太、後藤洋央紀組と対戦。野人は最後に後輩たち4人全員のフィニッシュホールドを順番に受けて派手に散った。試合後には坂口征二、長州力、藤波辰爾、馳浩らレジェンドが駆けつけ花束贈呈。リング下で棚橋や柴田といった第三世代からバトンを継承された彼らが涙を堪えているのが印象深かった。

令和2年、ライガーがリングを去り、そして中西もいなくなる。時計は容赦なく進んでいく。今後、新日本プロレスはこれまで以上に世界展開へ邁進するだろう。でも、それを可能にしたのは冬の時代に中西学のようなプロレスラーが必死に歴史を繋いだからだ。

暗黒期に覚悟を決め、消えかかった炎をギリギリで守り抜き、微かな明かりを照らした。彼もまた平成新日史に残る炎のファイターのひとりだ。心から、お疲れさまでしたと惜別と感謝の拍手を送りたい。

後楽園ホールで、野人は「一度プロレスをしたからには、死ぬまでプロレスラーやと思ってますんで!」と別れの言葉を残したが、俺らも一度プロレスを好きになったからには、覚悟を決めて死ぬまでプロレスファンであり続けたいと思う。