ENDRECHERI、高橋優、KYONO、GENERATIONS等、幅広いジャンルのサポートでも活躍するUZMKのドラマー・DUTTCH。その活動遍歴に迫る【インタビュー連載・匠の人】
DUTTCH
プロフェッショナルなミュージシャンたちに迫る連載「匠の人」。今回登場するのはDUTTCH。ミクスチャー・ロックを国内に広めたバンドのひとつ、宇頭巻(現UZMK)に2001年に加入、その10年後からはサポート・ドラマーとして堂本剛のENDRECHERI、高橋優、KYONO、DOBERMAN INFINITYやGENERATIONSなどで活躍中。
ジャンルを越境していく柔軟さと、どこで叩いてもDUTTCHだとわかる記名性を併せ持った、でっかいグルーヴのドラムは、どんなキャラクターから生まれるのか、迫れるだけ迫りました!
──ドラムを始めたきっかけは?
もともとは僕、和太鼓出身なんですよ。生まれたのが大阪の泉州地区で、その中に岸和田のだんじり祭りとかもあって。うちの親父が音頭取りで、小学校の時に「太鼓をやれへんか?」って言われて。盆踊りとかで和太鼓を叩くんですけど、それをずっとやってて、6年生ぐらいで名取をもらって。
──うわ、本物なんですね。
演歌歌手の方が歌う時に、叩いたりしてたんです。で、ずっと太鼓をやってて、高校生になった時にバンドブームが来て、ドラムを始めたっていうのがきっかけです。
──普段のプレイの中に和太鼓のエッセンスが入るとかは、あります?
ジャズの人とセッションした時に、自分では普通に4ビートを叩いてるつもりなんですけど、「きみのスウィング、変わってるねえ」って言われました。ちょっとハネてるらしいんですよね、だんじりのビートで。
──高校時代のバンドは?
BOØWYのコピーから入って。そのちょっとあとにハードロックが流行って、ミスター・ビッグとか、レーサー・エックスとか、イングヴェイ(・マルムスティーン)とか、やってましたね。
──ドラムは独学ですか?
最初は独学です。でも、高校3年生ぐらいの時に「やっぱりちょっと習わなあかんぞ」って思い始めて、ヤマハのPMSっていうレッスンに通うんです。そこの先生がポップスのドラマーやったので、自分もポップスが好きになって。それで、ポップスとか歌謡曲みたいなバンドをやって、そのバンドで上京するんですけど。
──大阪ではどのへんで活動を?
ワンマンだと、アムホールやベイサイドジェニーとか。
──1000人以上入るハコじゃないですか。人気あったんですね。
それで事務所から話があって、23歳で東京に出て、デビューしたんです。あまりにも今と違いすぎて、もうネタにしてるんですよね。これです(スマホでそのバンドのアーティスト写真を出す)。
──うわあ!(今で言うflumpoolのような4人組。DUTTCHも、同一人物とわからないレベルでシュッとしている)。
(笑)。当時、大阪では、城天というのがあったんですけど。大阪城公園でライブを。
──ああ、シャ乱Qとかがやってた。
そうです。そこから上京してデビューしたんですけど、結局何も起こらなかったですね。東京に出て2年で解散しました。
──それからどうやって宇頭巻と出会うんですか?
ボーカルのjuu(獣)と僕、同級生なんですよ。juuが昔やってたバンドと、僕のバンド、よく対バンしてたんです。城天でやってた頃も、俺の後ろにいっつもjuuがおったんですよ、俺のドラムを見てて。「今度俺、宇頭巻ってバンド組むねんけど、入ってくれへん?」って誘われてたんですけど、「俺、ハードコア嫌いやから」って断ってたんですね。それから何年か経って、僕のバンドが解散して、居酒屋でバイトしてる時に、お客でバンドマンが入ってきて。関西弁でしゃべってて、「あ、関西人や」と思って、話しかけたんですね。「バンドやってんの?」「はい。ハードコアです」って……僕、唯一知ってるハードコアのバンドが、宇頭巻やったんで、「宇頭巻って知ってる?」ってきいたら「むちゃくちゃ好きです、僕juuさんが好きで」って。でも当時僕、juuって名前を知らなかったんです。
──ああ、本名しかわからない。
そう。「そのメンバーは知らんけど、ライブ行って俺の名前出せば、あいつはわかると思う」って言ったんですよ。そしたらその子ら、すぐまた店に来てくれて、「ライブで言ったら、juuさんがその人でした。『電話くれ』って番号預かったんで、渡しに来ました」って。で、電話かけたら、「久しぶりにセッションせえへん?」って言われて、行ってみたら、昔と違ってムキムキになったjuuが(笑)。で、一回音を出してみたら、「今、ドラム探してて。おまえ、サポートでもええから入ってくれへんか?」って言われて。「俺、ハードコア嫌いやし」「いや、今、ミクスチャーってジャンルがあんねん」って……ミクスチャーって言葉も知らんかったんですよ。「今度リンプ・ビズキットとやんねん、リンキン・パークとやんねん」って言われても、「誰それ?」っていうぐらい、全然知らなくて。
──(笑)。
で、「カリフォルニアに(Hed)P.E.っていうバンドがおる、俺らが大好きなバンドで、来日して今度クアトロでライブがあるから一緒に観に行かへん?」って。で、観たら、めちゃくちゃかっこよくて。鳴ってる音はラウドで、ラップが入ってて、リズムのグルーヴはファンクでっていう、ジャンルが入り混じってるのにすげえ衝撃を受けて。それで、このジャンルにチャレンジしてみようと思って入ったんです。だから、居酒屋でそのお客さんに話しかけなかったら、宇頭巻に入ってないですね。
──じゃあ、日本中のライブハウスを回るツアーとかは、宇頭巻に入ってからが初めて?
初めてでした。最初はメンバーに「音ちっちゃい!」って言われましたけど、一回ツアー回って、慣れていって、それから2年ぐらいで、今の体形になって(笑)。ツアーで行く各地で美味しいものを、メンバーに「これが美味いねん」って勧められて食べてるうちに。
■ドラムだけで生計が立つようになったのはこの何年かです
──最初のサポートの仕事って誰だったんですか?
いちばん最初は、KenKenから声がかかったんですよ。2011年かな。KenKen、RIZEに入る前から知ってて。あいつのソロ、INVADERSのライブで叩かないかって誘ってくれて、何回かやったんですけど──。
──あ! それ、下北沢CLUB Queで観ました。
外の仕事はそれが初めて……仕事じゃないか。その時は友達感覚で、ギャラも「タダでもええよ」っていう感じで、「今日はけっこう入ったから」って渡される時もある、とかで。
──じゃあ当時はバイト生活?
バイトです。っていうか僕、ずっとバイトバイトの生活ですよ。ドラムだけで生計が立つようになったのは、この何年かです。
──じゃあ、ドラムが仕事になり始めたのは?
でかかったのは、堂本剛くんですね。INVADERSで一緒やったスティーヴ エトウさんが、僕のドラムが自分のパーカッションと合う、って言ってくれて。剛くんが奈良で50日ぐらいのライブをやるっていう時で、「ちょっと叩いてみない?」って。メインのドラムは屋敷豪太さんで、豪太さんが出られへん時のトラ(代役のこと)やったんですよ。
──うわ、それはプレッシャーですね。
だから、正直言って、一回目のライブは憶えてないですね。もうプレッシャーがえぐくて。「豪太さんみたいに叩かなあかん」っていうことばっかり考えてたんですよ。で、1日目のライブが終わってからは、ショックでずっと俯いてました。
──うまくできなかった?
うまくできなかったです。でもその時に、キーボードの十川(ともじ)さんに、「DUTTCHは豪太さんみたいになりたいの?」「はい、やっぱり豪太さんのトラなんで」「いや、DUTTCHはDUTTCHのドラムを叩かなきゃダメだよ」って言われたんですよ。もうそこでスパッと楽になったんです、考え方が変わって。それで、翌日のライブは、自分なりに叩いたし。剛くんの現場でツインペダルでツーバス踏んだのは俺だけなんですけど、「何も気にすることないねや」と思って。ちゃんと自分なりのドラムを提示するのが、ミュージシャンとして正解なんやな、と思えて。今でもその十川さんの言葉は、脳に残ってます。
■小学校の時の和太鼓の経験が今活きてるんです
──高橋優はいつからでしたっけ?
2013年の末からなんですけど。それは、ONE OK ROCKのTomoyaから電話がかかってきて、「DUTTCHさん、高橋優って知ってます?」って。名前は知ってたんですけど、GO!GO!7188のターキーが叩いてたから。高橋優がTakaとTomoyaと飲んでる時に、歌心があってロックなドラムを探してるっていう話をされて、ふたりが「あ、DUTTCHさんや!」って、俺に電話をかけてくれたみたいで。
──やってみていかがでした?
全然違うジャンルじゃないですか? 初日のリハーサルの時に、「俺、音でかいよ?」って言ったら、「気にしないで思いっきり叩いてください」って言うから、最初に一回思いっきり叩いたら、それよりでかい声が飛んできたんですよ。「うわ、こいつ、すごい!」と。そこでピタッて合った感じでした。
──堂本剛の時以降、その場に合わせた器用なドラムじゃなくて、「僕はこうです」というドラムを叩くことを心がけている?
そうですね。で、結局、何が活きてんのかなと思ったら、和太鼓なんですよね。盆踊りってその現場に行ってその時に叩くだけ、リハも何もない、歌い手さんがどういう歌を歌うのかも知らない、ほんまにセッションなんですね。だから、歌ってる人の心情やったり、どういう感じで歌ってるかっていうのを、その場で読み取って叩く。それが身体に染みついてるのが、今、活きてるんです。ボーカルがウワーッて歌うなら俺もウワーッて行くし、静かに歌うなら俺も静かに叩いてる、っていうだけなんですよ。僕は自分のことを「感情ドラマー」って言ってるんですけど、それもそういうことで。
──だからジャンルを越境して叩ける?
そうやと思います。ラウド・ロックやってるドラマーと話すと「歌ものは叩けない」って言う奴も、けっこう多いんで。
──という中で言うと、KYONOさんはUZMKと近いジャンルですよね。
そうですね……これ、言うてええんかな……まあええわ。うちのメンバーが……特にjuuなんですけど、「サポート、ラウド・ロックはやめてくれ」って言うんです(笑)。
──ああ、でも、わかりますね。
だから、KYONOさんから「ドラム叩いてくれない?」って言われた時に、一回juuに確認したんです。「サポートの話があって、ラウドやねん」「それはあかんぞ」「でもKYONOさんなんや」「おまえ、やらんかったら殺すぞ」って(笑)。「KYONOさんは別や、それは光栄なことやからやれ」って。KYONOさんがいつも言ってくれんのは、「DUTTCHは歌いやすい」って。それって俺からすると、まさに、今までやってきたことが身になってるというか。ドラムってだいたいボーカルの後ろじゃないですか。僕、いつもボーカルの人の足下を見るんですよね。その人がどういうリズムをとってるかが、だいたいわかるんで。そこに合わせるのは、常にやってますね、シーケンスが鳴っていても、それ以上に足に合わせる。
──そういえばシーケンスの入っている現場、多いですよね。UZMKもそうだし。
そうなんですよ。でも、それで結局、グリッドに合わせることばっかりやってると、四角四面で、飛び抜けてるもんがないように感じちゃうんですよね。だから、「シーケンス鳴ってんのにグルーヴィーやな」って言われるのが、最高で。
──最近、UZMKがまた動くようになりましたよね。
はい。宇頭巻からUZMKに変わって、メンバーも何人か変わって、最近ギターのYoshioが作ってくる曲が、すっごくいいんですよ。で、コロナになって、いろんなバンドがライブをしなくなって。そんな中で、ライブハウスを助けるっていうとおおごとになっちゃうんですけど、コロナが始まった時に排除されていったじゃないですか。これは何かせなあかんな、と。juuが「今は俺らはライブして、発信し続けることが大事や」って言ってて、それは僕も一緒やったんで。今は、SNSがある以上、いろんな発信のしかたがあるじゃないですか。「動いてるぞ!」っていうのを見せたいから、いろいろやってるんだと思います。
■ボーカルが歌いにくいドラムは最悪だと思ってる
──DUTTCHさんにとってのドラムヒーローは?
いちばん最初に見習ったのは、やっぱりBOØWYの高橋まことさん。「楽しそうにドラム叩きますね」ってよう言われるんですけど、それはまことさんを観てたからでしょうね。
──近い世代とか、後輩とかではいますか?
最近だとやっぱり、King Gnuの勢喜遊でしょう。インスタをフォローしてるんですけど、俺がする前に向こうもしてくれてて。彼のインスタ観てると、たまにドラムが上がってて。とか、テレビで観たり、ライブで観たりした時に、捉え方がちょっと変わってるというか。特に機械音楽は……さっき言うたように、グリッドに合わせるドラマーが多いんですけど、彼の場合は、その上で、こういう音を鳴らしたい、っていう感じがドラムに出てるんです。だからもう、ドラムっていうより、ボーカルに見えるんですよね。すっげえ歌ってるんですよ。それが観てて気持ちいいっていうか。その前は俺の中ではSATOKOが一番でしたね。あいつもやっぱり、お父さんが手数王(菅沼孝三)で、FUZZY CONTROLっていうロック・バンドをやっていたのが、今ドリカムで叩いていて。歌ものを叩いてる時のSATOKOを観た時に「うわっ」て思ったんですよ。ただうまいだけじゃない、捉えてるとこをしっかり捉えてる。僕、必ずボーカルに「歌いにくかったら言ってね」って言うんです。ボーカルが歌いにくいドラムなんて最悪やと思ってるんで。
──あと、LDHの仕事、DOBERMAN INFINITYとGENERATIONSもありますよね。
はい。剛くんで一緒にやってるキーボードのSWING-Oに誘われて。ドーベルで、ヒップホップでEDMも入ってる、合うドラマーは誰?ってなった時に俺の名前が挙がったと。で、LDHつながりでGENERATIONSなんですけど。ドーベルは、音楽的にUZMKにちょっと近いんで、なじみやすいのと、関西人同士なんですぐ意気投合して、ノリが作れたんですけど、GENERATIONSは、ここ何年かでいちばん悩んだんですね。感情ドラム、感情をどれだけ乗せられるか、っていうので叩いてきたんですけど、GENERATIONSはいきなりドーム・ツアーで。LDHのドーム・ツアーってバンドのメンバーが見えないんですよね。
──ああ、確かに!
見えるのはベースだけ、あとは画面上で見て合わす、もうゲームみたいな感じなんです。ましてやEDMで、シーケンスが鳴ってる上にドラムを足していくので。どっちかというと、自分のドラムを殺さなあかんていうか。僕の中で「えっ、感情を無にして叩かなあかんのか」っていうことが、すごいプレッシャーで。今までやったことないことやったんで。っていう時に、うちの嫁に「感情なしってことも感情のひとつじゃないの? 感情をなくすっていう感情もあるよ、それも自分の中で取り入れてみたら?」って言われて。その時にまたスイッチが入って、無で叩くっていうより、「感情なしの感情ってどうやろ?」っていうことを考えて叩くっていう。剛くんとかの「どんどん好きなことをやってくれ」っていうのとは真逆で、決まったことを正確にやって、且つちゃんとバンド感も出さなダメなんで。自分の中では苦労しましたね。でも結局は、ほんまにドラム叩くことが大好きなんで。叩けることがうれしいので。僕インスタにも「本日もこうして叩けることに感謝」って──。
──ああ、いつも書いておられますよね。
感謝せなあかんぞ、あたりまえと思うなよ、っていう。それがドームだろうが、ちっちゃいカフェで叩こうが、ドラムに向き合ってることには変わりがないので。
──そう思うということは、感謝を忘れた時期があったということですよね。
上京して、バンド解散して、でもまわりに「きみはドラムを続けた方がいいよ」って言ってもらえて、ちょっと天狗になってたんです。したらその時に──僕の中では師匠なんですけど、濵田尚哉さんのクリニックがあって、ドリカムとかで叩いてた人なんで、ミーハーな気持ちで行ったんですよ。そしたら、やっぱりドラム、すごくて。「でも俺も自信あるぞ」と思って叩いたら、いきなり「だから関西ドラマーは嫌いだよ」って。「おまえのドラム、ダメ」って、もうけちょんけちょんに言われて。
──(笑)怖い!
そのあと、ミュージシャンの集まりに「飲みに行こうか」って連れて行かれて、電気ブランとかガンガン飲まされて。そういう洗礼も受けたんですけど、帰りに濵田さんに「俺が東京の親父代わりになるから、がんばれ」って言われたんですね。で、いろいろ教わって、機材にしても……ラディックのスネア、定番のモデルなんですけど、「これ持ってるか?」「持ってないです」「一ドラマーとして、ましてやこれからプロでやってくなら、これ持ってないと仕事にならんから」って、一台くれたんですよ。しかもビンテージのやつを。今でも、ほかの現場のレコーディングは、絶対持って行ってるんですけど。僕の中ではナンバーワン・ドラマーは濵田尚哉、っていうのはずっと変わりないんですよね。人としてもそうやし、ドラマーとしてもそうやし、精神的にまいってる時も、濵田さんに頼ると、すぐ答えてくれたりしてたんで。でも、今は僕がそうやって答えていかなあかん立場になってるんかな、とも思いますし。
──あ、同じことをやっている?
はい、今ひとり若い奴を育ててるんですけど。僕と同じように大阪から上京して来た奴で、そいつが24歳で、僕が46歳、当時の濵田さんと同じぐらいで。で、そいつが叩いてるのを見たら「あ、関西ドラマー」ってわかるんですよね(笑)。昔の自分を見てる感じで。だから今、いろんな現場に連れて行ったりしてるんです。いろんな現場で、いろんな人に顔を覚えてもらって、いろんなご縁を大事にすることを教えてるというか。ドラムなんて、今はYouTube観たら誰でも勉強できる、習いに行かなくてもすぐ手に入るじゃないですか。でも、手に入らないものっていったら、そういうことであって。今いろんなつながりを作ってあげて、あとは彼次第。僕もそうやってきた人間なんで。
取材・文=兵庫慎司