大人のパリジェンヌ=クレモンティーヌ、コロナ禍での自分らしい生活、新作と音楽家としての歩みについて語る。
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クレモンティーヌ (C) Kokopele
気だるい鬱陶しい梅雨の時期、涼やかでスウィートな歌声で心を癒してくれるフレンチ・ポップスきっての超人気アーティスト、クレモンティーヌ。パリ生まれの彼女は、クラシックとジャズ・ピアノを学んだ後、1987年にデビュー。ジャズ、アメリカン・ポップス、ボサノヴァからディズニーまで幅広い音楽性とその自由な生活スタイルで多くの日本人ファンを獲得してきている。大の親日家としても知られている彼女は日本のアニメやバラエティなどにも軽やかに取り組み、CMやお茶の間でもさりげなくクレモンティーヌの音楽が今でも流れている。そんな彼女が久しぶりにソニー・ミュージックより新作「ケル・タン・フェッティル?~お天気はいかがですか?」を2021年5月26日に発表した。今回は、忘れ去られたフレンチ・ソングに光をあてる企画盤で、フランスの名優ジャン・ヤンヌ、シャンソン歌手・女優のミスタンゲットからセルジュ・ゲンズブールまで多彩な名曲の数々を取り上げ、俳優ジャン=クロード・ドレフュスとのデュエットで「リラックス・エイヴー(リラックスして)」もカヴァー。大人の音楽をラテン・テイストで魅力的に楽しくパフォーマンス。女性たちの憧れとして、アーティストとしてますます注目を集め続けるクレモンティーヌにコロナ禍での生活、新作と音楽家としての歩みを聞いた。
【動画】クレモンティーヌ「フル・フル」(ミュージック・ビデオ)
――昨年から全世界でコロナが猛威をふるい、パリでもロックダウン、日本でも緊急事態宣言の発動で、人々の生活が制限されて、苦しい生活が続いています。そんな中、クレモンティーヌさんはどのようにお過ごしになっていますか?
特にコロナが流行り始めた頃は、とても不安な時期でした。最初のロックダウンの時はパートナーと、子供たちとを連れて南仏の別荘に行きました。南仏では家族みんなで一緒にいて、緊張感と不安に溢れるパリに比べると、感染者も少なく平穏でした。
コロナは私たちの生活を一変させました。アーティストたちの時間も止めてしまいました。今後はワクチンを接種することで、通常の生活に戻ることができると信じています。
――その時のだいたいの一日のスケジュールを教えていただけますか。
単調なスケジュールでしたね。今(2021年4月末)は、ロックダウンの措置が少し軽くなりました。夜の外出は19時までですが、フランス国内を移動できるようになりました。私は犬を飼っているので、夜19時以降でも「散歩」に出かけることができますが、レストランもお店も開いていません。パリはいつもの賑わいを失い、寂しい街になってしまいました。
でもやっと5月19日には、レストランのテラス席と、映画館、劇場、コンサートホールなどがオープンする予定です。今からワクワクしています。
――クレモンティーヌさん流の生活の楽しみ方を教えてください。
音楽を奏で、料理を楽しみ、犬の散歩をしたりします。そして女友達と長電話を楽しみます。
南仏の別荘でくつろぐクレモンティーヌ。
■新作について
――新しいアルバムについてお聞きします。今回のアルバム・タイトルにもなっている、「Quel Temps Fait-Il à Paris? ケル・タン・フェッティル?~お天気はいかがですか?」は、1953年に公開されたジャック・タチの映画「ぼくの伯父さんの休暇」(Les Vacances De Monsieur Hulot)のテーマ音楽として日本でも大変人気がありますが、この曲に歌詞があったことを知りませんでした。今回クレモンティーヌさんが歌うヴァージョンは、タチ映画同様に、非常に癒されます。実に良いアレンジです。タチ映画のどんなところに魅力を感じていますか。
この曲の歌入りヴァージョンがある事は私も知りませんでした。ラジオで聞いて「歌詞があるんだ!」と、とても驚きました。古き良き時代の繊細な歌詞が気に入りました。
タチの映画の世界観が大好きです。「Play Time」は何度も見ました。「ぼくの叔父さん」はとても面白い映画です。「のんき大将脱線の巻」はとても詩的で感動的ですし、すべての作品はユニークでとても独創的です。セリフがほとんどないので、音楽と効果音が際立っているのもタチならではだと思います。
最新アルバム「ケル・タン・フェッティル?~お天気はいかがですか?」
――2曲目に収録されている、ゲンズブール作品で女優のミシェル・メルシエ(Michèle Mercier)が歌った「キラキラ音がする女の子(La Fille qui fait Tchic Ti Tchic)」(1969)は日本ではあまり知られていませんが、フランスでは比較的知られているのでしょうか。そしてクレモンティーヌさんは、かねてよりこの曲がお気に入りだったのでしょうか? 一方、ゲンズブール没後30年となる今年2021年、日本では、彼の監督映画「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」が完全無修正版で上映されるなど、ゲンズブールが再注目されています。クレモンティーヌさんにとってゲンズブールはどんな存在ですか?
この曲はフランスでもあまり知られていないのですよ。もちろんカヴァーした人も少ないです。今はゲンズブールの没後30周年で、多くのアーティストがゲンズブールの曲をカヴァーしていますが、この曲は誰も歌っていないですね。曲の歌詞とメロディーが作り出す世界が大好きです。
ゲンズブールは非常に独創的なスタイルを持つ、実に才能豊かなアーティストだと思います。私の両親は、彼が駆け出しの頃パリの地下にあるシャンソニエで「地下鉄の切符切り」を歌っているところを何度も見ています。
――アルバムの選曲はご自身で全てやられましたか? それとも他の方からのアイディアもあったのでしょうか?
私たち、チームみんなで曲を選びました。ジャック・タチ監督の映画のテーマ、『リラックスして』、『マリア・ニンゲン』とゲンズブールの曲は私自身が選曲しました。他はフランスでもあまり知られていない古いフランスの曲を選曲しました。一番古いものは1895年の曲なんですよ。
――今回のプロデューサーとアレンジャーはどなたですか?
プロデューサーは私自身です。プロデューサー・デビュー作品です。アレンジャーは、ギタリスト、サウンドエンジニアでもあるRobson Galdino(ロブソン・ガルディノ)。彼はギタリストとして私のコンサートで何度も日本に同行してくれました。彼のことは昔から知っているし、才能もあるし、何より私たちの間には信頼と友情があるのです。彼はブラジル人なので、今回のようなフランスの古い曲に、いい感じのラテン色を加え、独自の世界を作り出してくれました。
アレンジャー、ギタリストのロブソン・ガルディノと。
――コロナ禍でのレコーディングだったと思いますが、どのように録っていきましたか?
アルバムのレコーディング自体は、コロナが流行する前に行いました。レコーディングは、ロブソン・ガルディノのスタジオで行ったのですが、ヴォーカルブースが結構小さくて…。アルバム最後のトラック「リラックス・エイヴー(リラックスして)」でデュエットで参加してくれた俳優のジャン=クロード・ドレフュスは150kgぐらいある巨漢なんですね。ブースでは、なかなか動きづらそうだったんですが、そんなときもスタジオの皆を笑わせてくれて、さすがコメディアンだなあと思いました。
――その「リラックス・エイヴー(リラックスして)」は、ディーン・マーティンとリーヌ・ルノー(フランス人シンガー)とのデュエット・ヴァージョンが有名ですが、今回共演されている俳優のジャン=クロード・ドレフュスさんとの レコーディングはいかがでしたか?
ジャン=クロード・ドレフュスとのデュエットは、本当に楽しい経験でした。彼は歌手ではありませんが、歌うことが大好き。ディレクションはアレンジャーのロブソンが行いました。歌うよりも、彼の一度聞いたら忘れられない声を最大限に生かすために、語りの部分を多くしました。彼は英語で歌うことにもジャズのリズムにも苦労していましたが、レコーディングの間じゅうジョークを言って、とても若くて独創的な精神を持っている偉大なアーティストです。
――今回のミュージック・ビデオ(MV)「フル・フル」はイラストと簡単なアニメと実写との合成ですが、とてもほのぼのしますね。 これはどのようにして制作しましたか?
パリのモーションデザインの学校を卒業したばかりのシリル・エルヴェがMVの監督を務めました。このMVを作るのに6ヶ月かかったそうです。撮影は私のリビングルームで、背景をグリーンにして、私はスツールに乗って自転車に乗っているふりをして撮影しました。彼のガールフレンドのココペレ(写真家)が私にドライヤーの風を当てて、髪の毛が風になびいているように見せてくれました。とてつもなく長く緻密な仕事です。ソーシャルネットワークのアニメーション投稿もすべてシリルが担当してくれています。
ミュージック・ビデオの監督シリル・エルヴェと。
■アーティストとしての歩み
――ここからは、クレモンティーヌさんのアーティストの歩みについて伺いたいと思います。そもそも音楽との出会いは何だったのでしょうか?
私は音楽が大好きでした。子供の頃は特にフレッド・アステアの曲が大好きでしたね。シャイな子供だったので、自分の部屋にこもって歌ったり、ジャズのソロパートの演奏をコピーしたりしていました。その頃は大人になって音楽を仕事にするなんて想像もしていませんでした。
――学生時代に歌や楽器演奏などの経験は?
私がジャズピアノの先生についてピアノを始めたのは、メキシコシティに住んでいた7歳の時でした。その後、クラシック・ピアノを習いました。そして16歳の時にピアノをキッパリやめてしまいました。私は両親に「音楽は嫌い!」「音楽の話は二度と聞きたくないの!」と言いました。今思えば反抗期だったのでしょうね。そしてその後音楽を仕事にすることになるとは!? 人生は面白いものです。
――プロとして活動を始めたきっかけは何ですか? ジャズ・シンガーとしてスタートしたのでしょうか?
23歳の時でした。父の友人で当時CBS JAZZのディレクターだったアンリ・ルノーが、私が歌っているテープを聞いてくださり、彼は私の声質が気に入り、CBSと契約することになったのです。最初のシングル「Absolument Jazz(アプソリュマン・ジャズ)」(1988年)を録音することになりました。
セカンドアルバムは、父ビクター・ミッツのプロデュースによる「Continent Bleu(コンティノン・ブルー)」(1989年)です。
――日本への興味はいつからありましたか?
日本で発売されたアルバム「Continent bleu(コンティノン・ブルー)」は、ジャズ音楽専門誌のスイングジャーナル誌で1位を獲得するなど、大きな成功を収めました。この成功の後、日本のソニー・ミュージックから「日本でキャリアを積まないか」と誘われました。もちろん私はすぐにイエスと言いました。
――日本を初めて訪れたのはいつですか?
初の訪日は1992年のアルバム「En privé(アン・プリヴェ〜東京の休暇)」のレコーディングでした。私は両親と一緒に東京に行きました。レコーディングの間中、父の姿を見ることはありませんでした。何故なら、ジャズコレクターにとって東京は宝島で、父は東京中のレコードショップに行ってジャズのレコードを買いあさっていたのです。
父親ビクター・ミッツと。(クレモンティーヌ7歳ころ)
――92年にリリースした「アン・プリヴェ~東京の休暇」は、当時若者の間で人気になりつつあった後に渋谷系と呼ばれるようになる才能あふれるアーティストとのコラボレーションで大人気になりましたが、ご自身ではどのような感想を抱きましたか?
日本のアーティストたちにはとても感銘を受けました。恥ずかしがり屋の私に、彼らはとても紳士的に接してくれましたし、私にとって素敵な存在でした。高浪慶太郎さんはとても親切で、ゴンチチのお二人は面白くてレコーディングの間じゅう笑っていた記憶があります。
――2000年代にはいると、ボサノヴァにも挑戦しました。
はい、私はブラジルの音楽が大好きです。父の話によると、私は2歳の頃から、スタン・ゲッツのレコードに合わせて踊っていたそうです。
――そして2010年前後には、アニメやバラエティ番組のカヴァーを歌った「アニメンティーヌ」「バラエンティーヌ」などの企画アルバムで大ヒットを記録しましたね。このプロジェクトについてはいかがでしたか?
大きなチャレンジでした。私の子供たちは日本のアニメが大好きで、その影響を受けてこのようなアルバムを作ることになりました。日本語の歌詞をフランス語にするのに非常に苦心したことをよく覚えています。
――これまでの音楽生活を振り返ってきましたが、改めてクレモンティーヌさんがいつも大事にしていることは何ですか?
一番大切なのは、すべてを深刻にとらえすぎず、人生をありのままに受け入れることだと思います。
――最後に、これからどんな活動をしていきたいと思いますか?
今はニュー・アルバムのプロモーションをしています。来るべきツアーに備え、曲のリハーサルをし、ピアノの練習をしています。近いうちに日本でコンサートをしたいですね!手羽先や枝豆、生ビールが懐かしいです!!!
ランチを準備するクレモンティーヌ。