【タイガー戸口 インタビュー】5/31『ジャンボ鶴田追善興行』でライバル・タイガー戸口が引退試合! 偉大なるレジェンドレスラーがキャリア53年のレスラー人生に幕
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5月31日(火)東京・後楽園ホールにて行われる『ジャンボ鶴田23回忌追善興行』で、鶴田さんのライバルでもあったタイガー戸口(キム・ドク)がこの大会で半世紀に及ぶレスラー人生にみずからピリオドを打つ。
日本プロレスでデビューした戸口はアメリカマットを中心に世界中を渡り歩き、全日本、新日本でも活躍。特に故・鶴田さんとも関係が深く、両者はライバル関係にあったのだ。戸口は日プロ崩壊前にアメリカに渡り、大型ヒール(身長195センチ、体重125キロ)として活動。大木金太郎さんとともに78年10月に全日本マットに登場すると、同月28日に蔵前国技館でジャイアント馬場さん、鶴田さんのインターナショナルタッグ王座に挑戦し、反則勝ちながら2対1のスコアでいきなり王座を獲得してみせた。同年12月に奪回されるも、77年11・7韓国ソウルで2度目の奪取に成功。この王座は馬場&鶴田組に再び奪回されるまで半年間保持したのである。
また、シングルでは77年10・29をシングルを皮切りに鶴田さんと9度にわたる一騎打ち。白星を手にすることはなかったがフルタイム戦が5試合あり、なかでもUNヘビー級王座に挑戦した78年9・13名古屋では60分に加えて5分間の延長戦を闘い抜いても決着はつかなかった。
そのタフネスさを誇る戸口が鶴田さんの興行、しかもデビュー戦の地で最後を飾るのも何かの縁。そこで本欄ではプロレス界のビッグレジェンド、戸口にインタビュー。鶴田さんと組んだり闘ったりした思い出や、最後のリングに臨む思いを聞いてみた。
――5・31後楽園が戸口選手の引退試合になります。引退を決めた経緯を教えてください。
「前々から引退しようとは思ってたんですよ。ただ、その機会がなかったんだよね。それがこないだ、ジャンボ(鶴田)の23回忌の大会をやるので試合に出てくれというオファーをもらってね、いいですよ、出ましょうと言ったの」
――そのときは、「試合をしてください」「大会に参戦してください」というものですよね。
「そうです。出てくださいと、ただそれだけだったんですよ。そこからいろいろ考えた末に、ちょうどジャンボの23回忌だし、こんなこと言ったらお坊さんみたいだけれども、仏門で言うと、仏で23年経つと今度は神様になるんですよ。だったらこれも節目だし、ちょうどいいやと思って、この機会にボクも引退しようと決めたんだよね」
――ということは、ご自身の意志でプロレスを引退をしようと。
「そうです」
――戸口選手はキャリア50年以上。引退してカムバックされる選手もいますが、戸口選手の場合、一度も引退されていないなかでの“引退”ですよね。
「そう。まだ引退はしてない、したことない。だから初の引退で、これが最後のリングになりますね。というわけで、ボクの方からリングを下りようと思ったんです」
――なるほど。さて、ラストマッチのカードは6人タッグマッチです。タイガー戸口&藤波辰爾&谷津嘉章組vs渕正信&越中詩郎&井上雅央組。レジェンドが一堂に会する貴重な試合になります。そんな闘いに臨む戸口選手ですが、現在の体調はいかがですか。
「体調ですか。体調はいまね、いい医者の先生に会ってね、どんどん戻ってきてるんですよ。だんだんよくなってきてる。でもなんていうの? 悪くなったところが急によくなるってわけじゃないから。それでも一定の線を守ってるから、先生は大丈夫だと言ってくれてるんですよ」
――安定されているということですね。以前、TCW(トーキョーチャンピオンシップレスリング)の大会に来場されたとき、手術されるとの話も聞いたのですが。
「手術はしないで済んだんですよ。手術はしないで、その先生がカテーテル入れてくれて全部やってくれた。そしたら血管が詰まってなかったんです。心臓も詰まってなかった。そこから薬で治していったんですよ。心臓と腎臓の薬をね。それで、薬で治した。それで今回、試合をしてもいいということで、できることになったんです」
――先生からのお墨付きと言うことですか。
「ハイ。毎朝13種類の薬飲んでますよ。すごいでしょ(笑)。1週間に1回ずつ、自分で作らなきゃいけないんだ(笑)」
――薬を飲む順番をおぼえるだけでもアタマ使いますよね。
「そうそう(笑)」
――ところで今回は、ジャンボ鶴田さんの追善興行です。鶴田さんにとって戸口選手は欠かせない存在だと思います。鶴田さんと初めて出会ったのは?
「アメリカですね。オレが2度目にダラスに行ったときだったかな。確かテキサス州のサンアントニオに馬場さんと鶴田、ドリー・ファンクJrとテリー・ファンクが来てたんだよ。そこに東京スポーツの山田隆さんも来ててさ」
――全日本のテレビ中継で解説を務めていた?
「そう。山田さんがね、『馬場ちゃんと鶴田が来てるよ』って言ったんだ。だけど、オレは『鶴田って誰だ?』って言ったんだよ。それでも『会ってこいよ』と言うからあいさつに行った。そのときに初めて鶴田を知ったんだよね。それまでは知らなかった。ただ、ちょっと前にアマリロにいた外国人選手から『トモミツルタというヤツが日本から来たよ』という話を聞いたんだ。そのときは、『誰だよ、そんな選手知らないよ』って答えただけだったんだけどね(笑)」
――それがのちのライバルに。
「そうそう」
――本格的に闘ったりするのは戸口選手が全日本に参戦するようになってからですか。
「大木(金太郎)さんが帰ってこいと言うから帰ったんだよね
――全日本には、大木さんから声をかけられて参戦したと。
「そうだよ」
――そこから馬場&鶴田組とインターナショナルタッグ王座を懸けて対戦するようになりますね。
「ハイ。ジャンボとはタッグも組むようになったしね。それまで闘っていたオレが鶴田となぜタッグを組み始めたか。それはね、馬場さんがオレらに言ったんだよ。『オレはもう引退するから、オマエらで全日本背負っていけ』と。その言葉を鶴田とオレに言ったんだ。ただ、実際には必ずしもそうはならなかった。
まあ、(馬場、鶴田に次ぐ)3番手にしてくれたのはありがたいけど、オレからしたら全然意味のない3番手だよ(苦笑)」
――ところで、試合では鶴田さんとフルタイムで闘ったりするなど、名勝負を残してきました。闘ったり組んだりする中で、戸口選手から見て鶴田さんはどういうプロレスラーでしたか。
「鶴田はね、やっぱりアマレスがしっかりしてたから、レスリングの動きというのはよくできてますよね。だから、ほかの選手よりはやりやすかった
――組むのも、闘うのも?
「うん。なぜかというと、阿吽の呼吸みたいなのがあったんだよね。それはやっぱり、鶴田がアメリカでやってたからでしょ」
――全日本入団後、鶴田さんのプロレスのキャリアはアメリカ遠征からスタートしました。戸口選手はアメリカでのキャリアが長いですよね。両者ともアメリカで学んだことが大きかったと。
「そう。それで呼吸が合ったんだと思うね」
――鶴田さんが海外遠征をせずにそのまま日本でデビューしていたら違っていたと思いますか。
「違ったでしょうね。オレはラッキーなことに(カール・)ゴッチさんに2年半ついて教わったからよかった。それに柔道やってたから受け身は取れるし、あとはレスリングの技術をおぼえればいいという感じでアメリカに行ったんだよね。鶴田もアメリカでプロレスをおぼえた。それがよかったんじゃないかな」
――鶴田さんをライバル視し始めたのはどのくらいからでしょうか。
「やっぱり、あれやってからだよね。フルタイム。60分と5分(延長)の65分やったでしょ」
――78年9・13名古屋でのUNヘビー級王座戦ですね。あの試合はどうだったですか。
「あの日の試合前にね、名古屋のスポンサーとひつまぶしを食べに行ったわけ、その後にサウナに行ったんだ。サウナに4時間いたよ。『オマエは絶対に汗をたくさんかくから事前に出しておけ』って言われてさ。それで汗びっしょり出してから名古屋の会場で鶴田と試合をやったんだ。試合では、テレビのライトが熱くて、いつも以上に汗が出る。試合が始まってから20分くらいしたら、肌がべたべたするんだよ、乾いちゃって。汗が出すぎて乾いてしまい、べたべた。でもね、あれが逆によかったんですよ。なぜかと言うと、滑らないでよかった。あれで汗がダラダラずっと出てたら、滑ってなにもできなかったと思うんだ」
――サウナで汗をかき、さらに試合の20分で汗を出し切ったので、そのあとも40分以上闘えたと。
「そう、自分でビックリしたよ。試合が始まってから汗がどんどん出てきたから、これはまずいと思ってた。それが20分ちょっと過ぎたあたりから、ずーっと汗が出ないんですよ。べたべたしちゃったけど、かえって闘いやすかったね」
――相手の鶴田さんはどうだったのでしょうか。
「鶴田はどうか知らないけどね。まあ、同じじゃないとは思うよ。その晩、試合が終わってからも飲みに行ったんだけど、オレなにやったと思う? 水割り作ってくれても全然飲まない。悪いけど水くれって言って、水ばっかり飲んでた。脱水症状でね」
――身体が水をほしがっていた。
「そう。水をほしがってた。飲みに来たのになんでこの人は水ばっかり飲んでんだろうって、クラブの女の子がキョトンとしてたよ(笑)」
――60分以上闘っていた鶴田さんに対してどう感じていましたか。
「やっぱりね、(全日本を)背負ってくだけの人間だなと思いましたよ。こんなこと言っちゃ悪いけど、ほかのレスラーにはできないでしょ」
――長州力さんも鶴田さんと60分フルタイム戦(85年11・4大阪城ホール)をやりましたが、それとはまた違うと。
「違う。ハッキリ言って新日本と全日本ではスタイルが違う。オレが全日本から引っ張られて新日本に行ったのはいいんだけど、新日本はスタイルが違うから全然合わなかった」
――戸口選手に新日本のスタイルは合わなかった?
「うん。それはね、全日本にはアメリカンスタイルが基本にあるからですよ。けっこう新日本はヨーロピアンスタイルだったね」
――団体設立当初、全日本はNWAルートでアメリカから大物選手を続々招聘、新日本はヨーロッパ系が多かったと思います。
「そうでしょ。そこの違いでしょうね」
――世界中のさまざまなスタイルを体感されてきたのが戸口選手ですが。
「例えばドイツのハノーバーに行ったときにね、ヨーロッパのルールって違うんですよ。実際にやってみるまで知らなかった。知らないでリングに上がったら、レフェリーに注意されてね。腰投げで投げて捕まえにいったらレフェリーがダメだと、止められるんだ」
――投げられた方がダウンカウントを数えられますよね。
「そう。だからこっちからつかみにいくとダメだって言われるんですよ。難しいなと思ってね」
――当時のヨーロッパはルールが厳格ですからね。
「そう、かなり迷いましたよ」
――海外のあらゆるスタイルはもちろん、日本でもメジャーからインディーまでさまざまな団体に上がってきました。いままでの現役生活を振り返っていかがですか。
「自分でやりたいことやってきたからね、もう悔いはないですよ。まあ、(5月)31日に引退するんですけども、ただひとつ、いまの若い人たちに言いたいのは、プロレスを潰すなと。それをオレは言いたい」
――プロレスを潰すな?
「そう、なんか潰されるような気がしてしょうがないですよ(苦笑)。1961年にジョン・F・ケネディが大統領になったときになんて言ったか。その言葉をおぼえろって思いますよ。なんて言ったか教えましょうか」
――ぜひ、お願いします。
「Ask not what your country can do for you. Ask what you can do for your country.
国民は国に求めるな。国民は一生懸命に働いて国をよくしろと。ケネディの言葉といっしょですよ」
――JFKの言う国民にあたるのがレスラーで、レスラーが国、すなわち団体をよくしろという意味ですか。
「そうそう、レスラーが一生懸命やってお客さんを入れれば、会社は裕福になるし自分たちも儲かるだろと。ケネディが言ってる国は会社であり、会社よくするためにはオマエらレスラーが一生懸命働けと。裕福になったらその金はオマエらにいく。オレはあの言葉がすごく好きなの。あれ聞いたの、オレが中学生のときだよ」
――当時はまさかその国で活躍するとは夢にも思っていなかった?
「そうだね(笑)」
――では最後に、ラストマッチはどんな試合にしたいですか。最後はどういう形でリングを下りますか。
「最後、自分ができる技を出して、お客さんが満足してくれる試合ができれば一番いいんですけどね。まあ、鶴田がいてくれれば歴史に残るような最高の試合になるんだろうけど、鶴田の追善興行だからね、その場にいないからこそ鶴田に捧げる試合にしたいですね」
遠くから見ても一目でプロレスラーだとわかるのがタイガー戸口であり、そのオーラは74歳のいまでもまったく変わらない。むしろ、スーパーヘビー級の少なくなった現代だからこそ、戸口の凄みはそのまま昭和プロレスの凄みを思い出させてくれる。だからこそ、5・31後楽園でのラストマッチはこの目に焼き付けたい。
ジャンボ鶴田さんへ思いを馳せるとともに、世界でその名を轟かせたタイガー戸口、キム・ドク、そしてタイガー・チャン・リーの雄姿を再確認していただきたい。
協力:eplus LIVING ROOM CAFE&DINING
聞き手:新井 宏