青年団公演『日本文学盛衰史』について、作・演出の平田オリザに聞く~「見てわからなくても演劇全体として面白くなればいい」
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青年団公演『日本文学盛衰史』(高橋源一郎原作、平田オリザ作・演出) 撮影:igaki photo studio
第22回鶴屋南北戯曲賞を受賞した『日本文学盛衰史』が、4年ぶりに青年団によって再演される(2023年1月13日〜1月30日 吉祥寺シアター、2月2日〜2月6日 伊丹市立演劇ホール)。国語の教科書に小説やエッセイが掲載されている島崎藤村、正岡子規、石川啄木、二葉亭四迷、田山花袋、国木田独歩、樋口一葉、森鷗外、夏目漱石など、錚々たる面々が、文学者の葬式の通夜振る舞いの席で語られた会話から、近代文学黎明期の足跡をたどる。再演にさいして、作・演出の平田オリザに話を聞いた。
■明治文学と言文一致運動
──4年ぶりに再演される『日本文学盛衰史』について伺います。これまでにも宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のように原作があるものを脚色して上演されたことはありましたが、現代文学では初めての試みですね。
平田 初めてだし、最初で最後かもしれません(笑)。まあ、もともと好きだった小説を脚色していますし、それから高村光太郎を題材にした『暗愚小傳』も書いています。それから、わたしは大学の卒論が中江兆民で、専攻が明治の思想史なので、そんなに遠い感じではないのと、『ニッポン・サポート・センター』(2016年6〜7月)では、持っている演劇的な技術を全部入れ込んだものを作ったつもりだったので、次はいままでやったことのないものをやってみたいと思って、これを選びました。
──『日本文学盛衰史』で取りあげられている時代は、明治の近代文学の黎明期ですし、そこでは言文一致がキーワードのひとつになっています。そのうえ、新たに生まれた自由民権の思想などが複雑に絡みあって日本の近代文学を展開させていく。その生みの苦しみが描かれていきます。
平田 井上ひさしさんも何本か……もちろん『國語元年』もそうですし、『頭痛肩こり樋口一葉』『泣き虫なまいき石川啄木』では近代日本語の生成の過程を扱われていますが、もう一度、自分のなかでも整理しておきたかった。もちろん、それはこれまでの自分の仕事とも重なってきます。
要するに、1場が「北村透谷(1868〜1894年)の死」、2場が「正岡子規(1867〜1902年)の死」で葬式を描いているんですけど、ここまでは文学とか日本語の話。井上さんの言葉を借りれば「ひとつの言葉で政治の話もでき、裁判もでき、ラブレターも書け、喧嘩もできるような日本語を作ることが、近代国家にとっては必須のこと」であり、だから、北村透谷も、正岡子規もそうなんですけれど、二葉亭四迷(1864〜1909年)でさえも、反権力ではないんです。みんな日本のためを思ってやっている。要するに、この時期は、近代国家の成立という国家の夢と個人の夢が重なった、古き佳き時代なんです。
それが徐々に変質していって、最終的に大逆事件があって……だから、幸徳秋水が大事なんですけど……そこに石川啄木が関わって、「夏目漱石(1867〜1916年)の死」で明治という古き佳き時代が終わる。そこまでを直球勝負で書きたいと思って構想しました。
青年団公演『日本文学盛衰史』のチラシ。
■正岡子規による写生文の発見
──言文一致運動と、平田さんが提唱された現代口語演劇という手法との重なりもありますね。
平田 はい。それは台詞にも書いたんですけど、正岡子規をずっと雇っていた陸羯南(くがかつなん)というジャーナリストがいるんですが、彼の言葉で、正岡子規が発見した写生文、つまり、見たままを書くというのは、イデオロギーに左右されずに、そういうものを超越することだと。要するに、イデオロギーを離れて、社会をきちんと自分の目で見たものとして書くということが、正岡子規の最大の発見だったと思うんです。そのことはこれまでも意識してきたので、大きな柱としてあります。
その一方で、北村透谷は、自由民権運動からいうと、日清戦争前に大衆の意識が、民権から国権へと急に変わっていくことに失望して死んでいく。
──写生文は、見たまま、あるがままに表現する。そこに思想とか、別なものを交えないで、事実をそのままに語るということ……。
平田 そうですね。ただ、そんなことが本当にできるのかということは、森鷗外がその前の段階から疑問を提示しているんですけれども、そうすると、今度は書くものがなくなってしまうんですね。いったい何のために書いているんだと。しかし、その後に、島崎藤村が『破戒』を書いて、要するに、小説はやはり社会に役に立つものなんだと。
──1906年(明治39年)に緑陰叢書から出され、被差別部落を取りあげた『破戒』ですね。
平田 そうです。当時は非常に衝撃的なことだったわけですけれど。そうなると今度はまた、何かの役に立たなかったら小説ではないのかという振り子が常にあるわけですね。で、当時はまだ近代文学の黎明期ですから、新しいものが出ると、みんな困ったり、そっちの方に雪崩を打って行ったりする。一方で、田山花袋の「蒲団」(1907年)が出て、私小説、自然主義が出てくる。とくに日本人は付和雷同しやすいので、そういったところがうまく書ければなと思って。
青年団公演『日本文学盛衰史』(高橋源一郎原作、平田オリザ作・演出) 撮影:igaki photo studio
■原作にはない正岡子規のクローズアップ
──1場「北村透谷の死」では、北村透谷が考えている内面が描かれますが、これは高橋源一郎さんの原作にはないので、平田さんは「内面」について新たに書き加えられた。それから、2場「正岡子規の死」では、原作にはあまり登場しない正岡子規を挿入されています。
平田 そうですね。
──全4場の葬儀の席で構成される4人の文学者たちのうち、原作では、子規だけが章立てされていません。
平田 高橋源一郎さんは、あまり正岡子規には言及してないんです。
──その代わり、石川啄木や樋口一葉については、たくさんのページを割かれています。3場では「二葉亭の死」が描かれますが、二葉亭は最初から最後まで、この作品の貴重低音をなす人物だろうと思われます。言文一致運動の「だ調」を、日本語表現のパイオニアとしておこなった人でもありますし。ただし、二葉亭は自分自身には書くべきものはないと思っていたらしく、『浮雲』(1891年)でも、『其面影』(1907年)でも、それから『平凡』(1908年)でも、どれも自分では内容がない小説だと思っていた節がありますね。
平田 だから、二葉亭のすごいところは、そのことに最初に気がついてしまったということですね。他の人たちは、自然主義だとか、後々のプロレタリア文学まで右往左往するんですけど、二葉亭だけはどこまで意識的だったかはわからないんですが、そのことが見えていた。そこが二葉亭四迷のいちばん凄かったところだと思います。だから、結局、二葉亭四迷が提示した問題から、少なくとも戦前の文学というのは、一歩も外れずに右往左往していたといえます。
──それを引き継ぐようにというか、先ほどお話しいただいたように、正岡子規が「写生」という手法を発見する。
平田 子規の場合は非常に特殊で、晩年はもうほとんど家から出られなかったので、その制約が逆に……とくに俳句よりも、最後の方に残した散文ですね……写生文と散文が、非常に画期的だったわけですよね。しかも、その子規と夏目漱石が……東京にいない夏目漱石が……往復書簡を交わすことで、漱石の文章がどんどん上達していくわけです。そこは日本文学史の奇跡といってもいいと思うんですけど、そのふたつの、ある意味、当事者たちにとっては不幸だったことが、幸運に作用したということですね。
青年団公演『日本文学盛衰史』(高橋源一郎原作、平田オリザ作・演出) 撮影:igaki photo studio
■激動する言葉をめぐる状況
──正岡子規まで来ましたが、このあと、二葉亭四迷、夏目漱石と続きます。このふたりを分けるものは何でしょうか。
平田 子規が亡くなって、二葉亭が亡くなるんですけど、二葉亭の死というのは……。
──正岡子規の死から7年後。みんな若くして亡くなっています。
平田 その前に、島崎藤村の『破戒』(1906年)、田山花袋の「蒲団」(1907年)、それから国木田独歩の『武蔵野』(1898年)はずっと前に書かれているんですけど、それが発見されるようなかたちで評判をとり、そして、夏目漱石が俳句雑誌『ホトトギス』に寄稿した『吾輩は猫である』でデビューをして(1905年)、朝日新聞社に入社する(1907年)。これまでの苦悩というか、北村透谷が提示した問題がうじうじとくすぶりながら、日露戦争後に一気に開くわけですね。ところが、いちばん肝心の長谷川辰之助・二葉亭四迷が亡くなってしまう(1909年)。本当に悲劇なんですよ。かわいそうだと思うんです。それが3場です。
そこを描いて、翌年(1910年)が大逆事件、日韓併合ですから、これは台詞に書いたんですけれども、要するに、いまでいう「共謀罪」が適用されるようになるんですね。このとき、なぜ言葉だけで政府は人を弾圧したり、殺したりすることができるのかという問題が出てくるんです。
しかし、これには理由があって、言葉が「内面」を表現できるとするならば、政府はその言葉を恐れるだろう。その「内面」に、言葉によって共感する人が出てくる以上、政府はそれを恐れるだろう、という時代に入っていくわけですよね。だから、彼らが発見してしまったものは、文学だけの問題に留まらなくなってしまうのが、1909年から1910年にかけてです。
で、最後の4場「夏目漱石の死」(1916年)になると、そのころには本が売れるようになりますから、日本が金持ちになって、大衆が文学を手に取る。円本(1冊1円の全集シリーズ)みたいなものが出てくる。そして文壇が形成されていくわけですね。しかし、それらは最終的には、約20年後、戦争協力というかたちでほとんど破滅するわけですけれども、そこを予感させて終わるという構成になっています。
──たしか漱石も、明治天皇が亡くなったときに、喪章を付けて、憂鬱な顔をしている写真が残っています(1912年)。だから、協力者とは言わないまでも、反逆者ではなかった。
平田 漱石、鷗外は、圧倒的な当時のインテリですから、たとえば、大逆事件については相当批判的だったわけですけど、そうは言っても、まだ明治の人ですから、なんというか国家にまだ幻想があって……
──国を興し、家を立てるという……。
平田 そうです。たとえば、朝鮮の植民地支配に対しては、ぜんぜん批判的ではないし、そういうことについては、まあ書いてないわけです。そして最終的に、島崎藤村は初代ペンクラブの会長になりながらも、大政翼賛の方向に行くわけです。ほとんどみんなそうなわけで……。
──岸田國士も大政翼賛会文化部長(1940年)になって、そちらへ行かれました。
平田 なので、そこらへんを最後に示唆して、再演にあたって、さらに新しい情報を書き加えました。
作・演出を手がける平田オリザ。
■ヨーロッパ文学の取り入れかた
──北村透谷が面白いのは、たとえば「人生に相渉るとは何の謂ぞ」のなかに、『ハムレット』についてのエッセイが収載されています。森鷗外もドイツの文学の分類にしたがって、戯曲を「ドラマ」と呼んでいました。ですから、「内面」という言葉と、透谷がドラマを見て影響を受けたことと、今回の『日本文学盛衰史』との関係についても知りたくなります。
平田 これは源一郎さんとも対談で話したことがあるんですけど、やっぱり日本の近代文学史に、戯曲の位置付けがちょっと曖昧で、曖昧な理由のほとんどは、坪内逍遥の……なんていうか、坪内さんって変な人でしょう?
──あらゆることが自己流なんですよね、文学の分類さえも。それが森鷗外との「没理想論争」を引き起こすことにもなっていく。
平田 津野海太郎さんの『滑稽な巨人──坪内逍遥の夢』(平凡社)という本も出ているぐらいに、すごく変な人で、たぶん、まわりも振りまわされたんじゃないかと思うんですよ。思い込みも激しいし、まさにおっしゃるとおり自己流だから、間違っている解釈もたくさんあって。
それで台詞にも書いたんですけど、坪内さんにも混乱があると。要するに、シェイクスピアは近代劇ではないんだけれども、西洋演劇をいっぺんに全部輸入したから、もうごっちゃになってますよね。ハムレットは恋愛に悩んでいるんじゃなくて、父親の亡霊に怯えているんで、近代的な自我で悩んでいるわけではないんです。
──殺された父親の復讐をするべきかどうかで悩んでいる。
平田 ただ、シェイクスピアがすごいところは……シェイクスピアの時代にたくさんの劇作家がいたにもかかわらず、シェイクスピアだけが生き残っているのは……シェイクスピアは意識していないんだけれども、演出の手法によっては、近代的な自我の混乱としても演出することができる。そこがシェイクスピア作品のすごいところだとぼくは思っているんですね。でも、当時はそんなことは、もちろん、わかっていなかったわけです。いまでさえ、みんな、わかっていないわけで。
で、北村透谷は横浜の居留地で、外国人が演じる『ハムレット』を見た記憶があって、彼は英語ができますから、わかったんだと思う。それで、相当ショックを受けたと思うんです。これまでに見たことのなかったものだったから。当時、歌舞伎とか、能、狂言とはまったくちがうドラマ、まさにドラマだったわけですね。
それより前から、透谷は戯曲を書いていて(『蓬莱曲』1891年)、彼らにとって言文一致は急務だったので、そのひとつのヒントとして、当然、演劇を思いついたと思うんです。
たとえば、国木田独歩でも、代表作である「牛肉と馬鈴薯」(1901年)は、全部会話体で書かれていて、地の文がほとんどないんですね。まだ、散文が書けないから、そのまま会話だけで書いた。それを「小説」と言ったわけです。だから、小説の体をなしてはいないんだけど、作品としては非常に優れている。
「牛肉と馬鈴薯」は、1901年に『小天地』に発表されて、1905年に『独歩集』に収録されるんですが、そのたった4年で一挙に……それは正岡子規が死んだ後、3年ぐらいで……この地の文をきちんとした散文、いまわたしたちが考えている散文にできたということなんです。だから、それまでの10年、15年という生みの苦しみ。北村透谷以降の生みの苦しみ、その過程にドラマというのがたぶん入ってきているんですけど、入ってきている割には、非常に中途半端で、もうちょっとちゃんと入ってきていれば、その後の展開も変わったんじゃないかというのが、ぼくの解釈ですけどね。
──もうひとつ、翻訳というのもキーワードとしてありますね。
平田 これも台詞に書いたんですが、要するに、ヨーロッパでも、シェイクスピア、モリエール、イプセンという流れがあるなかで、近代小説も生まれてきている。
──2場「正岡子規の死」に登場する森鷗外の台詞にありました。
平田 ところが、日本の当時の人々は、先に答を知ってしまっているから……すでにモーパッサンを読んでいるし、もちろん、ロシア文学も読んでいる。そうすると、どうやってその答までたどり着いたかという過程をすっ飛ばしちゃうわけです。
でも、これは日本人全体がそうで、明治という国の成り立ち自体が、先にヨーロッパというモデルがあって、市民革命とか、フランス革命とか、そういう過程を全部すっ飛ばして、近代国家を作ろうとするんですね。同じ構造だと、ぼくは思っているんです。そういったところも、うまくこの作品全体で表せるといいなと思っているんですけどね。
■SNSなどのメディア、最新の出来事も加えて盛りだくさん
──現在の人々は、本を読むことで、言葉を介して、過去の出来事を知ることはできるんですけど、過去の人は現在の人について知ることはできません。ところが、今回の台本では、LINEで連絡を受けたり、ツイッターのリツイート機能を利用したりしている。さらには過去の人が、その後に起きる出来事を予言するような感じになっているのも、面白い仕掛けだなと思いました。
平田 源一郎さんの原作にも、当時の、90年代末の風俗がいろいろ入っているんですけど……。
──原作では、たまごっちとか、ポケベルとか、PHSが登場します。
平田 それをいまにトレースして、使えるものを使っていこうということなんです。
──再演では、新型コロナによる緊急事態宣言、東京オリンピックの汚職、ロシア軍によるウクライナ侵攻、カタールで開催されたワールドカップの日本代表の活躍まで、さらに内容的にアップデートされていました。この場合、昔の人の目を通して、いまの出来事をもう一回見るという、ふたつの目で見る楽しさというのもあるかなと。
平田 ちょっと吹っ切って、見てわからなくても演劇全体として面白くなればいいという構成でいこうと決めました。もちろん、パンフレットには註釈をたくさん入れるんですけど。だから、若いかたたちにも楽しんでもらえる舞台になると思っています。
──逐語的に理解するよりも、この時代の風を感じてほしい……。
平田 そうですね。そのなかで、背景を知らないかたたちにも、後で幸徳秋水とか、知っていただくきっかけになればありがたいなと思います。
──北村透谷が考えた自由民権運動が、時間をかけて民主主義になったとすると、昨今の政治をめぐる状況は、それを逆戻りさせようとしている。そういうとき、近代文学の黎明期における文学者たちの生みの苦しみは、今を生きる人々にとって、受け取るものの多い上演になると思います。12月に出された新刊『名著入門──日本近代文学50選』(朝日新書)も、舞台版『日本文学盛衰史』をより深く理解するための、よい参考書になりそうです。
平田オリザ著『名著入門 日本近代文学50選』(朝日新書)の書影。
取材・文/野中広樹
公演情報
■原作:高橋源一郎
■作・演出:平田オリザ
<東京都・吉祥寺>
■日程:2023年1月13日(金)〜1月30日(月)
■会場:吉祥寺シアター
<兵庫県・伊丹>
■日程:2023年2月2日(木)〜2月6日(月)
■会場:AI・HALL 伊丹市立演劇ホール
■公式特設サイト:http://www.seinendan.org/play/2022/03/8086
■公式劇団サイト:http://www.seinendan.org/