「まだ歌をやめていない」ということ——bacho、日本語ロックの「歌」の再発明
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bacho『湧水 Tour』2026.9.4(FRI)岡山 Pepperland
bachoは、日本のフォークソングや歌謡曲、J-POPの延長線上から日本語の「歌」へ到達したバンドではない。パンク/ハードコア、エモ、ポスト・ハードコアという、歌を旋律の器から引きずり出し、身体の限界まで押し広げる音楽を通過したうえで、もう一度、日本語で歌うことの意味を発見したバンドである。
その特徴は、北畑欽也の声に現れる。声は旋律を滑らかに運ぶためだけに使われない。息が詰まり、語尾が潰れ、叫びが音程を追い越す。ギターとドラムも歌を支える伴奏ではなく、歌と同じ場所でぶつかり合う。それでも、あるいはだからこそ、「僕」「君」「夢」「決意」といった平易な言葉が、音の塊のなかから切実さをもって浮かび上がる。
北畑はJ-POPを聴いて育った一方で、THE BLUE HEARTSの歌詞がもつ「熱」に衝撃を受け、別の音楽へ踏み込んでいったと語っている。その熱とは、言葉を説明する力ではない。言わなければ自分を保てないという切迫感が、声と演奏に移った状態である。bachoの日本語は、まず意味としてではなく、身体から押し出されるものとして届く。
だから、歌詞に登場する「僕」も、完成された自己を語る主体ではない。北畑がbachoの歌にある「大丈夫」という感覚を、自分自身への慰めであり、「大丈夫だと思って、やっていこう」と自分に働きかける言葉だと語るように、bachoの歌は強い人間が弱い人間を救う構図を取らない。崩れそうな自分が、自分自身に向かって声をかけ続ける。その声が、ライブハウスを通過して他者の声にもなっていくのである。
「萌芽」は、その構造を端的に示す。萌芽は、すでに花開いた希望ではない。まだ傷つきやすく、簡単に失われてしまうものだ。bachoの希望も、絶望を克服した後に到達する結論ではない。不安や自己嫌悪を抱えたまま、それでも内部から何かが芽を出してしまう。その不安定な瞬間を、バンドは轟音のなかで鳴らす。
ここでは、演奏が歌詞を説明していない。希望の言葉はギターに覆われ、ドラムの衝撃にさらされ、それでも消えずに残る。その残存そのものが曲の内容になる。希望とは明るくなった状態ではなく、消されそうになりながら発声を続けることなのだ。
「大いなる助走」もまた、飛躍ではなく、その手前にある時間を歌う。まだ飛んでいない。結果も出ていない。それでも走り出す。bachoは成功や達成ではなく、迷い、躓き、準備し、やり直す途中の時間を肯定する。演奏もまた、一直線に勝利へ向かうのではなく、踏み込み、溜め、押し出しながら前へ進む。聴き手は完成された場所へ連れて行かれるのではなく、走り続ける身体の内部に置かれるのである。
そのため「決意の歌」における決意も、勝利宣言ではない。迷いを消し去った人間の確信ではなく、迷い続ける人間が、それでももう一度立つための行為である。今日決意しても、明日にはまた揺らぐ。だから決意は一度で終わらない。
ライブでは、その「僕」が観客へ移っていく。北畑が自分自身へ向けて発した言葉を、観客が自分の声として返すからだ。これは単なる合唱ではない。別々の生活や失敗を抱えた人間たちが、同じ言葉を必要としていることが露出する瞬間である。bachoの共同体は、共通の思想によってあらかじめ成立しているのではない。歌うという行為によって、その場に一時的に生まれる。
「最高新記憶」は、bachoの時間感覚を示す言葉である。人は過去のある瞬間を「最高だった」と呼び、その記憶を現在の基準にしてしまう。しかし、最高の瞬間を過去に固定すれば、現在はその余生になる。「最高新記憶」は、その固定を拒む。最高の記憶は保存されるものではなく、これから更新されるものなのだ。
過去の痛みや喜びを捨てるのではない。それらを抱えたまま、次の記憶へ進む。bachoにとって懐古は停止ではなく、未来へ向かうための推進力である。
その視線が他者との関係へ開かれるとき、「平和のかたち」が見えてくる。この曲は、抽象的な理念としての平和ではなく、自分の隣にいる誰かや、失いたくない日常から平和を考え直す。大きな言葉を大きなまま掲げるのではなく、自分の身体と生活の大きさまで引き戻すのである。
そして「Boy Meets Music」は、bachoの音楽がどこから始まり、どこへ戻っていくのかを示す。少年が音楽と出会う。しかし、その出会いは過去の一度きりの出来事ではない。少年は成長し、挫折し、迷い、夢に破れ、それでも歌い続ける。だから「Meets」は過去形にならない。音楽との出会いは、歌うたびに更新される。
ここまで来ると、bachoにおける「歌」は単なる表現手段ではなくなる。歌うことそのものが、生存の技法になる。
THE BLUE HEARTSから受け取った言葉の熱、eastern youthやbloodthirsty butchersへと連なる日本語オルタナティヴの系譜、そしてライブハウス/ハードコア文化が培ってきた身体性。bachoはそれらを通過し、叫びと轟音のただなかで、日本語をもう一度「歌」として立ち上げた。自分自身に向かって発した言葉を、他者が自分の歌として引き受けられる場所まで押し広げたのである。
その歌の中心にいるのは、強さを獲得した人間ではない。何度も負け、迷い、過去を振り返り、夢に破れ、それでもまた走り出す人間である。弱さを消すのではなく、弱さを抱えたまま声を出し続ける。その反復こそが、bachoの独自性であり、日本語ロックに与えた新しさだった。
だから、bachoにおける希望とは、幸福な未来の予告ではない。
轟音のなかで、声が潰れそうになりながら、それでも言葉が残ること。
まだ歌をやめていないという、その現在形そのものなのである。
取材・文=能勢伊勢雄(岡山PEPPERLAND主宰)
profile
1947年生まれ。写真家。前衛映像作家。音楽・美術評論家(批評)。現代美術展企画等。さまざまな表現の交錯する場として、1974年に老舗 Live House「PEPPERLAND」を設立。松岡正剛氏のオブジェクトマガジン『遊』に70年代から参画。阿木譲編集の『ロック・マガジン』の編集やライターを務めた。⻑年にわたる脱領域的、学際的なすべてが、岡山市・倉敷市連携文化事業『スペクタクル能勢伊勢雄 1968-2004』展にて、広く紹介された。展覧会では水戶芸術館『X-COLOR グラフィティ in Japan』企画、大分県立美術館『OPAM×能勢伊勢雄 シアター・イン・ミュージアム』企画・監修・出品…多数。出版物は『新・音楽の解読 -ダダ/インダストリアル/神秘主義/ハウス/ドローンまで、誰も知らない音楽史-』(DU BOOKS)、『スペクタル能勢伊勢雄 1968-2004』(和光出版)、写真集『ISEO NOSE:MORPHOLOGY 能勢伊勢雄:形態学』(赤々舎)…多数。2018年福武教育文化財団より「福武文化賞」受賞。2019年慶應義塾大学アート・センターに作品収蔵。2026年には『能勢伊勢雄入門ーmaking of Iseo Nose on Okayama』が刊行された。
ツアー情報
※終了した公演は省略
2026年9月21日(月)@兵庫・神戸BLUEPORT
w/ yard rat, mabuta
OPEN 17:30/START 18:00
w/ mabuta
OPEN 17:30/START 18:00
ONEMAN
OPEN 18:30/START 19:00
w/ FRIDAYZ, breakthrough
OPEN 18:00/START 18:30
w/ GIVE LIFE
OPEN 18:30/START 19:00
w/ CALENDARS / entropyz
OPEN 18:00/START 18:30
ONEMAN
OPEN 18:00/START 18:30
ONEMAN
OPEN 18:30/START 19:30
リリース情報
発売日 : 2026.8.7
品番:BATODO003
1,500円(+税)
収録曲:
1. 湧水
2. 遠い灯の歌