野口里佳写真展『夜の星へ』レビュー
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captured from cweb.canon.jp / ©2015 Noguchi Rica
観光地の荘厳な建築物や息を飲むような自然のダイナミズムを捉えた美しい写真を見て、こんな所に行ってみたいと思った事が何度もある。しかし、大抵の場合そんな場所はどこにも存在しない。その写真が掲載された旅行雑誌を頼りに、現地に赴いたとしても、そこに“それ”はない。私たちの目は単焦点の広角レンズでもなければ、インスタグラムのバリエーション豊かなエフェクト機能も搭載していないからだ。神の奇跡や、死んだじいさんや、星空の絵画は“見える”のに、私たちに見える現実とは、全く厄介なものである。
キャノンギャラリーSで開催されている、写真家野口里佳の写真展『夜の星へ』を見た。今展覧会は、ドイツ在住の彼女が、いつも使っている2階建ての路線バスの窓から、流れ行く外の景色を一本のフィルムに撮りためたもので構成されている。写真展のタイトルである夜の星は、夜の街にまたたくネオンや街灯の光を指している。
写真はどれもボヤけていて、はっきりとした形態を写していない。定型と不定形の間を揺れ動き、認知と記憶、具象と抽象の間を彷徨っている。彼女のこれまでの作品にあったような、一つの光源からの光と物の対比はこのシリーズにはない。反射し、ボヤけ、拡散した散りじりの“星々”が、現れては消え、また現れては消えていく。写されているはずのものを捉えられないもどかしさが鑑賞者を突き放す。
しかし同時に、不確かな形態を留め置かない視線の推移が、ある種の安心感を与えているように感じる。そのような安心感は、不定形のもたらす逆説的なイメージの定着であり 、物質のエントロピー的な本質を物語っているのだろう。そのことは、彼女自身が“フィルムのコンタクトを1コマずつ見ていると、なぜか撮影しなかった瞬間のことの方が鮮やかに思い出される”と語るように、写真がアンフォルメルを写すとき、それは逆説的に形態の記憶を呼び起こすという事を現している。
私たちの視覚とは曖昧なものである。“見ている”という事を一つの事象として表現する事は困難だ。見る事は感じる事であり、匂いや感触や温度でもある。瞬間とは同時に、思い出でも有り得る。写真に写すとは、曖昧な身体の一部を、写真機に依拠し機械化する事による。正しい記録としては別だが、正しい記憶として“見る”事を写真にする事は本当に困難な作業である。
見たものを見る者に見せる写真家の仕事は、シャッターを切る瞬間に決まるところが大きいが、それは決して、形態を捉える“”その瞬間”であるとは限らない。野口里佳はこの困難な仕事に、たった一本のフィルムで挑む、とてもスマートで、シャープな写真家であると思った。
会場:キャノンギャラリーS
東京都港区港南2-16-6 キャノン S タワー 1F / JR品川駅港南口より徒歩8分
開館時間: 10:00 〜 17:30(日祝休館)