劇作家・高木登氏に聞く── 鵺的第10回公演『悪魔を汚せ』
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鵺的第10回公演『悪魔を汚せ』(高木登作、寺十吾演出)下北沢駅前劇場。左から、秋澤弥里、斉藤悠、高橋恭子、杉木隆幸、釈八子、祁答院雄貴、 福永マリカ、秋月三佳。 撮影/石澤知絵子
脚本・高木登、演出・寺十吾がおくる名門旧家の家族劇
家族という血のつながりがもたらす絶望を、高木登は描き、その闇の中に希望と愛を、寺十吾(じつなし さとる)は見出した。鵺的第10回公演『悪魔を汚(けが)せ』について、演劇ユニットを主宰する劇作・演出家の高木登さんに話を聞いた。
鵺的という演劇ユニット名について
──上演するたびに熱心なファンが増えていく鵺的(ぬえてき)ですが、ユニット名の由来を教えていただけますか。
高木 鵺的の「鵺」は、想像の怪物です。各パーツがいろいろな動物でできている怪物で、「鵺的」という言葉は、正体がわからないという意味です。どうして付けたかというと、ぼく自身の脚本家としてのスタンス──アニメーションの仕事しながら劇作もやったりという姿勢──だとか、あるいは、ぼくの作品自体もいろいろなジャンルの要素が混じってるもので、ひと言でこういうジャンルですと言い切れないものが多いものですから、正体がわからないというこの鵺的という言葉はふさわしいなあと思って、名乗ることにしました。
──正体はわからないんですが、舞台を通して描かれる出来事の輪郭は、はっきりされている印象を受けます。
高木 そうですね。一貫性はたしかにあると思います。
──鵺的の舞台は、性を取りあげることが多い。また、性に伴う暴力や、お金のように欲望に直結するものが、閉じられた特別な空間を舞台にして展開していく。あるときは純粋培養された性的志向が確認されることもありますし、生得的な性的マイノリティが描かれることもある。
高木 そうですね。テレビドラマや映画があまり取りあげないところに、あえてスポットライトを当てたいという気持ちがあるので、どうしても性だったり、暴力だったりという、メジャーな場所ではやれないことを、あえて取りあげようというところはあります。自分が小劇場で芝居を打つことの意味のひとつです。
そういうところに現れてくる人の姿が好きなものですから。見ているのも好きですし、描くのも好きなので、いきおいそういう事柄を取りあげることが多くなっていく。
──先日、Wケンジ企画の終演後のトークイベントで、山内ケンジさんも同じようなことをおっしゃっていて、道徳的なことよりもインモラルなものを書くほうが面白いとおっしゃる。でも、おふたりを比較すると、そういった人間の側面を描きながらも、そこに登場する人たちと関わろうというか、寄り添おうという視点が、高木さんの作品からは感じられるんですが……
高木 ドラマターグの中田顕史郎さんが「高木さんの作品は、弱者の叫びだ」と。
──そう思います。ただし、もっとなにかに包まれたものなので、言いきってはいけないような気がする。
高木 顕史郎さんがおっしゃるのだから、たぶん、そういうことなんだろうなと。
──常に、どこかで支えているような視点は感じます。
高木 ぼく自身は「叫び」とまでは意識してないんですけど、まあ言われてみればそうかなという気はしました。
──だから、悪者が絶対的な悪者にならないところがあって……その悪者もそれぞれの価値観を抱えていて、真実を抱えていて、それを追いかけていくことで、もうひとつちがう世界を見せてもらえる。それは善悪を超えたとか、そういうことではなくて、その登場人物の独自な価値観の世界があるのを見せてもらえる感じがするんです。それがわたしにとっては面白いというか、舞台を見て確かめられるなにものかという感じがしていました。
高木 ありがとうございます。わかりやすく悪で、わかりやすく善でということはなくて、いろんな人がいて、それぞれにいろいろなかたちをとって生きていて、それがぶつかりあうさま、それがドラマだと。
──偶然の要素も、うまく取り入れられますね。
高木 そうですね。でも、意図してやってるわけじゃなくて……
──なんとなく感覚的に……
高木 プロットも書かないですし、なんとなく発想があって、それの感触を確かめるように書く。だから、事前に出す情報とかが難しくて、いつも苦労しています(笑)。
──書いてるうちに、次第に話の全貌が見えてくるような執筆方法ですか?
高木 そうですね。スティーヴン・キングが書いていたことにいちばん共感するんですけど、キングは「物語を書くことは発掘だ」と。埋まってるものを掘りだす。よく仏像で、ありますよね、木のなかに埋まってるものを掘りだすんだと。そんな感じです。
劇作・演出家の高木登氏。
横溝正史作品を意識した血族のドラマ
──では、今回の『悪魔を汚せ』について伺います。登場人物の名前に、それぞれ「春夏秋冬」が一字織り交ぜられていて、そこから思い出されるのは、1970年代のテレビドラマ『雑居時代』なんですが……
高木 石立鉄男のテレビドラマ、『雑居時代』は意識していなかったです。
──意識した作品はありますか。
高木 こういうものをやるにあたって、好きなのは横溝正史で……
──血縁のほうですか。伝奇物という感じ。
高木 はい……まあ、ミステリじゃないですから、トリックもなにもないわけですけど、『悪魔の手毬唄』だったら、ひとりの男がいろんな女に孕ませているとか、『悪魔が来りて笛を吹く』だったら、近親相姦とか、ああいう人間関係に魅かれるものがあるんですよ。
ぼくが最初に家族の話を書いたのは『荒野1/7』という芝居です。ぼくには祖母がいて、母がいるんですけど、母はもらわれてきた。要するに、七人きょうだいがいて、その母親が死んだので、全員が養子、養女に出され、それでうちの祖母にもらわれたんですが、彼らがある年齢のときに、おたがいに探しあって集まったときがあったんです。そのことをモチーフにして書いたのが『荒野1/7』です。
次に、家族を書いたのが『丘の上、ただひとつの家』。自分の母は、家庭がある人と恋愛関係になって、それでぼくを生んだんです。父親のほうに家族があり、兄ひとり、姉ふたりがいるらしく、人に会うように勧められたんですが、結局、会わずじまいに終わってしまって、そんな経験を元にしてあの生き別れになった母を探す話を書いたんです。
どちらも自分の母親であったり、祖母であったり、自分であったりと、身近な問題から発想したものなんですが、今回は端から完全にフィクションです。母は七人きょうだいなんですけど、この家系がどこかマインドが弱いんですよ。行方不明になり大雪山が雪解けになった後に白骨死体で発見されたおばさんとか、一生結婚しないでカメラいじって死んでいったおじさんとか。うちのおふくろも鬱病ですし、ぼくも強いほうじゃないし、弟ふたりもそう。どうやら、そういう血の意識というのがやっぱりあって……
──弱さや精神病が遺伝的に継承されることには科学的根拠がなく、一応、迷信ということになっているんですが、高木さんはそれを超える何かがあると。
高木 何かがあると思ったんですよね。だって、養子、養女に出されて、7人全員バラバラに育ったのに、みんなそうですから。迷信かもしれないけれども、ひょっとしたら、何かがあるかもしれない。そこで、そのことにとらわれた人々を描こうと思って。
──かなり濃厚な血族で、さかのぼると、もっとすごいことが……ということがほのめかされる設定で書かれていて……
高木 それをフィクショナルに描いてみたという感じ。だから、血縁だけではなく、大人と子供、社会と若者とか、ある種の対立構造を交えながら書いてみたんです。
──大人と子供というのは世代間の対立、具体的には40代と20代の対立ですね。
高木 そうですね。結果的に、横溝的でもあり、社会劇的もあり、家庭劇的でもあり……演出家の寺十さんにも言われましたが、非常に不思議な作品になりました。
──いろんな要素が詰まっている。
高木 中田顕史郎さんにも、さまざまな影響が見受けられると言われました。
──話は途中から、長女と次女の闘いのように見えてしまい、サド侯爵が『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』で表現した、善の概念は無意味で、悪徳の限りを尽くすことによって繁栄していくという結末になってしまうと思ったのですが、実際の舞台では、それを超える何かが起きるんですね。
高木 起きますね。
鵺的第10回公演『悪魔を汚せ』下北沢駅前劇場。左から、高橋恭子、福永マリカ、祁答院雄貴。 撮影/石澤知絵子
寺十吾の演出がもたらした奇跡
高木 寺十さんの演出が「これは最初から愛の物語だ」と言って……
──血縁の闇を描いたおどろおどろしい戯曲が、いきなり愛の物語へ変わっていく。
高木 そうなんです。ラストシーンを見て、ぼくは泣きました。これは寺十さんの演出もあり、かつ妹を演じる福永マリカさんの演技もあるんですが、こちらの思惑とか台本の印象を超えたものになってます。びっくりしました。
今回の舞台は、最初から寺十さんに演出していただくことが決まってました。だいたい自分が演出するときは、家が燃えるとか、絶対にやらないです(笑)。だから、いつもよりスケールが大きな感じはしてますね。
──寺十さんを信頼して書いた何かが、作品に込められていて、それにおそらく寺十さんは、ものすごい感じで応えてくださっていると。
高木 まさにそういうことだと思います。自分でやるとしたら、こういう本は生まれなかった。ふだんは、自分でも演出してますが、やっぱり自分が演出することを前提にして書くので。自分は演出家ではなくて作家だという認識がありますから、自分の手に余る題材は、構想としていっぱいあるんですよ。そういうのはこれからも演出家にお任せしてやっていきたいと思っているんです。
──手に余る題材から、いろんな舞台が生まれてきそうですね。
高木 だから、いままでの作風とはぜんぜんちがう、たとえば評伝劇とか……
──『毒婦二景』がそうでしたね。昭和のはじめに起きた阿部定事件を、異なる視点から別のタッチで描いてみせた。
高木 いろいろネタはあるんですよ。だから、主に寺十さんにお任せするつもりですが、いろんな演出家さんと組んで世に出していけたらなと思っています。
──最後に観客の方々にメッセージをお願いします。
高木 今回の『悪魔を汚せ』は、寺十さんに演出していただくことを前提にして書きました。このところ、昔の作品に比べると、やさしくなったとか言われてましたが、ちょっと昔のえげつなさが戻ってきたかなと思いながら書いたんですが……
──でも、やっぱり、やさしくなってますね。
高木 はい。やはりここ数作を経ての今回だなという気はすごくしています。
そういう意味では、いままで過去の作品を見て、ちょっと高木の作品は苦手だとか、鵺的は一度見ればもうじゅうぶんだと思っているかたにも、これをご覧いただいてどう思うかは、ちょっと伺ってみたいなという気がしております。
(取材・文/野中広樹)
■作:高木登(鵺的)
■演出:寺十吾(tsumazuki no ishi)
■日時:2016年5月18日(水)~24日(火)
■会場:下北沢駅前劇場
■出演:秋澤弥里、秋月三佳、池田ヒトシ、奥田亮子、祁答院雄貴、斉藤悠、釈八子、杉木隆幸、高橋恭子、猫田直、福永マリカ(五十音順)
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