エンタメの今に切り込む新企画【ザ・プロデューサーズ】第一回・門池三則氏<前編>
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ザ・プロデューサーズ/第一回(前編) 門池三則氏
編集長として”エンタメ総合メディア”として様々なジャンルの情報を発信していく中で、どうしても話を聞きたい人たちがいた。そう”エンタメを動かしている人たち”だ。それは、例えばプロデューサーという立場であったり、事務所の代表、マネージャー、作家、エンタメを提供する協会の理事、クリエイターなどなど。すべてのエンタメには”仕掛け人”がおり、様々な突出した才能を持つアーティストやクリエイターを世に広め、認知させ、楽しませ、そしてシーンを作ってきた人たちが確実に存在する。SPICEでも日々紹介しているようなミュージシャンや役者やアスリートなどが世に知られ、躍動するその裏側で、全く別の種類の才能でもってシーンを支える人たちに焦点をあてた企画。
それが「The Producers(ザ・プロデューサーズ)」だ。編集長秤谷が、今話を聞きたい人にとにかく聞きたいことを聴きまくるインタビュー。そして現在のシーンを、裏側を聞き出す企画。今後連載として掲載していくことが決定している。
そんな中第一回目に直撃したのは、現、音制連(一般社団法人 日本音楽制作者連盟)の理事長であり、株式会社バッドミュージックの代表でもある門池氏だ。今回は前後編でお送りする。早速前編のインタビューをご覧いただきたい。
――門池さんがこの業界に入ったのは、ライブハウス『ラ・ママ』がきっかけですよね?
そうですが、もともとバンドマンで、大阪と神戸で3つのバンドでドラムを叩いてました。楽器のスタートはギター少年だったのですがね。
――どんなバンドだったんですか?
ブルースバンド、フュージョンバンド、ジャズフュージョンバンドの3つを掛け持ちしてました。
――少年期はギターを?
小学3年生の頃にベンチャーズが好きでテケテケのエレキギターが欲しくて5年生で親に1万円くらいのテスコのギターを買ってもらって、それから音楽と楽器に夢中になりました。親父が少しギターを弾いていたのでその影響もあると思います。
――お父様は趣味でやっていたんですか?
そうです。夜になったら2階の窓際に座って、田端義男さんとかを弾いて歌っていましたね。やっぱりギターが身近にあったというのが大きいかもしれないですね。それでフォークソングの楽譜本を買って、簡単なコードを覚えたり、最初はそんな感じですよね。
――でも本格的にドラムを始めたんですよね?
今でいうライブハウス。当時はゴーゴーホールとかダンスホールと呼ばれていたお店に行って見たり聞いたりしてました。何度か通い詰めてたら、色んなバンドのギターの方々が上手すぎて「こりゃ今更俺には無理だな!」て諦めていつしかドラムに転向したという(笑)。
――でもドラムはそれまでやられたことはなかったんですよね?
熊本の田舎町でバンドをやっててギターを弾いてた時に遊びでドラムを叩いたことは勿論あります。転向を思い立った20歳の頃、今から普通にドラムの勉強をしても追い付かないだろうと考えていた時に、心斎橋ヤマハ音楽教室でジョージ大塚さんというジャズドラマーの教室が始まるのを知ってジャズドラムを勉強してロックをやろう!と思い立った瞬間です。彼が教えていた期間の約2年間は本当に初心者から学び無我夢中に練習をして通いました。その後にジョージさんは東京の渋谷のヤマハ音楽教室だけ教えることになりましたが、彼から「髭(門池)ちゃんは大阪では上級クラスだけど、渋谷の教室では上級クラスの下だよ」と知らされ、「プロを目指すなら20代のうちに東京で頑張った方が心が折れないよ」とも教えられ、それでギリギリ28歳の時に会社を辞めて上京しました。それまでにはCATミュージックカレッジ(現、学校法人・大阪音楽学園キャットミュージックカレッジ専門学校)のドラム科で2年間音楽理論と共に浪速エキスプレスのドラマー東原力哉氏に学んだりもしましたね。
ザ・プロデューサーズ/第一回(前編) 門池三則氏
――そんなに早くはないですよね。
そうですね。でもメジャーデビューとかレコードデビューとか全く考えていなくて、ライブで飯を食うんだという認識でいました。スタジオミュージシャンやバンドのサポートミュージシャンだったり、そっちの方ですよね。20代半ばから東京には度々休日にライブを観に来ていて新宿の「ピットイン」とか渋谷の「ジャンジャン」とかにバンドのメンバーと行ってましたから何となく東京の雰囲気はつかんでいましたかね。ただ上京しても飯の食いぶちがないと生活が出来ないので何か仕事をしなくてはならないだろうと思ってましたね。それで計画的に上京する前にヤマハ音楽教室の講師の試験を受けたところ受かったので地方都市の教室での講師の仕事と、もう一方でライブハウスのブッキングの仕事の話があって、この二つの仕事をやったら日々の生活の安定がこれからの音楽活動を支えるものだと考えてました。
――音楽教室で講師をやりながら「ラ・ママ」のブッキングマネージャーもやって、ミュージシャンとしての活動、かなり忙しかったのでは?
私は、そのライブハウスのブッキングチーフとして4人ぐらいで運営をするようになったのですが、蓋を開けたら経営が大変になってるのを知って(笑)。もう講師とかバンドマンをやってる場合ではなくお店を再建するのに必死で(笑)、それに時間を取られてました。当時のライブスケジュールはミュージカルと音楽のライブが月に半々ぐらい入っていて、僕らは音楽の方のブッキングを担当してましたが、なかなか上手くいかなくて。このままでは経営的に無理だから思い切って店の名前でも変えよう!という話になってショーボート名から「渋谷ラ・ママ」に店名を変えました。そしてミュージカルをなくして音楽だけの小屋にしようと。それから上手くいって借金も減ってきました。それまでは電気は点かない、電話は止まっているという状況も時々あって、それを徐々に上手く軌道に乗せていくことができて現在の「ラ・ママ」があるし、気持ちは引き継がれています。余談ですが、お店は法人化して有限会社ラスライフ社を共同で設立しました。私の最初の会社でもあります。
――ブッキング担当者として当時注目していたアーティストは覚えていますか?
僕や僕の少し上の世代でいうと、東京では東京ロッカーズが注目を集めていました。演奏はそこそこだけど、オリジナリティがすごくて、いわゆるパンクロックシーンにどっぷりハマっていきました。僕自身も『ヤング・ミュージック・ショー』(NHK)などの番組を通じて海外の色々なアーティストの映像を観ていても、それまでジャズの勉強をしていた分だけ時間を損したんじゃないかと思うほど、ニューウェーブ・パンクシーンに夢中になっていました。色々なバンドのライブを目の当たりにしたり映像を目にしてすごく驚いて、俺は今まで何してたんだと。それまでテクニカル的なことばかりに目がいっていましたが、それ以外の様々な要素が自分の中に入ってきてカルチャーショック状態でした。それでニューウェーブ・パンクロックというのは俺の担当っていう流れになって、ハードロック、メタル系は別の人間がブッキングを担当するようになり、すみわけができてきました。高校生だったジュンスカイウォーカーズと出会ったのもこの頃です。日曜日の昼の部での出演でしたね。
――ラ・ママの経営状況を回復させ、腰を据えてここでやろうという感じだったのでしょうか?
いえ、それは全くなくて、その後店のオーナーと意見が合わなくなって辞めますが、その後「オレンジシャワー」という大阪のライブハウスの立ち上げを半年間ぐらいやったりしました。当時、まだそれほど売れていなかったチェッカーズが大阪のライブハウスで初めてライブをやったのがオレンジシャワーだったと思います。当時、私は戸川純ちゃんと知り合いで彼女のツアーを手伝っている時に、ツアー制作も楽しいなと感じでインディーズ系のイベンターをやってみようと思いました。再度上京して東京ロッカーズも含めたニューウェーブ・パンクシーンのものをやる、メジャーなイベンターがやらないアンダーグラウンド的なイベンター㈲PCMを共同設立し立ち上げました。この時期に「ラ・ママ」で面倒をみていた、高校を卒業したJUN SKY WALKER(S)と再度出合い、デモテープを作りたいという話で、「ラ・ママ」で深夜の時間帯を使って作業(エンジニア)して4曲入りのカセットテープを作ったりしていました。その流れでジュンスカのメンバーとより親密になって原宿のホコ天でライブをやってみようか、てことになりましたね。徐々にお客さんがいっぱい集まるようになり、カセットテープも完売したりしました。その後にはホコ天キングって言われてたんじゃないんですかね。ただ、カセットテープの自宅でのダビング作業が大変でしたね。パッケージも丁寧にハンドメイドで制作して4曲入り500円で売っていました。
――ジュンスカの音楽を聴いた時に、ピンとくるものがあったんですか?
最初はなかったです(笑)。当時“ライブハウスコミュニケーションズ”というライブハウスらの繋がりがあって、東京、横浜、千葉、名古屋、大阪、神戸、岡山他のライブハウス10店舗くらいとお酒を飲みながらネットワーク作りと情報交換をしていました。その時の目標が、ライブハウスも市民権を得ようということでした。簡単に言えば電話局の104の問い合わせの職種に「ライブハウス」があったらいいね~とかですよね。当時ライブハウスは不良が集まるところというイメージがありました。ジュンスカのホコ天ライブでいくらお客さんが増えても、そのお客さんがライブハウスに足を運ぶような流れを作っていかなければなりませんから、ライブハウスは怖くない所ですよ~お父さんお母さんも一緒に来ませんか~という啓蒙運動ですよね。お子さんがライブハウスの
ザ・プロデューサーズ/第一回(前編) 門池三則氏
――そこから本格的なマネージメントの仕事がスタートしたんですね。
そうです。一連の流れですね。
――ジュンスカはあれよあれよという間に売れていきました。
1987年にインディーズレーベルの「CAPTAINレコード」からミニアルバムを出して、それが世の中に出回ってメジャーレーベル8社からデビューの話がきました。それで’88年にVAPレコード内TOY’S FACTORYレーベルからメジャーデビューしました。
――では「バッドミュージック」という会社は、ジュンスカのマネージメントをやるために設立した会社ですか?
そうです。彼らがメジャーデビューした後のタイミングでバッド・ミュージックを設立しました。ただその少し前に、彼らのインディーズ時のカセットテープを売ってる時に、テープがふにゃふにゃして音が悪い商品がたまにあったりしてその時のテープの交換とか問い合わせ先として冗談半分に「バッドミュージック」という名前にしました。問合せ先に「バッドミュージック門池」と書いてその自宅電話番号にライブハウスの
――本格的にマネージメントとプロデュースが始まりました。
ホコ天でカセットテープを売ったお金で、次のホコ天ライブで使うPA 機材一式やジェネレーターとかを借りたり、次のレコーディング費用を捻出したりとか、予算の管理は基より車の運転からレコディングエンジニア、PAオペレーター、ローディまで全部やっていました。アレンジも一緒にしてましたね。
――いつの間にかマネジメント会社の社長になっていましたが、ミュージシャンとしての道はあきらめたのでしょうか?
いえ、まだ自分でバンドをやりたいって思っていて、ジュンスカに武道館目指そうぜって言って、その時が来たら俺に歌わせろって言ってたくらいで(笑)、自分の中ではバンドで音楽をやりたいという気持ちは消えていませんでした。その想いがモチベーションになって色々できていたのかもしれませんね。
――そもそもミュージシャンですもんね。
そうなんです。根がバンドマンなんです。
――バンドマンだからバンドマンの気持ちがわかるという。
そうですね。「ラ・ママ」にいる頃も、いいバンドでもドラムがあまり良くないバンドにはドラムのレッスンをしていましたね。次のライブはこれを覚えておけば楽になるよという実践的なことをお店でマンツーマンで深夜に教えていました。
――バンドの肝はドラムですよね。
安定している方がいいですよね。
――バッドミュージックを立ち上げて、ジュンスカがどんどん売れていきました。
そうなんです。それまで個人でやっていましたけど会社にしないとまずいよ、という状況になって。しばらくは会社にする気はなかったんですけど、でもやらないといけなくなって。そんな大きな責任取れないよーってこの段階でもまだ思っていましたがね。会社にするのもジュンスカをやるためというか、やる羽目になっちゃったという(笑)。メンバーも、メジャーレーベルから話があった時に、事務所も紹介しますよと言われてましたが、その時「どうせ売れないから門池さんがそのままマネージャーみたいなことやりませんか、今までと変わりなく」と言ってくれて。じゃ2年間という期限を決めてやったんです。そしたらメジャーデビューして1年半後には日本武道館2daysが決まったので、これはもう自分で責任もって会社にしてやるしかないなって。
――2年あったらジュンスカがもっと売れるという自信があったのでしょうか。
全くなかったです。2年過ぎたら自分自分でバンドをやろうとまだ思っていましたからね(笑)。
ザ・プロデューサーズ/第一回(前編) 門池三則氏
――ミュージシャンを育てるのも、最低2年必要ということですか。
そうですね。今も、今までもそうですけど、いいバンドがいたら「2年一緒にやらない?」て言います。
――何かで読んだのですが、門池さんは昔から「アーティストを売るためには3000万円必要。3000万円貯まったら次のアーティストをやる」と言っていたというのは本当なんですか?
近いですね。音楽業界も景気が良かった時に、税理士に1億円くらいお金ありますよって言われて、不動産も興味ないし税金対策もよくわからないし、それでじゃあ1億円あったらバンド(のマネージメント)やるよって言いました。1バンド育てるのに大体2000~3000万円はかかるから、だから1億円あったら4バンドくらいできるんじゃないかというザックリした感じですよ。でも結果的にはそういうお金では良い作品が沢山残せても残念ながら良い結果は残せなかったですね。
――会社が大きくなってもビルを買ったり錬金術に走らないで、全部アーティストに注ぎこんでいたんですね。
そうです(笑)。あとは四谷3丁目にスタジオを作りました。プライベートスタジオとしてですが、メジャーアーティストはゲネプロで、インディーズは本チャンレコーディングで使っています。
――門池さんというと、デビュー当時のMr.Childrenの名前が出てきます。
「ラ・ママ」にいいバンドいないの?って聞いたら、ミスチルっていう良いバンドがいますけど観ませんかと言われ、観に行ったらまだ“粉っぽさ”が残っていて、その時は特別あまり印象はなかったですね。その後に当時VAPにいた稲葉さん(現TOY’s FACTORY社長)がいいバンドになってきましたよ、観ませんかというので2回目観に行ったら凄く良くなってて、いいねってなって。それからアマチュアから1年以上一緒にやって、メジャーデビューはTOY’s FACTORYでやることになりました。宣伝はジュンスカでやった紙媒体、電波媒体に協力してもらい、当時はカセットテープをサンプル的な感じで記憶では5000本くらい?作って配ったりしていました。僕はテレフォンカードを名刺代わりにミスチルよろしくお願いしますって配っていました。ジュンスカの時もそうでしたけど、アーティストの名前や楽曲を覚えてもらうために、自分で率先してキャバクラで歌うという“プロモーション”をやっていました(笑)。ミスチルのデビュー曲「君がいた夏」を歌うんですけど、キャバ嬢もだんだん曲を覚えて、そのうち“本物”のライブを観にいくようになったら、「本当はこういう曲だったのね」って(笑)。こういうパターンはよくありました(笑)。
――門池さんがバンドを見て、プロデューサー魂をくすぐられるポイントはどこですか?
それはどんどん変わってきてますよ。自分が今欲しいものというか、こんなの聴きたいなというのがあれば、耳がどうしてもそっちの方になるし。そういうのをやって上手くいかなければしばらくやめておこうということになりますよね。でも基本的に僕のプロデュースというのは、メンバーに意欲、やる気を出させるために何を言うか、言えるかということです。曲が書けないって言っているのに書け書けって言うのではなく、ご飯を食べに行ったり何気ない会話をするとか、そういう時間と会話の中にヒントがあるものだと僕は思っているんです。だから生き方、精神論的なものを言う時もあれば、ライブの打ち上げでメンバーがギスギスしていたら、頑張ったんだからもう飲みに行こうぜって切り替えて連れて行って騒ぐとか、そんな感じですよね。精神安定剤的存在とでもいいますか……。
――やっぱりアーティストの基本はライブだと思いますが、ライブに関しては門池さんはどんなアドバイスをするのですか?
今できるライブ、将来につながるライブ、どうなりたいかという道しるべになるようなヒントを与えるのが僕の役目です。今日のライブは次のツアーをカッコよく見せられるように頑張ろうかとか。次の目標に持っていくよう、早めに考え方を切り替える方がいいですよね。僕はそうします。
――今までそうやって1本1本アーティスト、メンバーに言葉で伝えてきたんですね。
雰囲気ですよね。俺怒ってないよ、注意だけだからって(笑)。飲みに行って説教とか嫌いだし、自分もだんだん丸くなってるし(笑)。でも1、2本見てしっくりこないとセットリストを変えるようなことは言います。メンバーはお客さんの顔を見ることができても、背中は見えませんよね。僕は会場の後ろの方で観ていてお客さんの背中で、どう感じているのかを見てとって、それをメンバーに伝えるのが役目だと思っています。演出家としての部分と、メンバーとお客さんの間の距離を縮めるのが僕の役割です。
企画・編集=秤谷建一郎 文=田中久勝 撮影=風間大洋