【コラム】物語の中のアートたち/恩田陸『ライオンハート』の中のミュシャ《イヴァンチッツェの思い出》

2016.12.28
コラム
アート

恩田陸『ライオンハート』 新潮社公式サイトより(http://www.shinchosha.co.jp/book/123415/)

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実在するアート作品が登場する物語を読むと、実際にその作品を目にした時、物語に出てきた場面や会話が甦り、よりいきいきと鑑賞することができる。また、文による緻密な描写は、深く充実した理解を促すだろう。ここでは絵画を効果的に使っている小説、恩田陸『ライオンハート』をご紹介する。

小説と絵画、共通するテーマは"記憶"

五つの短編からなる『ライオンハート』は、二人の男女の時空を超えた恋愛が繰り返し描かれる秀作。そもそもの創作のきっかけは、作者である恩田陸が、東京都美術館の『テート・ギャラリー展』で一枚の絵を見たことから始まったそうだ。五つの短編にはそれぞれモチーフとなった絵画があるが、中でも絵がキーアイテムとして深い印象を残すのは、パナマが舞台の短編「イヴァンチッツェの思い出」である。

最愛の妻を殺された主人公が、妻を亡くした日に見た絵は、アルフォンス・ミュシャの《イヴァンチッツェの思い出》だった。犯人に接近すると共に、夢の中で浮かび上がってくる絵の情景。そして主人公は、ついに相手を追いつめる。しかし絵とともに掘り起こされていく事実は……。物語の中でキーワードになるのは"記憶"。そしてそれは、ミュシャの《イヴァンチッツェの思い出》の根底に流れるテーマでもある。

《イヴァンチッツェの思い出》に描かれたミュシャの慕情

ミュシャは、祖国である南モラヴィア地方(チェコ共和国東南部)から、ウィーンとドイツへ渡った後にパリへ出た経歴を持つ。その後下積み期間を経て、アール・ヌーボーの旗手となっていく。《イヴァンチッツェの思い出》を描いた頃、キャリアの絶頂にあったミュシャは、チェコ人女性であるマルシュカ・ヒティロヴァと出会う。華やかなパリジェンヌに囲まれながらも、妻にするのは同郷の女性と決めていたミュシャ。二人は恋に落ち、結婚して生涯を共にすることになる。

アルフォンス・ミュシャ《イヴァンチッツェの思い出》 画像提供=「ミュシャを楽しむために」(http://www.mucha.jp/)

 「イヴァンチッツェ」とは、ミュシャが生まれた南モラヴィア地方の地名だ。絵の中では、淡い黄昏色の空の下、復活のシンボルであるツバメたちが、いっせいに巣に帰ろうとしている。背景の建物は、ミュシャが幼年期に足しげく通ったイヴァンチッツェ教会塔。左隅にある四角が三つ並ぶ模様は、イヴァンチッツェの市のシンボルマークである。遠い異国の地で名声を納めながらも、いつもミュシャの心にあったのは、故郷であるイヴァンチッツェであり、祖国チェコ共和国だったのだろう。絵の中の少女はミュシャの初恋の相手とされるが、もしかすると生涯の伴侶であるマルシュカでもあり、かつミュシャが愛した遠い故国の象徴なのかもしれない。

ミュシャと言えば、女神のような美女やほっそりとした植物を、装飾的な曲線で描いた作品が思い浮かぶ。ところが《イヴァンチッツェの思い出》には、それらの題材が登場しない。それにもかかわらずこの絵が、ミュシャらしい魅力を放つのはなぜか? それは、《イヴァンチッツェの思い出》には、ミュシャの故郷への変わらぬ愛情が、ひときわ強く投影されているためではないだろうか。

『ライオンハート』に絵画が登場するワケ

恩田陸の手による短編「イヴァンチッツェの思い出」は、ミュシャのタッチが投影されたかのような繊細な言葉で綴られ、結末に忘れがたい余韻を与える。『ライオンハート』中の他の短編では、ジャン・フランシス・ミレーの《春》やフェルナンド・クノップフの《記憶》などの絵画が使われているが、いずれも線が細くて柔らかく、どこか夢幻を誘う絵だ。隠された意味を知りたいと思わせる絵には、小説家と読者の想像力を大きく飛躍させる作用があるといえるだろう。

 

書籍情報
ライオンハート
 


著者:恩田陸
価格:767円(税込)
発売日:2004年2月1日

いつもあなたを見つける度に、ああ、あなたに会えて良かったと思うの。会った瞬間に、世界が金色に弾けるような喜びを覚えるのよ……。17世紀のロンドン、19世紀のシェルブール、20世紀のパナマ、フロリダ。時を越え、空間を越え、男と女は何度も出会う。結ばれることはない関係だけど、深く愛し合って――。神のおぼしめしなのか、気紛れなのか。切なくも心暖まる、異色のラブストーリー。

新潮社公式サイト:http://www.shinchosha.co.jp/book/123415/