【公演評】勅使川原三郎が踊った『月に吠える』~詩人・萩原朔太郎と共有した「過去の死」と再生

レポート
舞台
2017.9.12
 (photo:Hideto Maezawa)

(photo:Hideto Maezawa)


 勅使川原三郎による振付・美術・照明・衣装・選曲の新作『月に吠える』(東京芸術劇場プレイハウス/2017年8月24~27日)が上演された。日本近代詩の父と言われる萩原朔太郎の詩集ー『月に吠える』刊行100年記念ーの公演でもあった。おりしも8月16日に発表された、フランス政府による文化勲章オフィシエの授与式が、24日の初演終演後に舞台上で行なわれた。1980年代後半からの独自の創作活動において、フランスと日本で重ねてきた舞台活動によって芸術の発展に著しく貢献したことに対して、またその創作活動においてフランスと紡いできた特別な関係を踏まえて、叙勲されたのである。

 さて『月に吠える』の出演ダンサーは、勅使川原の他、勅使川原が主宰する「KARAS」のメンバーから、佐東利穂子、鰐川枝里、また勅使川原が2014年に、スウェーデンのイエテボリ・オペラ・ダンスカンパニー振付時に出会ったマリア・キアラ・メツァトリ(イタリア生まれ)と、パスカル・マーティ(フランス生まれ)である。マリアもパスカルも、すらりとした長身で、峻烈な動きのダンサーだった。勅使川原のメソッドは、最終的には各ダンサーの身体性を生かすものだが、国際的に共有され、求められている現実を改めて確認できた。

(photo:Akihito Abe)

(photo:Akihito Abe)

 大正6年(1917年)、萩原朔太郎が31才で発表した第一詩集『月に吠える』。明治の日露戦争前後の言論統制と、昭和の第二次世界大戦に参戦して行く〈全体主義〉を形成する契機の一つ治安維持法(大正14年)成立の狭間(はざま)にあった、大正ロマンの時代(それでも本詩集中の、鮮烈なエロティシズムを発光する「愛憐」と、ジェンダーに触れる「恋を恋する人」2篇は、当時は国務省の検閲で削除された)。国際的には、第一次世界大戦前後からの前衛芸術運動の勃興期。パリの「バレエ・リュス」も艶(あで)やかさを極め、ドイツ表現主義舞踊も、既に芽吹いていた。

 国内では、新しい理想の社会を目指す白樺派などもあったが、〈全体〉の反対は〈個人〉であり、病弱で、精神的な苦悩もあった朔太郎が向かったのは、「個人の闇(やみ)」だった。詩集の序にある「月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。私は私自身の陰惨な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまいたい」、これにインスピレーションを得た勅使川原の『月に吠える』の冒頭は、まさにそれを現代の装置と美意識の中に釘づけにしたようなシーンだった。

 まず目を引いたのが、横長の額縁舞台の、観客席から見て「左辺の縦方向」と「下辺の左右」を巨大な「L字型」に繋(つな)ぐ、チューブのようなライト。この巨大な「L字型」は、舞台の一番手前、中頃、奥と、平行した等間隔に3つが並ぶ。そして、中央より上手寄り(観客席から見て右寄り)に、勅使川原が奥から登場する。

(photo:Mariko Miura)

(photo:Mariko Miura)

 ポスト・モダン調の、速度のある軽い打音が、ずっと続く中、いつものように、見飽きることのない、動きは多様でも、精神的な中立(ニュートラル)を確実に獲得した、確固たる存在感を解き放つ勅使川原の姿とダンスがあった。黒いジャケットに、黒いパンツ。

 しばらくすると、床全面にも左右に光のチューブが等間隔に何本も走る。その床上に出現したのは〈黒い三体の影〉、鰐川、マリア、パスカルである。影なので、勅使川原に足を向け、やはり等間隔で仰向けに横たわる。朔太郎も、勅使川原も、過去を焼き付け、そこから解放され、新しく生きて行きたいらしい。「常に、今」ということである。

 ただし、連打音もアルファ波を誘うような瞑想的なものであったように、この冒頭から高い精神的な境地が漂っており、8月なので、原爆投下や終戦(敗戦)記念日の報道を沢山(たくさん)見た後の筆者には、〈過去や懺悔〉を焼き付ける影を超え、ピカドンの灼熱の中に、焼き付けられた影にも見えた。こう書いても、微塵(みじん)も不謹慎ではなく、自らの過去の命の供養ができる人が、他の命の供養もできる、と言わんばかりの光景に見えた。

 やがて影達は、生きていた時間を速回しで思い出すかのように、カラフルな衣装で各々に踊り動き、もう一度静かに横たわる。そのうち、床上に平行に走っていた何本もの光のチューブが、上手に引き摺(ず)られて消え去り、通常のリノリウムの床面が現れる。

 そして、月光を身に纏(まと)ったような佐東利穂子が登場した。佐東も、すらりとしたダンサーだが、長い腕で情緒を、また込み入ったステップで、脈動を強調しているように見える。とは言え、さまざまな情緒をそのまま表現する、などと言うことはない。胴体の動きに匂いを添え、またはダリの絵のように、腕で描かれた高速な軌跡や機転を伴い、情感が現れ出る。朔太郎の詩片「手に聖書は銀になる」のリフレインも、耳に残る。

(photo:Mariko Miura)

(photo:Mariko Miura)

 佐東と並ぶ時の勅使川原は、オレンジ色の半袖のTシャツ姿。今回は光沢があるが、この衣装で思い出すのは、2007年の勅使川原のソロ『ミロク』(新国立劇場小ホール)である。弥勒をミロクと読み替えた現代性と、やはり精神性。未来志向の宇宙人のような、それでいて謙虚な修業者の身の上であるミロク。筆者は、その時も一生懸命に舞台評を今は休刊中の紙媒体に書いた。そして、ダンスを踊った勅使川原は「2007年度舞踊批評家協会賞」を受賞した。私はその時から、勅使川原の中にある謙虚な精神の美しさに気づいたのであった。

(photo:Hideto Maezawa)

(photo:Hideto Maezawa)

 前述の、佐東の腕に情緒を見た視線で、勅使川原の身体を眺めると、いつも膝の屈折にも趣があるが、一流のダンサーなのだから下半身の確かさと、憎いほどの軽(かろ)みは言うまでもなく、朔太郎の「危険な散歩」の一節「春になって、/おれは新らしい靴のうらにごむをつけた、/どんな粗製の歩道をあるいても、/あのいやらしい音がしないように」を映えさせる。

(photo:Hideto Maezawa)

(photo:Hideto Maezawa)

 だが私が、勅使川原の身体性で〈常に抜きんでて素晴らしく〉思うのは、〈胴体から抜き出た首と頭から放たれる、宇宙観のような広がり〉である。特記すべきは、散々(さんざん)にこだわって創作するに違いないのに、慎重さの中に浮き立つ、〈踊る身体が発する、こだわりのない、嫌みのない、空(から)っぽな広がり〉である。

 それこそは、欧米も〈禅や東洋思想〉から影響を得たと言う、いわば〈空(くう)がベースの、インターナショナルなニュートラル〉でもあろう。理屈で言えば、勅使川原の場合、下半身から吸い上げられたエナジーが、存在感を維持する腹や、コズミック・ラヴの座の胸のチャクラを通過し、表現の座である首のチャクラ、神秘的な見通しを備える眉間のチャクラを経て、空(そら)へとつながる〈頭上のチャクラ〉まで、滞(とどこお)りなく、遮(さえぎ)るものなく、〈ず~んと貫かれる〉。

(photo:Akihito Abe)

(photo:Akihito Abe)

 そればかりか、腕や掌(てのひら)も、高速で走るかと思えば、時々、おしゃべりな語りを紡ぐ。勅使川原の場合、そのような見飽きることのない、純粋なエナジーと化したベースの上に、絶え間なく、テーマを介在させた上での「内外」、そして自覚的な自分であろう「中」への絶え間ない身体各部の反応と、各領域への直感的なタイミングを伴うスイッチ移動があり、それらがダンスの身体性と空間を豊穣に耕し、磨ぎ澄まされた感性をもって上質な集中の場へ、観る者を誘(いざな)う。

 ただし、勅使川原が、そのようなことを〈考えている〉はずもなく、オリジナリティーを追求した結果、そのような普遍の領域に届いているのが、勅使川原のダンスなのである。今回の舞台は、詩の言語、光のチューブ、音(ほとんどがポスト・モダン調の高音や鈍い音などに、時にピアノの単高音の連打が混じり、終盤では、女声のヒーリング的な歌唱もあった)に、勅使川原、佐東、そして3人のダンサー達が、交互にオーラを発して関係性を重層化し、あるいはダンサーが個別にダンスを生み出して、場が紡がれた。

(photo:Mariko Miura)

(photo:Mariko Miura)

 逆に、<静止>の状態で印象深かったのは、「天上縊死(いし)」と題された朔太郎の詩の中の「天上の松に首をかけ。/祈れるさまに吊るされぬ」というフレーズが、リフレインされた場面である。いわゆる縊死を真似(まね)たダンサー達が、天井から何十cmか下に設置されたベルト上に、首を仰向(あおむ)け、吊るされたままの姿で、左右に移動して去り行く緊張の高い場面だ。

 この舞台における「死」と「再生」は、この場面を介するのみで終わるほど単純ではなかったが、最後には、光のチューブが、小山のように積み上げられ、上手奥に現れる。そして、その斜め前方に勅使川原が現れ、光のチューブを振り返って終わる。もはや、そこには焼き付けられた影もなかった。今の状況は、前進するのみのようである。

 これからも勅使川原の活動は、多方面に続くが、今年は2003年、2006年、2013年と積み重ねて来た「パリ・オペラ座バレエ団」への新作振付が、10月25日に世界初演を迎える。今回、エサ・ペッカ・サロネンの現代的なヴァイオリン・コンチェルトが選曲されている。ダンス・シーンの行方を担う勅使川原三郎に、今後も期待したい。

(photo:Akihito Abe)

(photo:Akihito Abe)

文=原田広美

公演情報(終了公演)
勅使川原三郎『月に吠える』

■日時
2017年8月24日(木)19:30
2017年8月25日(金)19:30
2017年8月26日(土)16:00
2017年8月27日(日)16:00

■会場
東京芸術劇場プレイハウス

■振付・美術・照明・衣装・選曲・出演
勅使川原三郎

■出演
佐東利穂子
鰐川枝里
マリア・キアラ・メツァトリ Maria Chiara Mezzadri
パスカル・マーティ Pascal Marty(イエテボリ・オペラ・ダンスカンパニー)

■「月に吠える」特設サイト
http://www.st-karas.com/camp2017/
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