ショパン国際ピアノコンクール 桑原志織・進藤実優・牛田智大の第三次予選を振り返る【現地レポート】
(C)W. Grzędziński/NIFC
世界三大コンクールとひとつとされる『ショパン国際ピアノコンクール』。2025年は10月3日より、ポーランドのワルシャワで予選が開始され、その動向が注目されている。SPICEでは音楽ライター・朝岡久美子氏による現地からのレポートをお届けする。
第三次予選は20名の出場者が登場。10月14日~16日の三日間で審査が行われた。その後に続くファイナルのステージはオーケストラ伴奏による協奏曲の演奏がメインとなるため、ピアノソロでの審査としてはこの第三次予選が最終となり、最も重要なステップの一つだ。三次予選に出場した日本人は演奏順に桑原志織、進藤実優、牛田智大の三人。まずは彼らの演奏に焦点をあててこのラウンドを振り返ってみたい。
出場者にとっての鬼門~第三次予選
三次予選では45~55分内の制限時間で、ソナタ第二番か第三番のどちらか、そしてマズルカから任意の作品番号全曲の演奏が必須課題となる。残りの時間は自由にプログラミングが可能だ。ソロ審査の最終ステージとなるため、ショパン円熟期や晩年の難解で複雑な構成を持つ大作があふれんばかりにプログラミングされるケースが多く、演奏する側ももちろんだが、聴き手もかなりのエネルギーと集中力が要求される。
特にマズルカという作品は、“ポーランドの魂”と言われる各地方の民俗舞踊音楽のリズムや旋律がベースとして描かれた作品で、このコンクールにおいて、「これを制することができなければショパン弾きとしての評価はない」と断言されるほどシビアかつ、重要な作品群だ。だからどんなに経験値を踏んだピアニストたちでも、ショパン・コンクールのステージでマズルカを演奏することにとてもナーバスになってしまう。だから、特別賞として設けられているマズルカ賞の価値と評価は極めて高いのだ。
あいかわらずカッコいい、ブレない演奏~桑原志織
(C)W. Grzędziński/NIFC
初日14日に登場した桑原志織は「スケルツォ第三番」、「マズルカ作品33」、「ソナタ第三番」を演奏した。まずはオクターブ連打の応酬が印象的な「スケルツォ第三番」から。とにかくカッコいい演奏だ。まったくブレもなく、決して聴衆に媚びることなく安定感を貫く。その覚悟を決めた演奏ぶりは微に入り細を穿つも良いが、何よりも全体像のスケールの大きさに心惹かれるものだった。
マズルカで聴かせた輝かしく明るい音は、人々が輪になって踊っている情景やその空気感までをも感じさせ、桑原自身も楽しんで演奏しているようだった。終演後のインタビューでは「この時期のマズルカは純粋なるショパンの人となりが感じられて好き」と語ってくれた。
「ソナタ第三番」――ショパン晩年の作品で構成的に非常に複雑でロマン派的な要素のすべてを包括している長大な作品だ。ロマンティシズムの極致ともいえる旋律は純粋に美しいだけではなく、驚くほどに息が長い。この長大なフレーズを桑原は愛おしむように最後まで丁寧に描き出す。それに伴うダイナミクスも弧を描くように、流れるように美しく、甘美極まりない第二主題へと突入する際の力学的なものが生みだす美学を最大限に引き出していた。桑原は元々、このように構築が求められるスケールの大きな作品が好きだそうだ。
(C)K. Szlęzak/NIFC
(C)K. Szlęzak/NIFC
第二楽章では音の粒があたかも輝きを帯びた水しぶきのように軽やかさときらめきを放っていた。全楽章の中で最も優美さと甘美さを持ち合わせた第三楽章(Largo)では豊かな情感あふれる、しかし安定した和声感に載せて描き出される安らぎやまどろみのような淡いものが、夢の中のワンシーンに描き出されているかのようだった。
そして終楽章では前楽章とは相反する心理描写をあふれんばかりの情熱で表現。無窮動(休符のない常動曲)のごとくにとめどなく流れゆく激情は桑原にしか生みだすことのできない唯一無二の最強音で完璧なカタルシスを体現し、このステージを有終の美で飾った。
撮影=朝岡久美子
終演後のインタビューで、「三楽章は『何を夢見て弾いていたか?』」と尋ねたところ、「夢を見ていたという表現よりも、会場の空間から感じるものにインスピレーションを得て弾いていたというのがふさわしいかもしれません」と答えてくれた。会場空間と同調しながら弾いていたのだという。それほどまでに余裕があったようだ。不穏と安寧、神秘的な宗教性と狂気にも近い激情的なコントラストを描き出した「スケルツォ第三番」から始まり、ショパンの心の奥底に秘められた“望郷”の想いを湛える「マズルカ」、そして深い精神性の高みを描き出した「ソナタ第三番」とプログラミングのストーリー的構成感も見事なステージだった。
豊かな表情と決然とした構成感~進藤実憂
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日本人出場者二人目は進藤実優。「マズルカ作品56」、「ソナタ第二番」、そして「アンダンテスピアナートと華麗なる大ポロネーズ」というラインナップ。進藤のロシア仕込みのピアニズムにはこれくらいの円熟期の作品がふさわしい。特に三曲目の目まぐるしく転調し、数々の旋律が錯綜する複雑な長尺の曲を豊かな表情と決然とした構成感をもって聴かせた。
続くソナタ第二番では怒涛のような息の長い旋律を情熱的に描き出し、絶妙なテンポの緩急を聴かせつつ劇的要素を最大限に引き出していた。しかし、それは決して計算によるものではなく自然と湧き上がる感情の発露だということが痛いほど感じられた。その熱情が第三楽章の「葬送」の中間部カンタービレで“浄化”というプロセスを経て昇華されていたようにも思える。そのような意味では楽章を超えて有機的な構成感が見事に構築されていた。
(C)W. Grzędziński/NIFC
(C)K. Szlęzak/NIFC
ソナタを弾き終えた後、まだ一曲残しているにもかかわらず客席から大きな拍手が沸き起こったが、進藤は微動だにせず落ち着いていたのも感心させられる。そして何小節ごとかにロングスカートで隠れている左足をバレリーナのようにヒョイとあげ、華奢な身体を全身使いながら、上手くバランスを取っているのがよくわかり興味深かった。
前回から今回のコンクールまでの4年間の歳月、進藤はショパンの作品のみならず他の多くの作曲家の作品演奏にも同様に力を注ぎながら準備を重ね、この日を迎えたという。演奏後のインタビューでは、「4年前と今はどのようなことが違うか?」という質問に対して、「勉強する環境も変わり、関わる人々も変改し、より多くの方々からインスピレーションをもらっています。私自身の好奇心もより広くなったと感じています」と答えていたのが印象的だった。
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コンクールの奇跡を体現!夢を与えてくれた牛田智大
(C)K. Szlęzak/NIFC
そして三人目は牛田智大。二次予選の後、各国メディアを囲んでのインタビューをキャンセルし、姿を消してしまっただけに日本のジャーナリスト陣も心配していたが、三次予選最終日の12日に元気な姿でステージに登場した。ステージ上の動線を歩くとき、少し伏し目がちなのは、この人の性格なのだろう。しかし、いざピアノに向かうと今日の牛田はまったく違った……。
「プレリュード作品45」――幻想と悲壮の間を彷徨うかのような深い精神性に満ちた音楽。同時に壊れそうなまでの繊細な感情を見事に音に託し、客席を強い磁力で惹きつけた。「この作品はこんなに存在感があるものだったのだろうか?」と思わせるほど、曲に鮮やかな命を吹き込んだ。
「マズルカ作品56」――牛田もこの難解なマズルカを選択した。1~2曲目では農民が輪になって踊っている様子が手に取るように感じられるほど生き生きとした描写が冴えわたる。まさに「光る喜び」という造語のような幻想的な言葉がふさわしいほどに鮮やかで、ショパン晩年期の故郷への憧憬が痛々しいほどに伝わってくる演奏だった。
(C)W. Grzędziński/NIFC
(C)W. Grzędziński/NIFC
三曲目はこの複雑な構成を持つ作品の曖昧な構図をどこまでも幻想的に膨らませ、ショパンの内なる感情にどこまでも同調する。しかし、舞踊的なリズムが聴かせどころの旋律では見事にその存在感を印象付け、この作品が湛える潜在的な力を見事に活かし、よみがえらせていた。
終演後のインタビューで牛田はこの作品について次のように語っていた。
「マズルカも作品56くらいになると学術・文化的な観点から民族的舞踊を遺すというのではなく、ショパンの追憶の中にある……心の襞の深淵にあるものの発露なんです。でもマズルカというタイトルである以上、舞踊的な要素も根源にある。だからその二つのバランスをいかに取るかですよね」と。まさにこの日の演奏はこの言葉を体現するものだったことを付け加えておきたい。
(C)K. Szlęzak/NIFC
「幻想曲作品49」――冒頭、葬送の厳かな旋律は序奏からすでに高貴さを湛えていた。骨格はあれど、即興性を感じさせるこの作品において、その時点から流れるようにすべてが運んだ。レポートだからこそ感情的にならないというのが身上だが、今日のこの牛田の演奏においてはそれがあてはまらない。まさにそういう状態で語らなくてはレポートが成立しない……、いつもと違う何かがこのステージ上で起きていた。‟ショパン・コンクール” という場において音楽の精霊たちが牛田の奏でるピアノの周りに舞い降りてきたとしか言えない演奏なのだ。コラール的な中間部を経て、コーダへと高らかに歌い上げるくだりでも、牛田は一歩間違えると崩れてしまうほどギリギリの境界線を保ちながら、渾身の力で音響空間に放たれる倍音を美しく繊細にまとめ上げ、全会場を包み込む最高の余韻を残した。
そのままの驚異的な集中力と高揚感で「ソナタ第三番」へ。この作品でもショパン本人が感じていたであろう壊れそうな感情と理性の合間のギリギリのところで晩年のショパンの心の襞のすべてを音に旋律に託していた。特に三楽章 Largo(ラルゴ)のたゆたうような旋律の中に、この作曲が生きたであろう全人生への追憶が痛々しいまでに感じられるものだった。
(C)W. Grzędziński/NIFC
なおいっそうの集中力をもって終楽章に突入。右手の輝かしく速度の速いパッセージの推進力が尋常ではない。情熱が突き動かす“Transcendental(超越的)な”、そして、まさに“神がかった”という言葉がふさわしい演奏だった。並びに座っているジャーナリスト・評論家陣の中には私同様に涙を浮かべていた人も多かった(!)。まさにこのライブ感こそが「コンクールの奇跡!」と呼べるものなのだろう。
3次演奏後のメディア対応には晴れやかな笑顔で現れた牛田。彼がワルシャワ音大で師事したピオトル・パレチニ氏との出会いについて聞かれ、「『先生には9歳の時に出会い、音楽の中にあるサイレンスを体現しろ』と言われた。それが今も自分自身の演奏の核になっている。私が音楽家へと進むのを導いてくれた存在」と答えていたのが印象的だった。
撮影=朝岡久美子
撮影=朝岡久美子
取材・文:朝岡久美子
なお、既報通り、第三次予選を通過して本選に出場することが決まった11名のうち、日本人は桑原志織と進藤実憂の2名のみとなった。彼女らの更なる健闘に期待したい。
公演情報
ショパン国際ピアノコンクール、第二次予選通過者が発表 日本人出場者は3人が第三次へ
https://spice.eplus.jp/articles/341411
ショパン国際ピアノコンクール、第二次予選を振り返り~注目コンテスタントをプレイバック!
https://spice.eplus.jp/articles/341442
https://spice.eplus.jp/articles/341515
▼記事まとめはこちら
https://spice.eplus.jp/featured/0000172838/articles
■ショパン国際ピアノ・コンクールHP(英語)https://www.chopincompetition.pl/en