音楽劇『レミング』観劇記~進化を遂げた再演~

レポート
舞台
2015.12.15
音楽劇『レミング』より (左より)溝端淳平、霧矢大夢、柄本時生 (撮影:谷古宇正彦)

音楽劇『レミング』より (左より)溝端淳平、霧矢大夢、柄本時生 (撮影:谷古宇正彦)

寺山修司の書いた戯曲に基づく音楽劇『レミング-世界の涯まで連れてって』が12月6日に開幕した。

物語は品川区の五反田から始まる。中華料理コック見習いのタロ(溝端淳平)とジロ(柄本時生)、そして畳の下ではタロの母親(麿赤兒)が農作を営む(?)下宿屋の仕切り壁が、或る日、忽然と消えた。大家に修理を依頼しても、なぜか下宿屋の存在そのものが否定される。壁のなくなった部屋には、奇妙な訪問者たちが侵入してくる。30年以上も同じ映画を撮り続けているという撮影隊と往年の大女優・影山影子(霧矢大夢)、精神病院の患者や囚人たち・・・。夢と現実、虚構と現実の境界が無化されてゆく中を、タロとジロは何処へ行くのか?

壁はそもそも防寒や保護のために作られたが、いつしか排他や隠匿の目的に転じることによって、個人の「内面」という虚構の神話が強化されてしまった。ならば壁が消えてしまった時、「内面」を維持できなくなった人々は方向感覚を見失い、旅ネズミ<レミング>のように死に向かって走り出すことになるのか? そんな問いかけが戯曲に込められている。

音楽劇『レミング』より

音楽劇『レミング』より

オリジナルの『レミング-世界の涯まで連れてって』は1979年5月に寺山修司の主宰した劇団天井桟敷によって晴海貿易センターで初演がおこなわれた。1982年12月には『レミング-壁抜け男』と改題され紀伊國屋ホールで再演。その翌年5月に寺山修司が亡くなり、同作品の追悼上演が横浜と大阪でおこなわれた後、劇団は解散となった。

時は流れ2013年、作:寺山修司、演出:松本雄吉(維新派主宰)、共同脚本:松本雄吉/天野天街(少年王者舘主宰)から成る『レミング-世界の涯まで連れてって』が<寺山没後30年>と銘打たれパルコ劇場で上演された。企画・制作は、パルコとポスター・ハリス・カンパニー。演出の松本雄吉は、七拍子ラップを多用する独自の表現スタイル(ヂャンヂャン☆オペラ)を駆使しつつ、その一方で天野天街が得意とする「夢」の作劇術をも劇中に取り込み、全く新しい寺山ワールドを再構築してみせた。

今年(2015年)は<寺山生誕80年>の記念事業の一環として、同プロダクションによる再演がおこなれることになった。ただし前回とは諸点で異なる。まず上演会場だ。今回は東京芸術劇場プレイハウスである。現在、同劇場地下のシアターイーストでは藤田貴大の演出する『書を捨てよ町へ出よう』が上演されている。つまり、東京芸術劇場の上下で寺山修司作品が二本同時に進行中なのだ。<生誕80年>を寿ぐために仕掛けられた、劇場による心憎い演出である。

音楽劇『レミング』より

音楽劇『レミング』より

上演会場といえば、「パルコ劇場は狭すぎた!」松本雄吉)という刺戟的な言葉が躍っている配布物(「PARCOレミング新聞」)を最近よく見かける。これまで維新派の壮大な野外スペクタクル劇で腕を振るってきた松本にとって、「世界の涯まで連れてって」を標榜する作品を見せるにしては、前回のパルコ劇場の大きさでは充分とはいえなかったのだろう。世の中には会場が広くなることで密度が下がる舞台も少なくないが、この『レミング』について言えば、東京芸術劇場プレイハウスという広い空間を得たことは正解だった。

PARCOレミング新聞

PARCOレミング新聞

それに伴い、都市の迷路を思わせるようなセットをはじめ舞台美術が、物量、高さ、幅など様々な点で前回よりスケールアップし、ときに役者陣と「絵」的に一体となりながら、随所で劇の視覚効果を高めたことは大きな収穫といえる。中でも、映画のフィルムが、機関車の走行のように水平に流れてゆくシーンの美しさは溜息が洩れるほど圧巻だった。

今回の再演ヴァージョンでは、主要キャストが刷新されたことも重要ポイントだ。まず、日常側の住人だったタロとジロを演じた溝端淳平柄本時生。見た目も演技も対照的なのに、面白いほどに息がピッタリと合っている。初日公演直前におこなわれた会見でも、二人は「(共演が)三回目」だがこんなに「ガッツリと(やるのは初めて)」などと声を揃えながら答え(もちろん偶然に、である)、取材陣を驚かせていた。溝端によれば、二人は劇中で声を揃えて発語する台詞が多く、稽古を重ねるうちに、普段でも話す言葉が意図せずして揃ってしまうらしい。私見を加えるならば、元々コックの役は寺山のオリジナル初演では一人の役だったものが、再演から二人に分裂・増殖した。溝端と柄本がまるで双子のような一体性を自然に帯びてしまうのも実はそんな経緯と関係があるのではないか。

(左より)麿赤兒、柄本時生、溝端淳平、霧矢大夢 (撮影:谷古宇正彦)

(左より)麿赤兒、柄本時生、溝端淳平、霧矢大夢 (撮影:谷古宇正彦)

同じ会見の中で、霧矢大夢は「日常と虚構が入り乱れたような作品ですが、私は虚構部分の代表格」と、自分の演じる「大女優」の影山影子を紹介した。まさしく影子は「映画」という大いなる「夢」に憑かれたまま、いかにも芝居がかった大仰な演技を常に続けている、狂気を抱える女だ。これを演じる霧矢自身の中にも宝塚月組トップスタア時代から続く「大女優」のエキスが染み込んでいるだけに、虚実の皮膜をスリリングに綱渡りしながら、影子のイメージを、これ以上の適役はいないと思われるほどの、堂々たる風格とリアリティを以て体現していた。もちろん歌唱力も抜群で、圧倒的に聴かせる

「…ワタシは…マバタク間、一瞬の闇の中に住む、カゲのように現れては消え、ゆらめいては(無に近付きながら)溶けてゆく…(中略)…キネマと呼ばれるカラッポのユメ」という影子の台詞がある。ここは天野天街が書いた(天野の別作品で似た台詞を聴いたことがある)。その詩情に改めて魂が揺さぶられると同時に、ミュージカル『ミス・サイゴン』で歌われる「夢は心の中の映画」という私の大好きな一節(「The Movie In My Mind」より)が思い起こされた。ここにおいて霧矢の演じる映画女優・影子は、「映画」そして、いなる「」と一体化した存在であることがわかる。

音楽劇『レミング』より (左より)溝端淳平、霧矢大夢、柄本時生

音楽劇『レミング』より (左より)溝端淳平、霧矢大夢、柄本時生

霧矢が「映画」や「宝塚」といった華やかな「天上」の虚構性から日常を侵犯する存在(現に舞台では高い場所から登場し、高い場所へ去ってゆく)ならば、一方で麿赤兒の演じる「母親」は真逆の方角、「地下」の虚構性から日常を揺るがす対照的な存在といえるだろう。

大駱駝艦を主宰する麿は会見で「私は大地の母です。アングラをやります」と述べた。文字通り、畳の下の「アンダーグラウンド」から頭部のみを覗かせては折に触れ息子のタロにお節介を焼く。髭を生やした白塗り顔のまま女装して母親に扮する麿の身なりは異形このうえない。かつて唐十郎率いる状況劇場の看板俳優であり、伝説的な寺山修司との乱闘騒動の際には、寺山・唐と同じ牢屋に入れられた経験を持つ彼が、今こうして寺山作品に出演していることの感慨深さも手伝い、やがて彼が畳下の地底から舞台上に這い出て披露する舞踏みたような動きを目撃した時には、わが胸の高鳴りを抑えることができなかった。

音楽劇『レミング』より (左より)麿赤兒、溝端淳平 (撮影:谷古宇正彦)

音楽劇『レミング』より (左より)麿赤兒、溝端淳平 (撮影:谷古宇正彦)

こうして今回の『レミング』では、「天上」的な非日常性の身体と、その対極たる「地下」的な特権的肉体が上下から、並外れた強度で日常性の「壁」を取り崩しにかかってくるのだった。台本も、美術も、そしてさらには音楽も進化を遂げた。今回、歌い手として気鋭のシンガーソングライター青葉市子が参加したこともあり、音楽担当の内橋和久は、主題歌ともいうべき「Come Down Moses」などの劇中歌を全面的に書き換えた。そして、それが大きく功を奏して、人々の耳にわかりやすく刻まれる「音楽劇」として仕上がった。

音楽劇『レミング』より

音楽劇『レミング』より

様々な職人やパフォーマーらが、それぞれの個性を発揮しながら一つの「都市」の夢を壮麗に紡ぎあげてゆく。その全体の監督・棟梁としての才腕を振える者として、やはり松本雄吉を演出に起用したことは大きかった。寺山と同時代の空気を吸いながらも、寺山ファミリーの外部にあった彼の立ち位置なればこそ、今回のように寺山のヴィジョンの輪郭を明確化する形で作品の再構築が成功したといえるだろう。

その松本を演出に起用したプロデューサーの一人、笹目浩之(ポスターハリスカンパニー/テラヤマワールド代表)にも思いが及ぶ。彼は青年の頃『レミング』を紀伊國屋ホールで観て、笹のような目が見開くほどの衝撃を受けたという。そして天井桟敷に入団することを決意した。しかし、ほどなくして寺山が亡くなり劇団は解散、その夢はあっさりと崩れ去る。やがて演劇ポスター貼りの会社を起業し、発展して演劇プロデューサーとなった。その道に進ませるきっかけとなった『レミング』の上演を、いまや考え得る最良の形で実現させるに至っている。彼の中で、若き日に頓挫したと思われた夢は、その実、今日に至るまで膨らみ続けてきたのだ。

…などと書けば、何やら感動的な締め括りを迎える気配も漂うが、必ずしもそうはゆかないところが寺山ワールドだ。もしかしてだけど、もしかしてだけど、『レミング』の関係者および私たち観客は、笹目浩之という「他人」の夢の中で生きてる、とは考えられないだろうか。だとしたら「私」とは何なのか? …そう、「私」という内面の解体、それこそが『レミング』の、そして寺山修司の、本質的な主題にほかならないのだった。

音楽劇『レミング』より (中央)麿赤兒

音楽劇『レミング』より (中央)麿赤兒

 
公演情報
音楽劇「レミング~世界の涯まで連れてって」

<東京公演>
■期間:2015/12/6(日)~2015/12/20(日)
■会場:東京芸術劇場 プレイハウス
<名古屋公演>
■期間:2016/1/8(金)
■会場:愛知県芸術劇場大ホール
<大阪公演>
■期間:2016/1/16(土)~2016/1/17(日)
■会場:森ノ宮ピロティホール

■作:寺山修司
演出:松本雄吉(維新派)
上演台本:松本雄吉/天野天街(少年王者舘)
■音楽:内橋和久
■出演:
溝端淳平 柄本時生 霧矢大夢 麿赤兒
花井貴佑介/廻飛呂男/浅野彰一/柳内佑介/金子仁司/ごまのはえ/奈良坂潤紀/岩永徹也/奈良京蔵/占部房子/青葉市子/金子紗里/高安智実/笹野鈴々音/山口惠子/浅場万矢/秋月三佳
■特設サイト:http://www.parco-play.com/web/play/lemming2015/


 

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