【短期集中連載】3つの「シン」から読み解く『シン・エヴァンゲリオン劇場版』 シンジは生きるという「sin(罪)」といかに向き合ったか

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2021.4.5

『シン・エヴァンゲリオン劇場版(以下本作)』が公開され、26年前に始まった「エヴァンゲリオン(以下エヴァ)」がついに円団を迎えた。

改めて振り返ってみると、「エヴァ」という物語は多くの要素を内包していた。ファンや識者による様々な言説の中で作品は育てられ、大きく膨らんでいった。本作も多くの視点で語り得る充実の内容であったと思う。

2016年、庵野秀明監督は『シン・ゴジラ』の「シン」の意味を問われた時、「観た人それぞれが好きに解釈していただいて構わない」と発言していた。今回の「シン」もきっと同様だろう。

ならば、この多くの要素を持つ物語を、様々な「シン」で読み解いてみたい。この全3回の集中連載は、筆者がとりわけ重要と感じた3つの「シン」を取り上げ、本作について掘り下げてみる。

選んだのは、「親」「sin(英語で罪の意)」そして「進」の3つだ。2回目の今回は、本作を「sin」の観点から見つめることにする。

※編集部注 本コラムには『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のネタバレが含まれております。ご注意の上ご覧ください。


 

 

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』には、「けじめ」とか「落とし前」と言った台詞が頻出する。

これは、25年も本シリーズを引っ張り続け、なかなか完結させることができなかったという作り手の気持ちが如実に込められた単語だろう。

同時にそれらの言葉は、その台詞を発するキャラクターにとって贖罪の気持ちの表れでもある。『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は、登場人物たちがいかに罪と向き合うかの物語だ。そして、彼ら・彼女らの贖罪のための行動を通して、人が生きることは罪を抱えることと同義であることを気づかせる。

連載前回では、本作を「親」をめぐる物語として読み解いたが、2回目の今回は「sin(罪)」をキーワードにし、この複雑な物語を掘り下げてみよう。

■シンジはいかに自分の罪と向き合う覚悟を決めたのか

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は、10分程度の派手なアバンの後、主人公シンジがうなだれて歩くシーンから始まる。『:破』でニアサードインパクト(ニアサー)の引き金となり世界を破滅させかけ、『:Q』で世界を取り戻そうとした矢先に、自らの軽率な判断で信頼していた渚カヲルを目の前で失ったシンジは、自責の念に押しつぶされている。

多くの人間を不幸にした罪の意識と疲労から、自動販売機の前にへたり込むシンジを、かつての友人、相田ケンスケが車のライトを照らし、迎えにくる。ここから第3村のパートが始まる。ライトで照らされるシンジはもちろん、これから彼に救済が訪れる暗喩だ。

第3村パートは、これまでの『エヴァンゲリオン』シリーズにはなかった要素が満載であることは「親」をテーマにした前回も触れたが、やはり「sin」の観点から見ても同様に新鮮さに溢れている。それは、シンジが現実の人とのやり取りの中で立ち直る姿を描いていることだ。いわゆる「旧劇」では、彼の救済は人類補完計画が発動中の精神世界で描かれたが、今作では、作中のカヲルの言葉で言えば、シンジは「リアルの世界で立ち直っている」のだ。

未曾有の事態を引き起こした自分に優しくしてくれる人間がいること、そして、アスカやアヤナミレイ(仮称)とのやり取り、ケンスケや鈴原トウジの言葉を通して、シンジは自分の「落とし前」をつける覚悟を決めていく。

トウジは「生きていくためにはお天道様に顔向けできんこともした」と語る。家族を守るためであり、そんな罪を背負っているからこそ、医者の真似事をやっているのだとも彼は言う。生きるためにはだれもが罪を犯さざるを得ない時があるのだ。トウジがそのように罪と向き合っていることを知ったことは、シンジにとって大きなことだったろう。

罪と向き合うのはシンジだけではない。ヴィレのリーダー葛城ミサトもまた、かつてシンジの背中を押したことを悔やんでいる。結果として、それはニアサーを引き起こし、加持リョウジを失うことにつながった。ケンスケは、ミサトがシンジをエヴァに乗せたがらないのはその罪の意識があるからではないかと指摘しているが、的を射ているだろう。そんな彼女は、ヴィレがネルフに挑む最終決戦の中で、最後までシンジの保護者であることを全うすることで贖罪を果たし、艦長の責務を背負って死んでゆく。

そして、最後に問われるのは碇ゲンドウの罪である。「子供は私に対する罰だと思った」とゲンドウは語る。その罰とは何のためのものなのか。ずっと孤独に生きてきた彼が他者と生きることを選び、その最愛の人を死なせた罪だろう。

そのことで、自分の苦しさしか考えられなかったことが、彼にさらなる罪を重ねさせていた。他者を拒絶してきたことが、本作の世界での災厄の発端であり、息子にも大きな心の傷を与えていたことに気が付けないでいた。それどころか、一緒にいない方がいいのだと養育を放棄し続けてきたのだ。

その罪を裁くのは、他でもない息子のシンジだ。そして、それは裁きであると同時に解放でもあった。『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は、父殺しの物語だと前回書いたが、それは「親(シン)」を殺し、「sin(罪)」を裁くという二重に「シン」的な行動だ。

父殺しは、権威に対する反逆や革命として用いられることがある。どんな国家や共同体においても、革命は大罪だ。だが、革命という大罪なくては新しい秩序は作れない。新しい世界(新世紀=NEON GENESIS)を創生するためには、避けて通れないのが父殺しという罪なのだ。

■人は生きるだけで他の命を奪う罪を背負っている

英語の罪には2種類ある。「sin」と「crime」だ。Sinは、宗教的な意味合いの罪で、crimeは法的な罪を指す。本作において宗教的な罪とはなんだろうか。

『エヴァンゲリオン』シリーズは、ユダヤ教とキリスト教由来の用語が多く使われている作品だ。これらの宗教で最も重要な概念が「原罪」だ。知恵の実を食べ、楽園を追放されたアダムとイブの子孫である人類は、生まれながらにしてその罪を背負っているというのが、キリスト教の考える原罪だ。人生の苦難は原罪の結果である。

本作の物語の核である人類補完計画は、差別も貧困もない世界を造り、人々の魂を浄化するという。それは、言い換えると原罪に苦しむ人類全体を救済するということになるだろうか。

しかし、本作は人類補完計画を最終的に否定する。この救済を否定するためには、人間は罪を背負っていきることを是とするしかない。それを是とするためにも、やはり第3村のシーンが重要になってくる。

シンジは、ケンスケにうながされて、食料の確保のために魚釣りをする。人間は食事をしなくては生きていけない。魚釣りはそのための行為だが、それは魚の命を奪うことでもある。

マハトマ・ガンジーは「わたしたちが身を置く場には、幾百万という微生物が棲息していて、わたしたちがそこにいるというだけで被害をこうむります。それでは、わたしたちはどのように身を処せばよいのでしょうか」とすら語る(『獄中からの手紙』森本達雄訳、岩波文庫、21ページ)。しかし、ガンジーはだからといって自殺してもしょうがない、そうやって誰もが罪を犯して生きるしかないのだと言う。

そういう悟りが本作にもある。ケンスケがシンジに言う「つらいのはお前だけじゃない」も、トウジの「お天道様に顔向けできんようなこと」も同じことだろう。誰だって罪を犯すのはつらい、しかしそこから逃げずに罪を犯す覚悟を持たなくては生きられない。

アスカはなぜシンジに怒っていたかもここで考えるべきだろう。シンジはアスカを「殺すことも助けることもしなかった」からだと気が付く。アスカを殺せば、アスカを殺した罪を背負うことになり、アスカを助ければ三号機の暴走は多くの人を殺しただろう。どちらにしても罪を背負うことになるが、『:破』の時のシンジは何もしないことで罪から逃げたのだ。

生きることは罪を犯して償うことの繰り返しだ(本作のタイトルにも反復記号がついている)。その覚悟を持てたからこそ、シンジはエヴァのない世界を望んで生きることを選べたのだ。だれもが罪人だとうことを自覚すること。成長するとは罪を自覚するということ。その自覚を持って初めて前を向いて人生を進むことができるのだ。

上映情報

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』

全国公開中
上映時間:2時間35分
企画・原作・脚本・総監督:庵野秀明
監督:鶴巻和哉、中山勝一、前田真宏
テーマソング:「One Last Kiss」宇多田ヒカル(ソニー・ミュージックレーベルズ)
音楽:鷺巣詩郎
声の出演:緒方恵美、林原めぐみ、宮村優子、坂本真綾、三石琴乃、山口由里子、石田彰、立木文彦、清川元夢、長沢美樹、子安武人、優希比呂、大塚明夫、沢城みゆき、大原さやか、伊瀬茉莉也、勝杏里
制作:スタジオカラー
配給:東宝、東映、カラー

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