室伏鴻追悼(2) 石井達朗「海外で観た3つの公演」
©BOZZO
【連載目次】
室伏鴻追悼(1) 麿赤兒「“非在の強度”が迫って来る」
室伏鴻追悼(2) 石井達朗「海外で観た3つの公演」
室伏鴻追悼(3) 中原蒼二「苛烈な無為」/渡辺喜美子「最期の状況」
[別れの言葉]石井達朗「海外で観た3つの公演」
森下:それでは続きまして、石井達朗さんからお別れのお言葉をいただきたいと存じます。石井先生、よろしくお願いいたします。
石井:皆さん、こんばんは。石井達朗と申します。私は、ここにいらっしゃるほとんどの皆さんが、たぶんご覧になってはいないのではないかという室伏の海外での公演をいくつか見ていますので、その思い出話などをしたいと思います。
最初に室伏さんの海外での公演を見たのは、インドのデリーなんですね。インドのデリーで、たぶん2000年ぐらいだったと思いますけれども、「日本のコンテンポラリーダンス」という特集がありまして、その時に招かれて行ったダンサーは黒沢美香と川口隆夫と室伏鴻だったんですね。本当に素晴らしい選択ですね。この3人を選んだのは、今、麿さんが話しましたけれども、かつて大駱駝艦で制作をしていた小沢(康夫)さんだったと思います。で、黒沢美香と川口隆夫はわかるんですけれども、室伏の舞踏がインド人にどう受け止められるか。おそらくインド人は室伏の作品は一番理解しないだろうと思っていましたら、3人の中で一番受けたのは室伏の舞踏でした。ただし、受け方が違っていまして、室伏か舞台の上で倒れるたびに、インド人は立ち上がって拍手するんですね(会場笑)。つまり、室伏が体で勝負してれば、もうインド人も体で反応するっていう、そういう率直な反応がすごく気持ちよかったですね。
その後で室伏さんを見たのは、これもちょっと特殊な状況ですけれども、インドネシシアのパリ島でバグース(アナック・アグン・グデ・バグース:Anak Agung Gede Bagus)という人と一緒に踊ったんですね。これは、私、室伏鴻の公演をずっと10何年か観てきまして、室伏さんが踊りにくそうに踊っている唯一の公演でした。室伏鴻があんなに踊りにくそうに踊っているのを初めて観たという感じでした。バグースという人は、バリ舞踊の大家でマンダラ(アグン・マンダラ:Anak Agung Gude Ngurah Mandera,1905-1986)という人の息子なんですね。マンダラという人は1931年にパリの万博(パリ植民地博覧会)でバリ舞踊を公演して、アントナン・アルトーなんかもそれに大変感激したという逸話のある人で、その息子の一人なんですけれども。まぁ、バグースの持っている庭園の中で、バリのガムランで踊っていたんですね。ですから、室伏さんはいつも、もちろん自分のパフォーマンスの時には、自分で慎重に音楽とか、あるいはノイズ系の電子音とか慎重に選んでいたんですけれども、その時ばかりはガムランの音楽で踊ってまして、大変やりにくそうな感じがしました。その時には、ここにいました鈴木ユキオさんもそこにいましたし、今コンテンポラリーダンスで活躍している岩渕貞太もそこにいたんですけれども、まぁ彼らたちからもその感想を聞いたことはないので、ちょっと彼らからも感想を聞いてみたいと思います。
で、一番最近になって室伏鴻を見たのは、まぁたぶん4年ぐらい前ですかね。スペインのバルセロナで、『ケンタウロスとアニマル(Le Centaure et l'animal)』っていう作品で、これはヨーロッパの主要な劇場を2年あまりにわたって公演をしていて、本当に日本で公演されなかったのは大変残念なんですけれども。
【参考チャート】Googleトレンドにみる「Ko Murobushi」キーワード検索
※2011年3月は『ケンタウロスとアニマル』欧州ツアー、2015年6月は急逝した時期
石井:ジンガロっていうと「騎馬オペラ」と言われていますけれども、馬のパフォーマンスをしているジンガロっていうグループがあって、それを率いているのはバルタバスという人ですけれども。このジンガロは1990年代には、が2年先まで取れないというぐらい、大変ヨーロッパでも人気のある。“曲馬”というと誤解がありますけれども、なにしろジンガロでは馬と人間が24時間一緒に住んで、1年に1作か2作の作品を創るっていう、まぁ例のないグループですね。で、そのジンガロを率いているバルタバスっていう人は、舞踏に大変興味を持っていまして、彼は1980年代の後半頃から、パリで舞踏公演はよくありましたから、舞踏公演をずっと観ていて、舞踏家と一緒にやりたいという希望は持ってたらしいですね。彼が室伏鴻をそのパートナーに選んだのは、本当にいい、素晴らしい戦略だったと思いますけれども。で、バルタバス自身も、普段は馬と人間の集団的なパフォーマンスですから、自分が個人でデュオ公演をするということは、バルタバスもまったく経験がなかったんですね。しかし、バルタバスも室伏の映像を見て、そして室伏の公演にもヨーロッパで駆けつけて行ったようです。そして、室伏とぜひ一緒にやりたいということで、これが実現しまして、ヨーロッパのいろんな劇場を回っていたんですけれども、私はバルセロナの公演に行きました。
そして、私はその時は、それを見るために行ったので、同じ作品を3日間連続で見るっていうことを、初めての経験をしましたけれども。あの、室伏は毎回少しずつ違うんですね、ま、当たり前のことですけれども。ものすごくよく考えて、公演に毎回臨んでいるんだなということがよくわかりました。それから、私が一番興味を持ったのは、バルタバスがジンガロでやっていることというのは、あのまぁ世界中だれも…、そのいわゆるサーカスとはまったく違うんですね。サーカスっていのは曲芸を見せるんですけれども、バルタバスがやっていることっていうのは、動物と人間の親和力っていうものをどんな風にパフォーマンスにできるかっていう、非常にユニークなことをやっているんです。で、そのバルタバスと室伏が、うまく一緒にでできるわけないと、私は日本を発つ前から、一体どんなことをやっているんだろう? とすごく不思議でしょうがなかったんですね。しかし、ヨーロッパでいろんな劇場での公演は非常に成功しているという話は聞いていましたので。で、実際に公演を見て、なるほどという風に思いましたのは、バルタバスはデュオ公演でありながら、自分は自分、室伏は室伏というやり方で、一つの作品を創ったんです。ですから、室伏はいま、この映像で見た、まさに自分のソロ公演をやるような感じで踊っていました。バルタバスはいつものように馬に載って、まぁそれはデュオ公演と言いましても、馬一頭がそこに登場するんですね。ですから、バルタバスはバルタバスのいつものパフォーマンスをして、室伏はいつもの舞踏をしました。
【参考動画】バルタバス/室伏鴻『ケンタウロスとアニマル』
※2012 MC93 Maison de la culture
石井:いま、ここに、ずっと前半、砂がずっと天井から落ちてましたけれども、それを見ているとグッときてしまいましたが、砂の下に室伏がいないというのはすごい非常に寂しかったです。というのは、そのバルタバスの作品でもそういうシーンがあるんですね。まぁいま、麿さんがおっしゃったように「不在の強度」と言うか、ますますそういうものがその強く感じられました。まぁ、その公演で関心したのは、私は室伏も素晴らしいけれども、バルタバスも素晴らしいなと思ったのは、あの、バルタバスは自分が中心になって、舞踏という何かエキゾチックなものをうまく利用しようというようなところはまったくなかったですね。バルタバスはあれだけヨーロッパでは神話的な存在と言ってもいい人ですけれども、そのパフォーマンスのやり方というのは、舞台前面の3mぐらいですかね、そこは室伏のスペースで、室伏はそこでいつもの室伏のパフォーマンスをするんですね。で、舞台後半(後面)のたぶん3/4ぐらいですかね、そこは馬が登場するので、砂が敷き詰めてあってっていう感じで、つまり、2人の世界が出会うことなく進行して。最後にどこかそこに出会いがあるように暗示して終わるということでした。
以上の3つの印象をお話ししたわけですけれども、最近になってですね、室伏が亡くなってから、私は初めて、室伏のマネージャーの渡辺喜美子さんが「室伏の住んでいたアパートをちょっと見ておいてほしい」ということで、今までの付き合いの中では彼の住まいというものは、いまちょっとここ(映像の中)にも写っていましたけれども、訪れたことはなかったんですけれども。まぁ、室伏と親しくしていた人たちは、彼が大変な読者家で、特に現代思想とか哲学とか、あるいは天皇制とか差別の問題とか、いろんなことに興味を持って、すごい本を読んでいるということはご存知だと思います。私もそういうことは知っていましたので、室伏のアパートに行って、そういう関係の本がずらっとあるということにはあまり驚かなかったんですけれども、その時に渡辺喜美子さんが室伏のノート類ですね。それは要するに哲学書や現代思想の本がずらっと並んでいることには驚かなかったんですけれども、室伏がずっと書き綴っていたノート類がずらっとあるんですね。いわゆる備忘録です。そして、非常に個人的な記録です。それをじっくりとは読まなかったんですけれども、それを見て、パラパラッとは見せてもらいまして、室伏は普段、本当にただ単に読者家ということではなくて、自分で考える人だったんだなということを強く思いました。
これはあの、私は麿さんほど室伏と長い付き合いではありませんけれども、でもたぶんこの13年ぐらいは麿さんよりも室伏とよく会っていたかもしれません。で、そういう室伏からも、あるいは舞台の室伏からも見えなかった部分なんですね。つまり、そのノート類をパラパラッと見ただけなんですけれども、舞踏についてとか、ダンスについて、それから身体でいったい何を表現するのかとか、それから今の社会の流れと自分の置かれている状況に対するすごい矛盾とか、自分がこれからどういうところに進めばいいのかという試行錯誤とか、そういうことを書き連ねているんですね。で、そこで本当にどうしても、麿さんとか室伏というと、私の中では「無頼派」という感じがして、まぁおそらく(室伏も)笑っているとは思うんですけれども、そういう無頼の風情を持っている数少ない舞踏家だと思いますけれども。で、室伏に関しては肉体派ということはね、そういうことは誰でも感じるかと思うんですけれども、同時に室伏は読者家であって、そして、すごくよくものを考える思索の人であったという感じがします。
ホール入り口に設置された献花台 ©Hiroshi Tsutsumi
石井:いつだったか、2〜3年前ですかね? Facebookで室伏が「東京新聞を読もう!」という風に。「あれ、いったい何のことか」と思いましたら、これは東京新聞だけで原発ということに対して非常に批判的な姿勢をはっきり出しているという、そういうことがあったりらしいですね。まぁ、そういうことも含めて、非常によくいろんなことを考えている。それもなかなか見えない部分でしたけれども、そういう部分と、彼は舞台で自分の身をさらすっていう接点、その接点があるのかないのか、あるんだったらどうな風にできるのかということを、いつも模索していたんではないかと思います。で、彼が亡くなって本当に大きな空白でてきてしまって、その空白っていうのは、いまだにまったく埋まりません。しかし、まぁそれを少しずつ埋めて行くのが、残された我々の作業であるかもしれません。ありがとうございました。(拍手)
森下:石井先生、ありがとうございました。土方巽が亡くなってから、室伏さんはヨーロッパから日本に戻って来られて、日本に拠点を作ろうされていたことから、石井先生は室伏さんを支援されてきたかと思います。室伏さんも踊りを続けていくにあたって、そのことは大変な励みになったかと思います。石井先生、ありがとうございました。バタバタと室伏さんの日本公演も実現してほしかったなと思います。
ちょうど、最後の旅になりましたブラジル行きの前夜に、私のところに電話がありまして、「12月にパリに来い」というんですね。おそらくパリ公演、これも詳しくはお話できません、このパリ公演が「日本では実現できないかもしれないから、おまえ、パリに来て観ろ」ということだったのかもしれません。そんなことは今まで一度もなかったんですけれども、そういうこともありました。これも実現できなかったことは本当に残念だと思います。
■日時:2015年8月5日(水)
■場所:草月ホール
■発起人代表:麿赤兒
■発起人:天児牛大/中原蒼二
■日時:2016年2月18日(木)~22日(月)
■場所:横浜赤レンガ倉庫1号館(045-211-1515)
http://www.ko-murobushi.com/outside-2015/
2015年6月18日、メキシコ市にてブラジルのサンパウロなどでの公演を終え、ドイツでのワークショップに向かう途中、乗り継ぎ地であったメキシコ市の空港で前8時(日本時間午後10時)ごろに倒れた。ヘリコプターで病院に搬送されたが、午前10時5分(現地時間)に心筋梗塞のため、亡くなった。享年68歳だった。