「イマーシブ・シアターの到来が意味するもの」 by 中山夏織 【特別企画:観客参加型演劇】

特集
舞台
2016.8.22

『サロン・プロジェクトThe Salon Project』

『The Salon Project』

『The Salon Project』

  劇団自体はこの作品を「イマーシブ・シアター」と呼びはしなかったが、たしかに「イマーシブ・シアター」と呼べる作品が、2011年10月、エディンバラのトラバース・シアターで初演された。デザイナーで演出家スチュアート・レイングStuart Laingが1998年に設立した「アンタイトルト・プロジェクト」というフリーランスの芸術家、プロデューサーたちの集団による『サロン・プロジェクト』である。もとよりレイングの活動は、視覚と体感に訴える演劇である以上にイベント的な要素で特徴づけられてきたが、このプロジェクトは究極的なまでの観客の参加を求めた。

  購入の段階で、観客は自らの身長、体重、バスト、ウエスト、ヒップ、靴の各サイズを申告する。劇場に指定された時間に到着すると、特設の衣裳部屋へ案内され、時代の衣裳を着せられるだけでなく、化粧、アクセサリー、ヘアメイクも施された後、19世紀末のパリの社交界のサロンを模した純白の空間へと導かれる…。観客、俳優、音楽家、スタッフ、そして批評家までもがその時代の衣裳をまとい、サロンを構築する。それだけなら時代物のテーマパークと大きくは変わらないだろう。だが、レイングが構築したサロンは、自分たちから一歩抜け出て架空のアイデンティティをもって、21世紀の今日と未来が直面する課題を、サロンの自由な空気のなかで考える体験の場へと転換された。音楽、美術、画像、レクチャーといった知的、かつ政治的、そしてプロボカティブな演劇的遊びの要素が加えられて、サロンは、一気にコンテンポラリー・アートの様相をも示す。ある瞬間、観客は自らの存在そのものがインスタレーションの一部となっていることに気づく。

  ちなみに、『溺れる男』では観客による撮影は一切禁止されていたが、『サロン・プロジェクト』では観客も撮影が許された。また、オフィシャルな写真も、毎公演後、サイトで公開され、観客にダウンロードを許した。通常、オフィシャルな写真の使用は、アーティストら関係者にのみ許されるものだが、『サロン・プロジェクト』はすべて観客のものであると位置づけた。この英断(と呼ぶべきだろう)は、観客同士のあいだにコミュニティを生みだす効果をもたらした。観客はその写真を手にしながら、その体験を一生忘れることはない。

2つの『アルマ・メーターAlma Maters』

  『サロン・プロジェクト』の初演された1年前の2010年11月、グラスゴーで「IETM-国際舞台芸術ミーティング」が開催された。市内30か所で、様々なショーケース・イベントや会議が展開された。ユニークだったのは、数多くのサイト・スペシフィック芸術イベントを含んでいたことだ。その中でもとりわけ評判を呼んだのが、スコットランドの歴史的デザイナーのレネ・マッキントッシュの設計・デザインで知られる「スコットランド・ストリート学校博物館」で繰り広げられた、二人の若い芸術監督が担う劇団フィッシュ&ゲームFish & Gamesの『アルマ・メーターAlma Mater』である。

『Alma Maters』

『Alma Maters』

  会場は、現在は博物館になっているが、もとは学校。いかにも学校の体裁とマッキントッシュのデザインが共存する空間である。観客は、約15分毎に一名ずつ、その空間に招かれる。手渡されたiPad上の映像と、ヘッドホンから流れる音楽に導かれて、その博物館の空間を歩いていく。ときに、立ち止まり、その「空間」が内包する物語を、映像の中に見る。目の前にある現実と、iPadのなかの映像―パフォーマーたちは映像の中に息づいている―が交錯するなか、観客は、若干の眩暈とともに時空を飛ぶ。 ふと、思うのは、その場にパフォーマーのいないパフォーマンスを「舞台芸術」と呼ぶのか、という抜本的な疑問とともに、ミュージアムでの体験を生きたものに変える演劇の力である。

  この成功を受けて、助成機関スコットランド芸術評議会(当時)が、劇団に要望したのが、会場と素材が博物館そのものではツアーしえないので、このiPadシアターをツアーしうるものにすることだ。そして、翌年夏のエディンバラ・フェスティバルで、上演された『アルマ・メーター』は、学校の寮の7歳の少女の部屋を暗示する、ベッドの置かれた部屋-ハコ―の中で繰り広げられた。
  観客は、一人ずつ、iPadとヘッドホンを装着し、狭いハコの中に案内され、映像と音楽により、7歳の少女の学校生活とその周辺のイメージを追体験するのである。狭い空間に一人閉じ込められ、スピリチュアルな側面をもつ映像と音楽に取り囲まれると、それなりに怖い体験ともなったらしい。

体験の質を問う

  公演そのものの質の高さが求められるのはいうまでもない。しかし、観客一人ひとりにとっての体験の質は、これまでほとんど問われてこなかったのではないだろうか? アンケートに綴られるコメントは、観客の体験の本質をついているのか? また、観客はどれだけその公演の体験を覚えているのか? どのように? 劇場をでて、「面白かった」という一言を発した後、それ以上の何も覚えていないことに気づくことはないだろうか? 鑑賞という体験が、観客一人ひとりの生活を何らかの形で変えるものになるのか? もちろん、一過性や予定調和の娯楽としての演劇を否定するものではないが、イマーシブ・シアターの登場は、単に消費されるだけの作品を生産し続けてきた演劇ビジネスへの警鐘と思われてならないのだ。 

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