AKB48の木崎ゆりあがトランスジェンダーを熱演! 家族の葛藤と愛を描く東京マハロ『紅をさす』観劇レポート

レポート
舞台
2016.12.21
東京マハロ 第18回公演『紅をさす』

東京マハロ 第18回公演『紅をさす』

東京マハロの最新公演『紅をさす』が2016年12月7日~14日の期間、東京芸術劇場シアターウエストで上演され全11公演に幕を閉じた。東京マハロは、2006年に矢島弘一(主宰)によって旗揚げされ、今回の『紅をさす』まで全18公演はすべて脚本・演出を矢島が手掛けてきた。他に劇団員は平野勇樹、西野優希、春木 生の3名のみ。そして魅力的な外部俳優の客演と、つい引き込まれてしまう物語の面白さなどにより、目の肥えた演劇好きから演劇に初めて触れる人まで、広範な観衆を虜にしてきた。そんな彼らの新作『紅をさす』をレポートする。

観劇後、胸の中にはひっそりとした感動が残った。カーテンコールの拍手喝采が心の奥底に残っていたせいかもしれない。あるいは、舞台で生まれたほんのりとした“さびしさ”、親戚という血筋の“煩わしさ”の一方で家族の“優しさ”に包まれることができる、正統な“社会派”の“ホームドラマ”だからかもしれない。

劇の登場人物は、ほとんどが田尾一家の家族。“さびしさ”とは「家族の死」をモチーフにしており、また、舞台のテーマである「解決できない答え」がそこにはあるからだ。“優しさ”とは、家族に流れる通奏低音であり、誰もが心の内に葛藤を抱えながらも、誰もが傷つかない、誰もが悲しまないように正直に生きようとする一家の実直な姿がそこにあるからだ。親戚の“煩わしさ”というのは、みなさんも経験があるかもしれない。例えば、祝儀の問題、家族間の意見の相違、慣習の押しつけ、そういった古き伝統がうざったいからだ。

また、“社会派”と述べたのは、今まさに社会的な議論を巻き起こしている「LGBT」を扱っているからである。LGBTとは、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー(出生時に診断された性と自覚する性が異なる人)のこと。この物語では特にトランスジェンダーを扱っている。LGBTという言葉が一般化したのは、2006年の第1回ワールドアウトゲームズでのモントリオール宣言以降、国際連合をはじめ様々な国際機関に認められ、すでに世界的な標準語になっている。日本においては(諸説あるが)2014年のNHK「週刊ニュース深読み」での特集から広まったとされる。

“ホームドラマ”と云ったのは、観終わった後、涙が自然に出てくる、あるいは舞台の途中で思わず泣いてしまうほどの、兄弟、家族の感動的なシーンがいくつも散りばめられて、家族とは一体なんなのかと考えさせられる舞台だったからである。

この物語の主人公は、とある私鉄沿線の一軒家に暮らす田尾龍之介(金替康博)と田尾瞳子(福田ゆみ)の子供で7歳の田尾栄五郎(中川慶二)たちである。彼らはそれぞれに問題を抱えながらも表向きは平和に暮らしていた。だが瞳子の母がとある病を患ったすえ、年の瀬に亡くなってしまった。通夜当日には、親戚一同が集まる。瞳子の長男で母の最後を看取らないことを瞳子に責められるハワイ在住の兄夫婦、子供ができないことを密かに悩んでいる妹夫婦、いとこに密かに恋をしている女の子、さらには龍之介の兄夫婦までも集まる。

最後に近親者が瞳子の母の口に口紅を塗る、つまり「死化粧」をしようとなったときに話が一転する。栄五郎が「僕は自分の口に口紅を塗りたい」と言い出すのだ。みんなはなんとなく知っていたことがわかるような物語の構成になっているが、栄五郎がトランスジェンダーであることをはっきりと悟る。

マーティン・シャーマンがナチス支配下における同性愛の迫害を描いた『BENT』のように、昔のセクシャル・マイノリティー問題を扱った舞台を見るならば、心は痛めつつも、どこか遠巻きに観ている自分がいるような気もする。けれど、現在進行形の現代劇として扱うのは、作・演出の矢島弘一にも相当の覚悟が必要だったと思う。

現代の人々は、セクシャル・マイノリティーの問題に敏感だ。そういうテーマを、家族のホームドラマ、誰もが感情移入できる舞台に仕上げたことは実に見事だった。矢島は「(マイノリティーのセクシャルな問題を扱うが故に)少しでも重くしないためには、そこにある人間関係をしっかりと描ければ」と語っていた。だからであろう、微妙な人間関係を、繊細に、時に大胆に、演出できていたと思う。

舞台は唾さえ飲み込めないほどの恐ろしい静寂とともに始まった。舞台装置は静かな母屋から外れたとある簡素な一室。そこでは、成長した栄五郎(市川知宏)とその恋人(カノジョ、実はカレシ)である笑麻(木崎ゆりあ)が棺桶を囲んでいる。幾つかの会話が交わされたのちに暗転、集まってきた喪服の人々による会話が徐々にドタバタの様相を呈していく……。このあたりの繋がりは最後まで目を離せない。「そうか、そうくるか」といちいち膝を打ちたくなるほどの仕掛けがあり見応えのある舞台だった。

栄五郎は、7歳にしてすでに自分は女の子でありたいと望み、小学校でもいじめを受けたり、さまざまな問題を起こしていた。これを子役の中川慶二が実に上手に(女の子らしく)素直に演じていた。母の瞳子は男の子を産みたいという夢が叶ったものの、栄五郎の問題を知って、「もし初めから女の子を産んでいれば?」と愕然としてしまう。瞳子役・福田ゆみの凛とした佇まいは、母であることの尊厳と葛藤を見事に表現していた。そんなふたりの葛藤に、なんとも上手く接してあげられない瞳子の夫、龍之介のやきもきした性格を、金替康博がとても生き生きと演じていて、思わず身を乗り出して、「早くなんとかしてやれよ」とついつい親戚のおじさん気分になってしまった。

私的ベスト1位は、東京マハロの西野優希である。いとこ(福澤重文)=だらしない男の子(つまりダメ男)に惹かれてしまうダメ女を演じた彼女のコメディエンヌぶりは腹を抱えて笑ってはいけない空気なのに、思わず笑えてしまうのだった。

さらに素晴らしかったのは、舞台初挑戦で笑麻を演じた木崎ゆりあ(AKB48)の演技だ。彼女(彼)も実はトランスジェンダーで、自分が女の子しか愛せないこと、しかも付き合うことになるのが、すでに心は女性である栄五郎(見た目だけが男性)という実に複雑で難しい役柄を、口跡よく、時に物悲しく、ちょっとお茶目に、それでいて力強く演じていた。

もちろん、力強さは他の演者も負けてはいない。そう、田尾家すべての人は、互いが互いを受け入れようともがきながら奔走し、最後には世間とは違った価値観でも心を曲げずに受け入れる。そのドラマが最後にとてつもないカタルシスをもたらすのだ。俳優の演技とスタッフワークの妙技によって生まれる静かな感動。それはやはり本編を観た人にしか伝わらないものでもある。

帰路の池袋駅。多くの人が改札に駆け込んでいく。池袋駅は1日に55万人が利用するメガ・ステーションだ。20人に1人がLGBTの問題に悩んでいるという現代において、もしかしたら、ここにも、あそこにも、そんな悩みを抱えたマイノリティーと言われる人たちが存在しているのだろう。そんな誰にも言えない悩みをあぶり出してくれ、私たちはどう向き合うか、舞台を通して提示してくれた傑作ホームドラマだったと改めて、ひしひしと感じることができた。


 
(取材・文・撮影:竹下力)
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