「いま」聴きたい気鋭のヴァイオリニスト 大江 馨 ―チャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲」の新境地に挑む―
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大江 馨
クラシック音楽家にとって登竜門ともいうべき「日本音楽コンクール」のヴァイオリン部門で、大江 馨(おおえ かおる)が第1位を獲得したのは大学の二年生のときだった。同時に、聴衆からの投票で選ばれる「岩谷賞」、全部門を対象に最も印象的だった演奏に対して贈られる「増沢賞」も受賞した。慶應義塾大学で法学・政治学を学びつつ、のことである。まさに博学多才。ヴァイオリニストとしての大江は、日本音楽コンクール以外にも横浜国際音楽コンクールや日本演奏家コンクールで第1位を獲得するなど、輝かしい受賞歴をもつ。今後、国際的な活躍が期待される「いま」聴いておきたい若手演奏家の一人であることは間違いない。その彼が、ゴールデンウィークの恒例イベントとなったN響ゴールデン・クラシックにソリストとして登場する。今回、演奏するのはチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調」。華やかで雄大な楽想に、ロシア的な情感をたたえた美しい旋律。名曲として親しまれてきたこの作品を、彼はどのように描き出してくれるのだろうか。現在、大江はドイツに音楽留学中だが、一時帰国した際に公演への意気込みを聞いた。
大江 馨
チャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲」の魅力
素晴らしいオーケストラ、指揮者、そして会場で演奏できることがとても嬉しいです。ヴァイオリン協奏曲はたくさんありますが、なかでも、このチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲は、華やかさとスケールの大きさでは随一と言っても過言ではない。チャイコフスキーらしい抒情的な旋律に溢れるこの作品は、ヴァイオリン協奏曲のなかでも大好きな曲で、僕自身、演奏することをとても楽しみにしています。
この曲は、映画やドラマのサウンドトラックとしても広く使われ、誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。むろん、多くの有名ヴァイオリニストが数々の名演を残している。
第1楽章では、情感あふれる主題が印象的です。一つひとつのフレーズが長いのですが、きっと、それがスケールの大きさにも繋がっていると思います。もちろん、その中で緊張と弛緩が繰り返されるわけですが、フレーズの終わりに辿り着くまでがとにかく長い。それがこの曲の魅力であり、演奏する上での難しさにもなっています。
大江 馨
これまで弾いてきた協奏曲のなかでも、チャイコフスキーの作品は、フレーズを長く引っ張っていくだけの、集中力と体力とが最も必要とされるそうだ。大江は、「ロシアのように寒い地域の文化にある『長く寒い冬を耐えに耐えて、暖かい季節が巡ってくるのを待つ』というメンタリティー」がこの作品に表れているのではないかと語る。彼の演奏は、チャイコフスキーの魂に迫り、広大なロシアの大地すら感じされてくれるダイナミックなものになるかもしれない。
「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調」は、チャイコフスキーから初演を依頼されたヴァイオリニストのレオポルト・アウアーに演奏不可能と言わしめた難曲。しかし、大江にとって技巧的な面は大きな問題ではないらしい。
他のヴァイオリン協奏曲に比べて格段に難しいとは感じていません。チャイコフスキーは、作曲上の弟子であり、親しいヴァイオリニストでもあったイオシフ・コーテクの意見を聞きながら作曲を進めました。書簡の中にも「コーテクに任せる」といったことが書かれているように、コーテクは、この作品が作られる過程にかなり深く関わっていました。そして、コーテクは自らが弾くことで演奏が可能かどうかを常に確かめていました。初演の前に、この作品を弾ける人が既にいたということです。その意味でも、言われているほど超絶技巧ではないと思っています。
大江 馨
作曲家がどのように考えていたか、原点に立ち戻る
若くして多くの受賞歴をもつ大江の大学時代は、ユニークだ。政治学に興味をもち、慶應義塾大学法学部の政治学科で政治哲学や思想を学んだ。同時に、桐朋学園大学にも通い、音楽を深めた。「政治」と「音楽」は、傍目にはあまりにかけ離れた世界のように思われる。しかし、彼にとって二つは共に興味の対象だった。「役に立つから二つを両立させようとしたわけではなく、とても自然な成り行きでした」と語る大江は、稀有の才能の持ち主である。
人間にとって、何が正しくて、何が正しくないのか。そういうことを根本から議論し、考えていく学問から、答えのでないものを考える術を学びました。答えのないものを頭で考えるのは好きです(笑)。ひょっとすると、音楽にも通じるところがあるかもしれないですね。
現在は、ドイツ・フランクフルト近郊にあるクロンベルクという中世の面影が残る美しい街に音楽留学中の大江。世界的ヴァイオリニストとして知られるクリスティアン・テツラフの下で演奏に磨きをかけると共に、時間を見つけてはオペラやコンサートに足を運ぶ音楽三昧の生活をしている。
今はドイツで完全に音楽漬けの毎日。やることが音楽ひとつになったから、音楽に以前の倍の時間がかけられて、倍の成果が出るかというと、そうでもない。大学生の頃は、確かに時間のやりくりが大変なこともありましたが、やるべきことが二つあると、頭の中でマネージメントして、それぞれにかける時間が、案外、リフレッシュになったりするんです。
テツラフ先生から特に大きな影響を受けたのは、楽譜へのアプローチの仕方と読み込み方ですね。有名な曲には、楽譜に書かれていない演奏習慣がたくさんあります。今回演奏するチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調」も、多く演奏されてきましたから、「こういうふうに弾く」という伝統的なルールがあります。しかし、それらを、一旦、ゼロにして、まずは作曲家がどういうふうに考えていたのかという原点に立ち戻りたい。もちろん、頭の中には何百回も聞いて馴染んだ演奏習慣があります。でも、テツラフ先生に頭をまっさらにした状態で音楽に向き合うということを教えられました。
チャイコフスキーの楽譜を深く読み込み、時には、演奏習慣にとらわれず、自分の欲する音楽を演奏する勇気が必要だと語る大江。その姿勢は、彼の枠にとらわれない生き方に通じているのかもしれない。この名曲をどう読み解くのか。ドイツでの経験も含めて、作品の本質を浮き彫りにしてくれる好演が待ち遠しい。
大江 馨
取材・文=大野はな恵 写真撮影=安藤光夫